http://diamond.jp/articles/-/47645?page=3
ビクターも日蓄=コロムビアも欧米のマスター音源を国内プレスした。都市の中間層を中心に、伝統的な邦楽のほか、クラシックなどの洋楽を大量に販売している。ビクターは流行歌(歌謡曲)の大量販売に早くから乗り出し、設立の翌1928年には佐藤千夜子の歌唱で「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)を発売し、数十万枚を売り上げたそうだ(藤原義江も吹き込んでおり、後年の合計数)。
ビクターは1929年に再び佐藤千夜子の「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)で25万枚という大ヒットを飛ばしている。日蓄=コロムビアも流行歌へ本格的に乗り出し、ビクターとコロムビアの戦いが昭和初期に続くことになる。これは稿を改めて報告しよう。
この1929年に、三菱と住友の出資を仰ぎ、米国ビクターとの合弁会社に変えている。これはビクター本社による現地化の方策だったようだ。同時期にRCAがビクター・トーキングマシンを買収し、RCAビクターと社名変更している。RCAはもともとゼネラル・エレクトリック(GE)からスピンアウトした会社で、NBCの親会社でもある。CBSを持つ米国コロムビアと双璧だった。この時点で日本ビクター蓄音器の親会社はRCAビクターとなっている。
レコード2社買収はテレビ開発のためだった
そして10年後、鮎川義介の日産はRCAビクターと交渉し、株の譲渡契約を結ぶ。1937年6月、ついにコロムビアに続いてビクターも日産の傘下に入った。出資比率は、日産42.5%、第一生命32.0%、RCA25.5%となっている(『日本ビクター50年史』1977)。第一生命は日産の要請により、三菱と住友から株を買い、大株主となった。この点は後述する。
1937年3月に鮎川は日本蓄音器商会(コロムビア)取締役会長に就任している。ビクターのほうは、買収の翌7月に代表取締役会長に就任した。
鮎川本人が経営の枢要な地位についたわけで、部下が適当に買収したわけではない。「新産業からの独占利潤」(「ダイヤモンド」前掲)を追求したのである。
鮎川が何を考えていたのか、4人の当事者が証言を残していた。
まず、石坂泰三(1886-1975)。
逓信省官僚を経て1915年に第一生命に入社し、創業社長、矢野恒太郎の秘書となる。その後、38年に社長へ就任、戦後49年に東京芝浦電気(東芝)社長、56年から68年まで経団連会長をつとめている。
「鮎川さんは特に満州にいらっしゃる前に、コロムビアとか、ビクターとかいうような蓄音機会社、レコード会社が全部、外国人の手によって経営されておりましたが、ああいう宣伝的の機能をもつものは、どうしても外国人だけの手においておくのはいかんというお話でございましたため、私、その当時、ちょうど第一生命におりましたので、鮎川さんと二人、両方で両者の株を半分ずつ持って、まったく日本人の手に入ったのでございます」(石坂泰三「常に国家的見地から」(速記)、『鮎川義介先生追想録』所収、1968)
さもありなん、という話だが、「独占利潤」を追う鮎川義介が、外国資本から情報産業を買収することだけを考えていたとは思えない。
つづく
ビクターも日蓄=コロムビアも欧米のマスター音源を国内プレスした。都市の中間層を中心に、伝統的な邦楽のほか、クラシックなどの洋楽を大量に販売している。ビクターは流行歌(歌謡曲)の大量販売に早くから乗り出し、設立の翌1928年には佐藤千夜子の歌唱で「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)を発売し、数十万枚を売り上げたそうだ(藤原義江も吹き込んでおり、後年の合計数)。
ビクターは1929年に再び佐藤千夜子の「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)で25万枚という大ヒットを飛ばしている。日蓄=コロムビアも流行歌へ本格的に乗り出し、ビクターとコロムビアの戦いが昭和初期に続くことになる。これは稿を改めて報告しよう。
この1929年に、三菱と住友の出資を仰ぎ、米国ビクターとの合弁会社に変えている。これはビクター本社による現地化の方策だったようだ。同時期にRCAがビクター・トーキングマシンを買収し、RCAビクターと社名変更している。RCAはもともとゼネラル・エレクトリック(GE)からスピンアウトした会社で、NBCの親会社でもある。CBSを持つ米国コロムビアと双璧だった。この時点で日本ビクター蓄音器の親会社はRCAビクターとなっている。
レコード2社買収はテレビ開発のためだった
そして10年後、鮎川義介の日産はRCAビクターと交渉し、株の譲渡契約を結ぶ。1937年6月、ついにコロムビアに続いてビクターも日産の傘下に入った。出資比率は、日産42.5%、第一生命32.0%、RCA25.5%となっている(『日本ビクター50年史』1977)。第一生命は日産の要請により、三菱と住友から株を買い、大株主となった。この点は後述する。
1937年3月に鮎川は日本蓄音器商会(コロムビア)取締役会長に就任している。ビクターのほうは、買収の翌7月に代表取締役会長に就任した。
鮎川本人が経営の枢要な地位についたわけで、部下が適当に買収したわけではない。「新産業からの独占利潤」(「ダイヤモンド」前掲)を追求したのである。
鮎川が何を考えていたのか、4人の当事者が証言を残していた。
まず、石坂泰三(1886-1975)。
逓信省官僚を経て1915年に第一生命に入社し、創業社長、矢野恒太郎の秘書となる。その後、38年に社長へ就任、戦後49年に東京芝浦電気(東芝)社長、56年から68年まで経団連会長をつとめている。
「鮎川さんは特に満州にいらっしゃる前に、コロムビアとか、ビクターとかいうような蓄音機会社、レコード会社が全部、外国人の手によって経営されておりましたが、ああいう宣伝的の機能をもつものは、どうしても外国人だけの手においておくのはいかんというお話でございましたため、私、その当時、ちょうど第一生命におりましたので、鮎川さんと二人、両方で両者の株を半分ずつ持って、まったく日本人の手に入ったのでございます」(石坂泰三「常に国家的見地から」(速記)、『鮎川義介先生追想録』所収、1968)
さもありなん、という話だが、「独占利潤」を追う鮎川義介が、外国資本から情報産業を買収することだけを考えていたとは思えない。
つづく