私の「舞踏会の手帖」30年間会わなかった知人の家のベルを押してみた。どのように変わったのか、を確かめてみた。

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同窓会に出席することの勧め

2017-09-29 19:16:29 | 思い出

 社会人として生きていると、何らかの同窓会と係わりを持つことになる。同窓会とは、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学などの同じ建物や部屋の中で一時的に生活を共にした卒業生が再会するための場である。かっては、進学や勉学という共通した目標のために協力したり励まし合った仲間達が集まり、お互いの消息を確かめ会うと共に、親睦を深めるための会合でもある。同窓会という会合は明治初期にはもう始まっていたようで、日本に近代的な学制制度が開始された時期とほぼ一致している。
 同窓会の定義には2つの意味があり、広義ではその学校を卒業した者全員を対象とする大がかりなものであり、狭義では同じ学年の卒業生のみを対象とするもので、これは同期会をとも呼ばれている。この章で、同窓会というのは狭義の同期会について説明している。
 義務教育やそれ以上の高等教育を受けた人達には、何年かに一度は同窓会の案内が送られてくるはず。既に死亡していたり、住所が不明の人には案内状を送ることはない。同窓会の名簿に自宅の住所が掲載されている同窓生には、必ず幹事が発送しているはずである。特定の卒業生だけに案内状を発送しないと、不公平であり、発覚すれば大問題となるからであろう。
〔同窓会に出席したがらない理由〕
 さて、同窓会を開催するという案内状が到着したなら、幹事などに出席か欠席の返事をして意思表示をすることになる。学校に入学式や卒業式とは違い、同窓会には出席の義務は無いため、欠席してもかまわない。実際に同窓会を開催してみると、出席率は20~30%程度であり、欠席者の方がはるかに多い。
 ネットで、「同窓会」をキーワードにして検索してみると、世間一般の人達が想定している同窓会というものを知ることができる。検索した結果からは、「同窓会には出たくない」という意見がばかりである。「同窓会に出席した方が良いのではないか」とか「同窓会は楽しかった」という賛成の意見は極くまれにしか見つからない。ということは、学校は卒業したが、かっての同級生や恩師が参加する会合には参加したくない、というのが大多数なのである。ネットでの意見の中には、「学校を卒業以来、一度も同窓会に出席したことはない。欠席していたら、その内に案内状も来なくなってサッパリした」という意見も散見された。
 では、どうして同窓会に出席したくないのであろうか。その理由について考察してみると、次のようになる。
 ⑴ 出席しても面白くない。
 同窓会に出席しても面白くないから参加しない、という意見も多かった。その理由としては「同窓会に出席する人達は社会の成功者ばかりで、彼ら彼女たちから自慢話を聞かされるのが嫌だ」というのである。これは現実的な理由であろう。同窓会に出席できる人達には人生で失敗したり、経済的に行き詰まっている人達は参加しない、というか参加できない。すると、参加者達はそれなりの生活に余裕がある同窓生に限られたくる。すると、生活に余裕がない参加者からすれば、成功者や富裕者達の話題を聞くだけで生活レベルの差を嫌でも感じ取らざるを得ず、それが自慢話に聞こえてくるからであろう。
 また、「同窓会に出席できるのは幸せな家庭を持った人達ばかりで、それが面白くない」という意見もあった。これは独身女性から多く出された意見である。30代、40代となった独身女性からすれば、家庭を持てた同級生は羨ましいからであろう。さらには、独身者の生活と子供を持つ同級生とでは話題も趣味も違い、会話しても話が合わないことは殆どなためである。
 ⑵ 同窓会には会いたくない人が参加している。
 ネットでは比較的多い意見であった。同級生からイジメを受けていて、そのイジメた本人が参加しているので、会いたくないという理由である。これはもっともな理由である。イジメた方は忘れているが、イジメられた方は一生覚えていて、その不快な記憶を思い出したくないからであろう。
 ⑶ 会いたい人が参加していない。
 女性から多く出された意見であり、その同窓会には親しい友人が出席しないので参加しないということである。その親しい友人とは再会したいが、それ以外の同窓生とは再会したくないという理由である。同窓生の中でも親しく付き合っていた知人が少なかったのではなかろうか。しかし、このような意見を述べる人は、その親しい知人が参加するのであれば出席する、ということになり、浮動的な考えであろう。
 ⑷ 学生時代に楽しい思い出がなかった。
