私の「舞踏会の手帖」30年間会わなかった知人の家のベルを押してみた。どのように変わったのか、を確かめてみた。

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現在の生活は問題ないが、仕事を辞めたらどうなるだろうか。

2017-11-01 17:24:46 | 思い出

【氏名】
 永山 邦夫、建築士の仲間の中では比較的順調な人生を歩んできたが。
【記憶にあるプロフィール】
 生まれは昭和25年で私と同年令。北海道の北斗市(函館市の隣)の出身で、地元の高校を卒業した後で東京の私学に入学した。卒業後はそのまま都内の建築設計事務所に就職して建築士を目指していた。私とは大学、職場は違っていたが、受験仲間であった。私の受験勉強中は、夜間の専門学校に通うのと平行して、数名の仲間と共に受験サークルを開催していた。専門学校で受講した知識だけでは試験を突破するのは難しく、毎週末に集まって受験対策を自主的に練らなければならなかったのである。永山は、誰かの紹介で我々の受験サークルに参加し、3年間ほどは毎週出会い、合宿もして濃厚な付き合いがあった。サークルの仲間が交代で試験官役となり、相互に試験問題を出し合って本試験への対応をしてきた。その結果、同じ受験サークルの仲間の内で、私と永山を含めて3名が同時期に合格することができた。
 永山の性格は平凡であり、特に癖のある人物ではない。人当たりは良いのだが、知人と深く付き合いをすることはなく、必要な時にのみ接触するというアッサリとしたものであった。独身の時は年2、3回は出会うこともあったが、永山が結婚してからは1、2度合った程度で、その後は連絡は途絶えていた。
 設計事務所を開業したのは私よりも1年ほど早い時期で、秋葉原の貸しビルで独立した。永山は住宅の構造計算を専門としていて、主に建売住宅の販売会社から仕事を受注していた。設計された建売住宅が耐震基準を満たしているか、建築法に準拠した間取りであるか、などを計算し、官公庁に提出する書式を作成するのであった。
 永山はコンピューター関連に明るく、構造計算をするのが同業者に比べて早く処理する能力があった。このため、男性従業員3名、女性従業員1名を雇い、複数の建売住宅の販売会社から依頼を受けて処理していた。大量の建築確認用の書類を作成していたが、仕事量が多いので、1軒当たりの単価は同業者に比べると比較的安価に受注していたのではないかと推測された。
 また、永山の性格の特徴的なものは、せっかちであり、長期的な計画が立てられないことがあった。無駄遣いというのではないが、後先のことを考えずに金を使うことが多かった。サラ金などで借金をするようなことはしないが、私からすれば、「その商品を購入しても使用回数はそれほど多くはないはず。レンタルか中古品でもいいのでは」と思われるような高額商品でも気に入ればポンと買ってしまうようなことが多かった。その性格があるため、後述するように、住宅を購入する際も衝動的に決めたらしい。
【自宅の場所と価格】
 永山の自宅は千葉県四街道市にある、千葉県住宅供給公社が分譲した戸建てである。最寄りの駅は総武本線物井駅であるが、駅から自宅まではとんでもない遠距離にあった。事前に調べた情報では、バスで15分とあったので、徒歩でも40分もあれば到着すると見込んでいた。しかし、郊外では信号機は少なく、バスは都心に比べて高速で走行できる。郊外のバスで15分というのは、都心のバスでは30分以上の乗車であることが始めて認識できた。このため、自宅に到着するまで1時間30分はかかってしまった。
 物井駅からは整備されていない田舎道を歩き、丘を2つ越え、畑や雑木林などを過ぎて公社の団地に到着できた。この団地は1986年に分譲を開始したもので、分譲地は500区画、1区画は平均して60坪程度であった。小高い丘の中腹を切り開いたような地勢で、団地の中央には幅20mのバス通りが配置され、バス通りの左右には同じような規模の住宅が整然と建て並んでいた。地域の開発の際に公社が区画割りや道路の整備を高い品質でデザインしたものであり、民間企業ではこのような大規模な計画都市は設計できないであろう。駅から団地までの道は、農道を拡張したような曲がりくねった県道で、県道に沿って農家や無計画に建てられた小振りの住宅が散見されるような風景であった。それが、団地のある丘にまで登りつめると、突然に近代的な住宅街が現れたのだった。団地までの旧態依然とした風景と団地の中の風景とは、全く異次元の世界であった。最初から駅前を計画的に区画し、分譲すれば住みやすいはずなのだが、権利関係がややこしいのでできなかったのであろう。日本の土地開発の欠陥のようなものである。
