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鮎川義助とコロムビア、ビクター4

2014-01-24 10:10:02 | 音楽
 次は、矢野一郎(1899-1995)。

 第一生命の創業者、矢野恒太郎の実子。東大卒業後、三菱銀行を経て1923年に第一生命に入社、47年に石坂泰三の後継社長へ就任、59年から会長。

(鮎川さんは)我国でいち早くテレビジョンの将来というものに着目されたことである。昭和の初め頃には日本に於ける蓄音器やレコードの製造会社としては、米国のRCA系のビクターと、英国のEMI系の日本蓄音器(商会)の二社が主なものだった。前者はRCAが六割、住友、三菱が四割という株主構成、後者は英国コロムビアが大株主で、その他は外人日本人の個人名義の株が少しあったように記憶する。何れにせよ、鮎川さんはこの両社を日産の傘下に入れる決心をされて、第一生命をパートナーにしようとして説得された。

 お話の要点は、『日産が六割、第一生命が四割の比例でこの両者の株を占有して、安定した形で育成したい。狙うところは決してレコードや蓄音器ではない。実はテレビジョンというものだ。(略)英国も米国もすでに巨大な研究費を投じて開発に取り組んでいるが、残念乍ら貧乏な日本ではその真似は出来ない。と言ってつんぼ桟敷に坐っていては世界の進歩から取り残されてしまう。/そこで考えついたのがこの両社だ。これを手に入れれば自然両方の親会社がやっているテレビ研究の情報も手に入るだろう。それも頼りにし乍ら、身分相応な研究をやって行きたい。/幸いなことに両社共今非常に高い利益率を上げているから、その一部を割愛して研究費の財源にすることが可能だ。』(矢野一郎「創意に満ちた若さ」、前掲書、1968)


 技術者出身の鮎川らしい発想であり、一挙に市場を占有しようというM&A経営戦略は現代的である。矢野の回想は具体的であり、真相はここにありそうだ。

 次は、清水与七郎(1885-1983)。

 第四高等学校を経て東大電気工学科卒業後、逓信省技官から1919年に東京電気へ入社。31年、副社長に就任。戦後は52年に日本テレビ放送網の設立から関与し、専務に。55年から67年まで社長。

「鮎川さんはずっと以前、アメリカでもまだ実用化されていないころから、テレビジョンの将来について強い関心を持っておられ、やがて日本でもテレビジョンを開始するときの準備として、テレビジョンともっとも関係の深い音楽工業に着目せられ、ビクター、コロムビア両会社の株式の大半を獲得された」(清水与七郎「飽くまで筋を通す鮎川さん」、前掲書、1968)

 4人目は、正力松太郎(1885-1969)。

第四高等学校を経て東大法学部卒業後、内閣統計局、警視庁へ。四高で清水与七郎と同期のはずである。1924年に虎の門事件で免官。読売新聞社を買収し社長に就任。戦後は52年に日本テレビ放送網社長、55年に衆議院議員当選、56年原子力委員長、科学技術庁長官。58年読売新聞社社主、読売テレビ放送会長。警察官僚から読売新聞社、日本テレビ・グループの盟主となった超大物である。

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