 学年での成績が優秀であったり、クラブ活動のスポーツでは全校で優勝した、というような目立った実績がなかった人達である。学業、運動などの何事においても中間層であり、目立つことがなかった人達であろう。平凡すぎるほど平凡な性格であり、何となく学生時代を過ごしてきたような人達である。実際にはこのような目立たなく学生生活をしてきた人達が世代では一番多いはずである。
 ⑷ 費用がかかる、という経済的な問題。
 同窓会に参加するとなれば、少なくとも数千円以上の会費はかかる。女性であれば、新しい洋服を用意したり、パーマをかけたりしなければならず、半日の会合に出席するだけで多くの費用かかる。こんな費用は無駄、と考える人も出てくるのであろう。また、そのような準備をするのが面倒なので出席しない、という意見も多かった。
 ⑸ 親しい同級生とは出会っているので。
 何百人もいた同級生の中で、気が合ったり趣味が一緒だったりした親友は限られている。卒業後もそのような同級生とは時々出会い、食事をしたりお茶をしたりして付き合いがある場合もある。そのような人達にとって、大多数が親しくない出席者が集まる同窓会には出席する必要性が発生しないのである。数人の極く親しい知人と時折出会っていれば、それで十分なのであろう。
〔同窓会は面白い〕
 ネット上では、同窓会には参加したくない、という否定的な発言ばかり目立っている。しかし、私は「同窓会ほど面白い会合はない」と考えている。その理由は、同窓会は人間観察には最適な場であるからだ。
 人間の性格は、時間の経過や生活してきた環境によって変わる。大きな節目としては、進学、就職、結婚により生活環境が変わるとも言われている。さらには、就職した会社内での出世や転職、結婚した相手の性格や離婚などによる家庭の変動によっても大きく影響される。同窓会ではそのような同級生の変化をかぎとって、観察するのが面白いのである。特に、同級生であれば、学校内で1年間或いは数年間の間接触していて、当時の性格や生活環境を把握している。数十年前の同級生の姿を思い浮かべ、再会した現在の同級生と比較してみるのである。相手が数十年の間にどのような人生を歩んできて、どこで奮起して成功したか、どこでつまずいて失敗したか、などを知ることができる。いわば、人生の集大成と、その成果を発表する場が同窓会といえるのではなかろうか。
 では、同窓会に参加し、旧友と再会した際に、何を観察したらよいのであろうか。まず、顔つきである。リンカーンは、「男は40歳になったら自分の顔に自信を持て」という名言を残している。それまでの仕事での実績があれば、男の顔つきには自信にあふれ、精悍なものを見つけることができる。ボンヤリと生きてきた男の顔には、イキイキとしたものが見つけられないであろう。女性でも同様で、家庭が円満で幸せであれば、輝くような美しさが表れている。家庭に不幸があれば、どことなく陰気な顔つきになってしまうのが現実である。
 次に観察するのは、服装を含めて身体全体である。生活に余裕のある同級生であれば、それなりの服装をしていて、アクセサリーも生活水準に合わせた金額のものとなっている。安物のアクセサリーを身につけて来る人達を否定するのではないが、これだけは金銭的な余裕から派生するため致し方ないことである。
 また、話題にも気をつけることである。同窓会はハレの舞台であることから、自分の悪いことは話題にしたくもないであろう。従って、多少は現在の状況を脚色し、すなわち、少しホラをかませた話をする人達も出てくる。そのような自慢話を耳にしたとき、その話の内容がどこまで本当であるかを確かめておく必要がある。同窓会のその場で問いただす必要はなく、後日、その同級生を知る友人から実際の生活振りを聞き出せは良いことである。ホラ話をするような同級生はどうしてそのような性格になったか、を確認することができるはずである。
〔同窓会に出席する心構え〕
 同窓会では、数十年振りに親友、旧友達と自然な形で再会することができる。卒業以来全く出会ったことのない知人と出会うことができるのである。しかも、一人や二人という限られた再会ではなく、数十人もの知人と再会することができる。街角や旅先で偶然に出会うこともあるが、そのような再会は稀である。また、偶然の再会では、出会って見たいと考えていた旧友のみに会えるとは限らない。同窓会ではそんな拘束はなく、指定された集会場に出向けば極く自然に再会でき、会話も無理することもない。
 さて、同窓会に出席して、旧友と再会して、昔を懐かしむだけでは全く成果が無い。過去の学生生活を振り返り、思い出話をするだけでは進歩しない。出席した知人には、無理な形ではなくあれこれと話をして、現在の状況を聞き出すことである。また、出席しなかった知人の詳細についても聞き出すのである。学生時代に付き合っていた知人がどのような境遇にあるかを把握することができるはずである。