 丘の中に現れた近代的な住宅街は、道幅も広くて歩道も整備されていて、町全体が明るく住みやすいであろう。しかし、駅までのバスは1時間に2本しかなく、自家用車を保有しなければ移動は困難である。大型スーパーは無く、団地内にはコンビニよりも少し大きい程度の個人営業のスーパーが1軒だけ営業していた。町全体が、自家用車に頼らなければ生活できないようなシステムで設計されたのだ、と感じられた。
 さて、この団地での発売時の価格は、土地と建物が一緒になって4000万円弱であった。まだ、バブル時期に入る前であったから、このような価格で販売できたのであろう。現在は団地内の住宅が2200万円程度で売り出されていたため、半値近くに値下がりしていた。
 永山がこの団地の戸建てを購入した理由は、子供が増えてマンションが手狭になった時に、新聞に公団の売出し広告が掲載されていたのを見て即決したらしい。また、彼の頭の中には、「公共団体が販売する不動産であることから、品質、価格が適正である」という先入観が刷り込まれていたこともあった。なるほど、団地の敷地の中だけをとらえると、理想的な区画割り、環境の整備があることは確かである。
【突然の訪問でも妻は親切だった】
 長い道のりを歩いてやっと永山の自宅に到着した時、庭先に立っている彼を見つけた。狭い庭を掃除していたのだった。玄関のベルを押さずとも、再会できるので私には都合が良かった。顔つきはややフックラとしていて昔の面影はあり、頭髪は薄く白髪となってなっていたがそれほど太っておらず、昔の姿のままであった。
 私の氏名を永山に告げると20数年ぶりであったが、直ぐに思い出してくれた。突然の訪問にもかかわらず、気持ちの良い対応をしてくれた。道路上で数分くらい立ち話をしていると、自宅からは妻が現れ、
 「散らかってますが家に上がって下さい」
 と勧めてくれた。永山の妻とは、新婚の時に2度ほど会っているので、30年以上前に会ったきりであるが、嫌な顔もせずに挨拶してくれた。妻の好意は有り難いのだが、気がひけるので、永山の自家用車で近くの喫茶店に向かうことにした。
【再会してみた観察】
 近くの喫茶店といっても、永山の自宅からは車で10分以上はかかった。団地内には喫茶店やレストランなどは見当たらないからである。喫茶店は前払い式の会計であり、私が全部のお茶代を支払おうとすると、
 「ここは私に払わせて下さいよ」
 と永山が私の支払いの手をよけた。このあたりの金銭感覚は昔からの彼の性格であり、人が良いのと、見栄を張りたがるところがあった。
 永山とは長いブランクがあったが、私との会話にはぎこちなさが無く、会話は円滑であった。受験勉強をしていた時期と同じような対等な話し方であった。最初の話題は当たり障りのないことから始まるもので、先ずはかっては一緒に受験した勉強仲間のことであり、私と彼との共通する知人の近況となった。専門学校、自主的な勉強会を通じて共通する知人は20名以上はいたはずである。しかし、永山はその内の3名ほどを思い出しただけで、他の知人の氏名はすっかり忘れていた。だだ私の知っている1名だけは現在も音信があるという。知人や友人はその都度の付き合いですませ、縁が薄くなればそのまま自然消滅していくというのが永山の性格なのであろう。多分、現在の付き合いのあるのは、ほんの少しの知人と顧客である建売住宅の社員だけではないかと推測した。現在の仕事を廃業すれば顧客との付き合いは消滅し、数名程度の知人だけが残るのであろう。だが、知人が少ないことは彼にとっては重要なことではなさそうであった。
 次いで、現在の仕事の話題に移った。以前は秋葉原駅近くに事務所を構えていたが、数年前の60歳になる直前に、事務所を千葉駅近くに移転した。同時に、男性従業員を解雇し、女性従業員1名だけを継続したという。顧客も、以前は建売住宅の販売会社を数社抱えていたが、現在は2社に減らしているとのことであった。高齢になったので遠距離通勤が難しくなり、同時に、廃業を考えて顧客、従業員の数を減らすことに決めたのだそうである。それでも、現在の仕事量は最盛期の三分の一はあり、生活には困らない、と語っていた。