 また、現在の生活環境が悪かったり、会社での地位が悪くとも厚顔で出席すべきである。背広を着て、それなりの恰好をして出席すれば、他人からは悪い状況など判るはずはない。そもそも、出席している知人でも同じような悪い状況かもしれないのである。さらには、昔イジメられて顔を合わせたくないような嫌な同級生がいても、出席すべきである。その嫌な同級生がどのように変わったかを知ることのできる絶好のチャンスなのだから。


私の高校の同窓会について

2017-09-28 19:18:43 | 思い出

 私が卒業した高校では、同期生が集まる同窓会が定期的に開催されている。私は毎回出席しているので、その開催された状況や出席者の人間観察をまとめてみる。
〔卒業した高校について〕
 私が卒業した高校は、山形県の地方都市にある公立高校で、普通科だけの進学校であった。当時は人口が多かったため、1学年は10クラスで同期生は500名であった。現在は若年者の人数が減っているので、1学年は300名以下になっているらしい。市内で唯一の進学校であることから、市内にある各中学校の上位10%程度の成績の者が入学していた。市内ばかりか、近隣の市町村からの入学者もいることから、入学者はある程度のレベルの学力があると考えて良い。超有名高校ではないが、山形県内では進学校のベスト10には入っていた。このため、公立中学校の同期生とは異なり、生徒の学力、思考はほぼ似通っていた。
 市内には複数の中学校があり、そこから選抜された卒業生が高校に入学するのであるが、同じ市内にある中学校といっても生活環境は異なっていた。中学校は、大きく2種類に分けることができた。町にある中学校と農村にある中学校である。町の中学校の近くには、特急の停車する主要な駅があって、駅の周辺には商店街や映画館なども揃っていた。農村にある中学校では、自宅から学校までは畑の中にある砂利道を通学していて、校舎の裏には山林が迫っているような地形で、典型的な田舎の学校であった。同じ市内の中学校といっても、生徒の環境には大きな差があった。私が卒業したのは農村の中学校であり、高校に入学したとき、町の中学校から入学した同級生との間には、文化や感覚に大きな差があることに気がついた記憶がある。
 高校の卒業生で成績が上位から30番目位までは旧帝国大学系の国立大学に入学し、150番目位までが戦後新設の国立大学に入学し、それ以下の成績であれば私立大学に入学していた。大学を卒業した同期生の大半は、関東圏や仙台にある大企業に就職した。地元に戻ってきた同期生は、家業を継ぐためか、県庁などの官公庁に就職した者ばかりであった。有名大学を卒業しても、地元の山形県には学歴に見合うだけの企業がないからである。それでも、同期生500名の内で、150名ほどは地元で働いていた。これが私の卒業した高校の概要である。
〔過去の同窓会の実施〕
 私の高校では、卒業から30年目に同窓会(同期会)を開催するのが慣例になっていた。卒業して30年も経過すると、仕事も落ちつき、家庭でも子供の世話がかからなくなる時期になるからであろう。卒業生には伝統的に受け継がれていたため、地元の同期生が幹事となって同窓会を立ち上げた。それ以降は5年置きに開催している。こうして、卒業から30年目、35年目、40年目、45年目の節目に開催してきた。
 最初の同窓会の出席者は100名程度であり、年度により波があったが45年目の出席者は一番多く120名程度となって、20~25%の出席率であった。開催する度に出席者が増えていくようであるが、45年目の出席者が一番多かった。その理由として、その頃には全員が60歳の定年を越していて、時間的に余裕が出てきたことと、定年退職した者で求職している者は同級生の中から何らかの就職のコネを見つけたいという欲望があったからではなかろうか。
〔同窓会に出席した感想〕
 毎回同窓会には出席するのであるが、会場に入る際には何時も軽い緊張があった。誰が出席してくるか、当日でなければ判らないからである。学生時代に反りが合わずに顔も見たくない嫌なやつが出席するかもしれない。そんな顔ぶれと出会ったらどのように反応しなければならないか、を考慮するため緊張するのである。しかし、嫌なやつと出会っても、視線を合わせずに距離を置けば良いことであり、これは一瞬で判断することができる。しかし、卒業して数十年も社会の中で生活してきたことから、それぞれ大人としての常識を身につけている。嫌なやつであっても、それを顔に出すことはなく、他の親友と同様な静かな対応をしてくれていた。ただ、それ以上の反応はなく、過去に何事もなかったように振る舞うだけであるが。学生時代であれば、感情を剥き出しにして言い争うこともあり、時には喧嘩になることもあった。しかし、同窓会に出席してくるような同窓生では、社会に揉まれきているので、大人の付き合いなのである。
〔出席した同窓生の顔ぶれ〕
 出席率は20%程度であるため、出席してくる者は世間的には成功している者ばかりと考えれば良い。ただ、上場企業の役員になったり、有名大学の教授にまで上り詰めたような大成功した同期生は出席してこなかった。仕事が多忙であるのが一番の理由であるが、仕事の上で知人から利用されるのを避けたいためではなかろうか。すると、成功者と言っても、有名企業に勤務していたり、家庭の揉め事がないような人達である。安定した収入があり、それなりの家庭を維持している人達と考えれば良いかもしれない。
 旧友との久しぶりの再会であるため、同期生同志で懐かしい話や卒業後の進路などについて雑談が始まることになる。しかし、会場内を見渡すと、会話する人達があちこちにグループを作っていることが分かる。進学した大学が同じであったり、就職した企業での仕事での付き合いのある者同志がそれぞれグループを組んでいるのである。また、高校でのサークルやクラブで極めて親しかった者同志もグループ化していた。共通する話題があるためであろう。
 次に強く感じられたのは、同期生の間での主従関係ができていることであった。先程のグループとは別の意味でのグループ化であるが、こちらは生活がかかっているグループである。主となるのは力がある者で、地元の建設会社の二代目社長であり、従となるのはその建設会社に関連がある下請け業者、納品業者の同級生である。同窓会の会場内では、同じ年度に卒業した同級生だけであることから、本来は皆対等の関係にあるはずである。しかし、主従関係ができているグループでは、従の者たちは主となる二代目社長に気を使っている態度がありありと分かる。それは、従の者たちの目付き、視線の方向、会話での順番などであり、雰囲気で伝わってきている。同窓会の会場であっても、従の者たちにとっては死活問題に関連しているようだ。
 このような主従関係は男性ばかりか、女性にもあるようである。例えば、高校の成績の序列に関連したり、結婚してからの家庭の生活の格差などで発生してくるらしい。このような主従関係をマウンティングと呼んでいるらしいが、このマウンティングになってグループの下位になるのを嫌がって同窓会に出席しないという女性も多いらしい。
 また、ネットでは、同窓会に出席して嫌なことに「勧誘」を挙げている。同窓会に出席した再会した同窓生から、宗教、マルチ販売、保険などの勧誘を受けることがある。そのような勧誘をしたがっている人達にとっては、同窓会は絶好のチャンスである。数千円の会費で多数の同窓生に営業することができるからである。地方都市の同窓会であることから、マルチ販売や保険の勧誘はなかったが、私は新興宗教からの勧誘を受けたことはあった。それらの人達は、高校での成績は優秀ではなく、さほど有名でもない企業に就職した目立たない性格が多かった。彼ら彼女たちにとって、人生が宗教そのものであったのではなかろうか。
〔同窓会に出席しなかった人達〕
 同窓会に出席している人達は、ある程度成績が良く、学生時代も就職してからも元気な人である。また、地元で何らかの商売をしていて、地元に住む同級生とは顔なじみの人達もいる。しかし、5年ごとに開催している同窓会に一度も出席しない人達も多い。それらの人達がどのような性格であったか、を学生時代の記憶により考えてみた。一度も出席しなかった人達に一番多いのは、平凡であり過ぎた人達である。学力での成績は中間あたりで、良くもなければ悪くもないレベルであった。学力は落ちるが、スポーツや音楽などの別の面での才能があればまた違った反応もあるであろうが、そういった目立った才能も持たなかった人達といえる。ただ単純に高校に入学し、そのまま何となく卒業し、生活のためにありきたりに就職したような人生を歩んできたのであろう。そのような人達にとって、卒業してから数十年が経過してから同窓生と再会することに何のメリットも感じていないのである。しかし、そのような人達を悪いと責めることはできない。その人達にとって同窓会は今の生活とは別の世界なのだから。
 また、高校卒業後に各種の事件が発生し、同窓会に出席することができない種類の人達もいる。社会に出てから自己破産して周囲に迷惑をかけてしまった人達などが該当する。また、大学卒業してから結婚したのだが、何らかの理由で離婚した女性も同じように出席しない。同級生に対して負い目があるのであろう。
〔一度は同窓会に出席したが二度と出席しなかった人達〕