 永山の現在の趣味はゴルフだけのようで、一通りの近況報告と知人の噂話が終わっていまったなら、ゴルフの話題となった。近くのゴルフ場の会員権を持っていて、毎週土曜日には必ずゴルフをプレイする、と半ば自慢していた。
 「毎週グリーンに出掛けていると、近所の会員とは旧知となり、何人もゴルフ仲間ができた」
 と饒舌に語ってくれた。さらに、
 「ゴルフのプレーが面白く感じられるまでには、相当の時間と資金がかかるんだ。それだけの時間と資金を注ぎ込んできたんだ」
 と力説していた。永山の唯一と思われる趣味であり、それまでには相当にゴルフに入れ込んだと判断された。
 喫茶店での永山との会話では、彼の家庭内の事情や私の個人生活の話題には踏み込まず、当たり障りのない内容に終始して終わった。しかし、私の眼を見ながら会話する態度からすれば、何か後ろめたいような雰囲気はみかけられなかった。ただ、20数年前と同じようにセッカチであるため早口であり、話題が飛び飛びになる性格は変わらなかった。
【年金と老後の生活】
 現在のところ、設計事務所を経営していて、最盛期ほどの収入はなさそうであるが、同年代の年金生活者からすれば余裕のある生活を維持しているように見かけられた。子供が2人とも巣立ってしまったので、以前よりも生活費はかかっていないことから、現在の生活には満足しているようだった。しかし、これら始まる老後には少なくとも不安は持っているように感じられた。
 「30年以上事務所を経営してきたが、70歳を越してまで働くのは無理だね。今の顧客も3、4年で離れていくだろうな」
 と、呟いていた。遅かれ早かれ、いずれは事務所を閉鎖することは想定しているようである。だが、老後の生活を深刻には考えていないようであり、また、その対策も考えていない様子だった。永山の性格からすれば、社会に流されるような生活を続けてきたので、これから先の人生をどのように過ごすかという計画は立てていないようである。
 さりげなく年金について尋ねてみると、
 「独立する前に8年ほど勤めていた設計事務所の厚生年金と国民年金を合わせて、月10万円にはならないかな」
 と返事してきた。妻の年金と合わせても、月15万円程度ではないかと推測された。このような年金額であっては、現在の生活を維持することはできないであろう。それなりに貯金はしているのではないか、と思われるのだが、現在の生活を維持するのは難しいであろう。
 私を乗せた永山の自家用車は400万円程度のトヨタのSUVであり、維持費もかかるであろう。毎週末にはゴルフに出掛けているようで、生活レベルは以前に比べてそれほど落としてはいないようである。自宅のローンは来年3月に満了する、と言っていたので、繰上返済をせずに30年間継続して支払っていたらしい。過去の永山の収入であれば、十分に繰上返済し、60歳前にはローンは終わっていたはずである。金銭的な考え方に甘えがあるように見受けられた。
【これからどうするのだろうか】
 永山に、
 「事務所を閉鎖して、時間ができたらどんな生活をする予定?」
 と振ってみた。すると、永山は、
 「仕事を止めて自由になったら、田舎の北斗市にある実家に戻って、のんびりと過ごすかな。人間は何時死ぬかわからなし、これから先のことは判らないな」
 と曖昧な返事をしてきた。人生の大半を首都圏で生活してきた者には、北海道の田舎での生活は無理であろう。本人も実現不可能なことと認識しながら、雑談を続けるために思いつきの返事をしたのであろうか。多分、永山にとっては、これから始まる老後については何も設計を立てていないのではないかと察知された。多分、平凡な人と同じように、目前の問題をその都度解決し、人生設計や予想を立てることなく生きてきて、これからも同じように行き当たりばったりで生きていくことであろう。
 もう少しで70歳を越える。体力が無くなれば好きなゴルフもできなくなる。趣味の無い男であることから、自宅に引きこもって日常を続けることなろう。最大の問題は、駅から遠すぎる生活環境である。自動車を使わなければ日常生活を送れない。自動車を運転できなくなれば、買い物、通勤、病院通いなどが一切できなくなる。そもそも、年金生活となれば自家用車を維持することができなくなるはず。すると、現在の自宅を売却し、駅近くのマンションなどに転居せざるを得なくなるであろう。
 そんな思いをしながら、永山と別れることになった。


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