 数回も同窓会を開催していると、一度は出席したが、それ以降は一度も出席しない人達もいた。そのような同窓生を数名把握しているが、彼ら彼女らに共通して言えることは、親密な知人がいなかったことである。同窓会では、出席者が着席する椅子はクラス別や氏名順などで指定されている。しかし、幹事の挨拶や来賓の祝辞などが終わると、親しい知人同士が指定された席を離れて会場のあちこちにグループを作って雑談することになる。彼ら彼女らには参加できるようなグループが無いのである。また、彼ら彼女らに近づいて話しかけるような同窓生も稀なのである。つまり、当の本人には本当の親友というものがいなかったのである。同窓会に出席すれば、昔は親しかった誰かが話しかけてくれるはず、と思い込んでいたのであろう。だが、当人が親友だと錯覚していた同窓生は親友でもなく、逆に避けられていたのだった。その現実を同窓会に出席して初めて悟ったのであった。そのような体験をした同窓生は二度と顔を出すことはなかった。
〔途中から同窓会に出席してこなくなった人達〕
 最初の同窓会から出席していたのだが、途中から連絡が取れずに出席しなくなった人達もいた。それらの人達は「事故」を起こしたのであった。一番多かったのは自己破産である。それまで事業が順調であり、同窓会に出席してはいかに儲かっているか、をさり気なく自慢していた。しかし、50歳を過ぎた頃から資金繰りが悪くなり、破産せざるを得なくなったらしい。過去の栄光があるだけに、破産してからは出席することはできないであろう。
 また、法律的に社会から葬られた同窓生も途中から出席しなくなった。一人は官公庁に商品を納品している企業に勤めていた者で、納品にあたり贈賄したことから刑事事件に発展した。もう一人は、墓地の分譲をしてかなり利益を上げていた葬祭業をしていたが、多額の脱税が発覚して逮捕されていた。いずれも事件が新聞に掲載されたため、氏名などが同窓生の知るところなった。事件を起こすようでは、二度と同窓会にも出席することはできないであろう。
〔女性の顔つきの変化〕
 同窓生の顔つきを観察してみると、その人が歩んだきた人生がそのまま顔に表れている。男性では、それまでにしてきた仕事が成功していれば精悍な顔つきになる。しかし、女性は生活そのものが顔に表れてくるようだ。同窓生には、学生の時は美人で有名だった女性がいた。私も個人的に好きな性格であったので、密かに片思いをしていたので顔つきは良く覚えていた。短大を卒業したあと、彼女は地元にある老舗の造り酒屋の跡継ぎと結婚した、と聞いた。嫁ぎ先は明治時代から続く有名な造り酒屋であり、彼女が結婚した時には「美人なので、良い家に嫁いでいかれたのだ」と評判であった。
 しかし、40年後に同窓会で再会した彼女は、両頬がこけて、貧相な顔つきとなっていた。学生時代は頬がフックラとして、優しい目元をしていたはずであったのだが。結婚してからの生活がどのようなものであったか、は本人からは直接聞き出すのは躊躇われた。後日、別の同窓生に尋ねてみたところ、嫁ぎ先の酒屋が破綻したと聞いた。結婚した跡継ぎお夫は経営能力が足らなかったようで、銀行からの借入がかさみ、返済不能に陥ったとのことだった。破産には至らなかったが、会社を整理することになり、担保としていた不動産は全て銀行に差し出したようだった。資産から借財を差し引いた残りの金銭で、老後のための小さな家を購入して住んでいる、というのが間接的に聞き込んだ彼女の人生であった。資産整理する前の数年間は、借金の返済などで経済的に大変であったらしい。また、老舗であった家屋を引き払うことにも、心理的な負担が大きかったのであろう。そんな経済的な苦労が美しかった顔つきを変えてしまったのだった。
〔優しい顔の女性達〕
 同窓会に出席してきた女性の多くは、顔に生活感が表れていた。サラリーマンの亭主の月給の範囲で生活をやり繰りして、子供の養育や教育にも頭を廻さなければならず、一日中気苦労があったからであろう。学生時代であっては、結婚するまでの間をどのように楽しく遊ぶか、だけを考えればよかったのである。しかし、結婚してみると経済的な問題や家族の軋轢などの予想もしなかった困難が発生してくる。それらを解決している間に、顔つきが険しくなるのは当然のことである。
 だが、多くの生活感が顔に出てきた女性とは別に、学生時代と同じような顔付きをしている女性も存在していた。どちらかと言えば童顔であり、60歳を過ぎたことから顔に皺が出てくるのは当然であるが、皺の数や本数は他の大多数の女性に比べると少ないのである。生活感が無く、顔全体が輝くように明るいのである。数名のそんな女性の過去を第三者から聞き出すと、何れの女性も資産家の娘であり、資産家の家に嫁いでいったのだった。学生の時から経済的に苦労しておらず、結婚後も余裕のある生活を続けてこられたようだった。大金持ちではないが、日常生活に必要な金銭については何の問題もなく支払うことのできる余裕のある人達であった。いわゆる富裕層に属する、育ちの良いと言われている人達なのだった。
 そんな女性達の過去と現在を考察してみると、共通する点が表れてきた。まず、学生時代において目立たなかったことである。勉強で頑張って成績が良かった訳でもなく、生徒会での役員をするような積極性もなく、クラブ活動でリーダーになるようなこともなかった。服装や持ち物も派手なものはなく、全体に地味であり、他の同級生の中に埋没しているような性格であったような記憶がある。ただ、会話していると、とことなくオットリとした余裕のようなものは感じ取られた。
 私は、学生時代には「単なる女子学生の一人」とだけしか判断していなかったのだが、かなり後になって、彼女たちは市内の富裕層の家系としか付き合っていなかったことが判った。山形の地方都市であるが、市内には「旧家」と呼ばれる一群がいた。それらの旧家は、地主、醤油製造業者、料亭、運送業者、食品問屋などであり、三代、四代と歴史があり、地場の経済を握っている家系である。現在でもこれらの旧家は続いているが、同級生の彼女達は、旧家の子息と結婚していたのだった。これは、市内の旧家の間では、暗黙の了解事項だったのだろう。資産家の息子は資産家の娘と結婚し、目立つことはしないが、親から引き継いだ資産を次の世代に引き渡す作業をしていたのだった。
〔同窓会による効果〕
 同窓会に出席することにより、どんな利益があるだろうか、と考えてみた。一番多いのは利害関係の無い人達と出会い、懐かしい思い出話ができて楽しい時間を過ごすことができた、というものであろう。同じ高校で過ごし、共通した体験をしており、他の人達とは共有できない話題であるからであろう。
 次に多いのが、初恋の人や片思いしていた人と再会することができる、というものであろう。映画や小説などでは、同窓会に出席したことで昔の恋人と再会し、不倫に発展していった、というストーリーのものがある。これは、20代、30代で同窓会を開催した場合にはあり得ることであろう。男性にはまだ体力があり、女性にはまだ若さが残っているから発生する現象ではなかろうか。私の高校での最初の同窓会は48歳の時に開催された。そんな年齢では色恋に発展するのは無理があった。実際に、不倫になった話は聞いていない。
 また、同窓会に出席して私が一番得たものは、新しい知人ができる、というものである。私の高校は1学年で500名の生徒がいたが、これだけの人数の全てと知り合った訳ではない。3年間の学生生活ではクラス替えがあるが、それでも全員と接触することは不可能である。クラブ活動で放課後も深い付き合いがあれば、親しくできた生徒は2、30名はいるかもしれないが、本当に親友と呼べるのは数人以下である。すなわち、同期生の殆どは接触したり会話することもなく、そのまま卒業していったのが実情である。
 すると、同窓会で出会った同期生でも、生まれて初めて会話する人達が多いのである。その中から、性格や趣味が合う人達に出会えば、新しい知人として付き合い始めることになる。実際、高校では同期生であったが、一度も会話したことがなかったが、同窓会に出席したことがキッカケで知人になった同期生が数名いる。その後は年賀状をやり取りしたり、個人的に居酒屋で出会うことにもなった。同窓会は同期生という共通の軸で、新しい親友を形成する場でもあるようだ。
 ネットでの投稿では、同窓会に出席し、同窓生が老けたのを見てガッカリした、という内容が多い。男性から女性を観察した場合、皺が増えて老女になったという感想が多い。また、女性から男性を観察した場合、禿ていて、腹が出ていたので、学生時代と比べて魅力が無くなった、という感想が目立っている。しかし、これは老化による現象で男女共に当然のことであり、それを強調する事もないであろう。人間は生きているのであるため、年齢によって変化するのは当たり前のことである。そのような投稿をする人達は、同窓生達に何か大きな期待を持って同窓会に臨んだのではなかろうか。他人の変化を嘆く前に、自分の体型、顔つきの変化を嘆くべきであろう。


卒業50周年の中学校の同窓会。

2017-09-24 20:08:25 | 思い出

 私が65歳になったとき、中学校の卒業50周年を記念した同窓会を開催する内容の案内状が届いた。地元山形に在住する知人が発起人となって、卒業以来初めての同窓会を開催することになったようだ。久しぶりの田舎での会合であることから、出席することにした。
 私が卒業した中学校は市内でも郡部に近い位置にあり、周囲には田畑が広がっている環境にあった。純然たる農村ではないが、さりとて駅前のように商店街がある賑やかな場所でもなかった。全国のどこの地方でも見かけられる、平凡過ぎるほど平凡な地域であった。
 都会と違って私立中学校は存在しない地方であることから、在学していたのは公立中学校であった。従って、同級生は学校を中心として半径数キロメートルの範囲に居住していた全ての同年代の生徒となる。親の学歴、職業とは無関係であり、本人の学力とも関係なく、入学していた。すると、生徒の貧富の差、学力の差は大きいものである。高校、大学であれば、入学するための学力はほぼ均質化されていて、学資を支払える親の経済力もほぼ似通ったものとなる。しかし、公立中学校であっては生活環境が千差万別の生徒が入学してくるため、卒業後の生活も高校、大学を卒業した者とはバラツキが大きいはずである。同級生の卒業後の人生を観察するには絶好の機会と判断した。
 私の通った中学校について簡単に説明してみる。1学年の生徒は約300名であり、県立の普通高校、工業高校、商業高校、農業高校にそれぞれ約40名が進学し、100名近くが山形市内の私立高校に進学し、残った40名ほどが中学校を卒業して就職したと記憶している。成績の順に振り分けられたようなものだった。現在はどのようになっているか分からないが、当時は私立高校に進学する生徒はどちらかと言えば落ちこぼれだった。山形市内の私立高校に電車で通学していた彼ら彼女らを横目にして、県立高校進学組は自転車で通学していた。
【出席者の名簿】
 50年ぶりの同窓会には約90名が出席した。当日に渡された全同級生の名簿を眺めると、2割程度の同級生は市外か県外に住んでいて、8割は地元に住んでいて、意外に移動が少ないと思われた。地元に住んでいる者は、農家を継いだり、農家に嫁に行った人達であった。専業農家は少なく、山形市内の企業に勤めたり、役場や農協に勤めていて、半農半サラリーマンといった生活を続けていたのであろう。普通高校に進学し、大学を卒業した者の大半は県外に就職していた。地元では大学の学歴が通用するような就職先が無かったからであろう。
 名簿を眺めてみると、住所と電話番号の欄が空白となっている同級生が約1割いて、名簿は歯抜けのような模様となっていた。連絡先が空白である同級生は死亡したのでは無かった。空白となっている同級生の半分は行方不明であるが、残りの半分については住所は判明しているのだが、本人が掲載を拒否したのだった。狭い農村地帯であり、誰がどこに住んでいるかなどは地元の住民には知れ渡っていることである。しかし、そんな農村地帯であっても、近隣の知人や同級生などとの交流を断ち切っている人が存在していることに驚かされた。ある同級生は親戚との付き合いも絶ち、妹一人だけしか交際していない、という話を聞いた。集落の寄り合いにも欠席し、孤立しているらしいが、田舎でもこのような人が実際に存在しているのだった。
【同級生の現在】
 同窓会に出席した男性の経歴には2つのタイプがあった。1つは大学などに進学し、サラリーマンとなって県外に住んだ人であり、他の1つは地元に住みつづけた人である。サラリーマンとなった同級生の殆どは定年となり、年金生活に入っていた。サラリーマン時代にはそれぞれ役職があったはずだが、そんな肩書は一切無くなっていて、おとなしく参加していた。
 さらに、地元に住み続けた同級生は2つのタイプに分けられた。1つは親の職業を継ぎ、地元で何らかの商売を続けている人達であり、他の1つは農地は少なく半農半サラリーマンをしてきた人達であった。半農半サラリーマンの同級生では、多少の農地はあってもそれだけで生計を立てることはできず、少ない年金で何とか生活を続けているようだ。今回の同窓会で幹事役をした同級生の多くは、地元で何らかの商売を続けている人達で、この人達は元気が良く、会場内で目立っていた。彼らは、ガソリンスタンド、土建屋、料理屋、町工場、アパート、自動車修理工場の経営者などであった。サラリーマンが定年となった年代でもまだ現役で働いていて、それなりの現金収入を確保できているのであった。
 現在も現役で働いている同級生の職業を観察すると、それらは全て親と同じなのである。親の資本、地盤をそのまま受け継ぎ、地元では利権のようにして仕事を続けているのであった。外部から地元に新たに参入してくる企業は無く、これからも小さいながら商売を続けることができるのである。彼らの中学校時代の成績はそれほど良いものではなく、職業高校に進んでいた。しかし、親の設定した路線を忠実に守っていけば、一生安定した生活が確保されるのである。その息子も同じ路線を歩むことができることになる。これは学力とか努力といった自己研鑽などとは無関係であり、生まれついてきた家庭による幸運でしかあり得ないものであった。
 もう少し深く観察してみると、彼らの先祖は地元の地主、庄屋といった戦前の特権階級なのである。戦前の身分制度がそのまま復活し、地方でも格差社会が確立していたのだった。
【同級生の女性達】
 公立中学校であるため、クラスの半分は女性であった。同窓会にも半分は女性が参加してくれた。50年ぶりに再会した女性の中には、昔の面影が残っていて、名前をすぐに思い出す人もいたがこれは稀であった。大半の女性には面影は殆どなく、首からぶら下げた氏名カードを読まなければ名前と顔が一致しないくらいに変わっていた。
 半世紀の歳月が経過しているので、老化現象により女性の顔つきが変わるのは当然なのであるが、悪い方に変わっていた。皆、深い皺ができ、65歳であるというのに老女のようであった。孫がいる女性が大半なので、「お婆さん」と呼ばれても別に奇怪しいこともない。しかし、両頬がこけて貧相な顔つきとなった女性を見ると、どのような人生を歩んできたのであろうか。稼ぎの少ない亭主の給与をやり繰りしてきたのか、それとも、農村に特有の近所との濃厚な付き合いに疲れ果てたのか、嫁いだ農家の姑との気遣いが大変だったのだろうか。何れにせよ、都会で生活してきた女性と比べると、老化が激しいのではないかと感じられた。少数であるが、頬がフックラとし、あまり年齢を感じさせない女性もいたが、彼女たちは教員や公務員であり、地元ではエリートに属する女性達であった。
 彼女達の服装なのであるが、東京の都心部で毎日見慣れている同年代の女性のものと比べると違和感が激しいものであった。先ず、デザインがダサイことである。東京での感覚からすれば20年前にデザインされたような服装であった。もしかすると、20年前に買った洋服をそのまま着用してきたかもしれない。タンスの中にしまってあった洋服の内で、一番良いものを選んできたのであろうが、悲しくなるほど質素なものばかりであった。また、洋服の色彩からも特徴が見られた。紺色やベージュ色を主体にした柄が多いのである。しかし、このようなデザイン、色彩の洋服を着てきた同級生を批判してはいけない。同窓会にダサい洋服を着てきたのは、彼女たちの保身があるからである。農家の多い地方都市なので、ピンクや赤色の派手な色彩の洋服を着て町を歩くことはできない。周囲から浮いたような洋服を着ているだけでその行為が町中に伝わり、変な噂となってしまうからである。封建的な環境では、ダサい洋服は自分の身を守るための保護服なのである。多分、彼女たちも、女性雑誌に掲載されている最新流行の洋服までとは言わないが、明るくて垢抜けたデザインの洋服を着てみた、と思っているのであろう。しかし、そこまでの勇気が彼女たちには無いのである。
 同級生の女性の多くは、近隣の集落に住む2、3歳年上の男性と結婚し、地元に住みつづけていた。多分、結婚した相手しか男性体験をしていないのではなかろうか。恋愛も不倫もせず、今の生活にどっぷりとつかって65年も生きてきて、これからも同じ生活を続けることになるはずである。彼女たちの顔つきを観察していると、不満というものは感じられず、ほぼ人生を諦めた、という表情であった。
【目立っていた女性】
 頬がこけて貧相な顔つきをしたり、食べることしか楽しみがなくて丸々と太った体型をしたりして、見るも無残な同級の女性達の中で一人だけ目立つ女性がいた。晴美(仮名)は同級生の中で輝くように目立っていた。会場に着用してきた洋服は淡いピンクを下地にして赤いバラを印刷した明るいデザインのワンピースで、素材はシルクと思われた。地元では売っているような洋品店は無く、山形市か仙台市のデパートで購入したものではなかろうか。同級生の大半の服装は、木綿のズボンに木綿かポリエステルのブラウスという組み合わせであり、紺色かグレーのくすんだ色彩のデザインであった。晴美の服装とは正反対の地味なものであった。周囲の同級生からは浮き上がるような存在であり、晴美が会場のどこにいても、そこだけが華やかに輝いていた。
 アクセサリーでは、ネックレスは13ミリ程度の大きさの南洋真珠であり、60万円前後ではないかと推測された。指輪には大粒の真珠と0.3キャラットのダイヤを組み合わせたデザインで、50万円前後と推測された。ネールショップで手入れしているのだろうか、両手の爪は丁寧にはパール色にマニュキュアされていた。服装、持ち物などの全てが豪華であった。
 晴美は特に美人の範疇には入らなかったが、中学生の時は可愛い顔をしていて、同級の男子生徒に人気があった。65歳となった現在では、目尻や口許に年齢相応の皺が現れていたが、顔全体は崩れておらず、昔の面影が残っていた。年齢を感じさせない明るさがあり、愛くるしい顔つきであった。
 中学校での晴美の成績はそれほど高いものではなく、公立の商業高校に進学していた。どこの中学校でも同じであるが、同級生では成績順に交流するグループができあがっていて、晴美は普通高校への進学組には参加しなかった。私は普通高校の進学組に参加していたため、晴美とは接触することもなく、中学生時代の晴美についてはそれほど深い印象は持ち合わせていなかった。しかし、50年後に現れた晴美は垢抜けており、くたびれたような顔つきをした同級生と比較すると生活状況が遙に違っていた。
 知人から晴美の中学卒業後の経過をそれとなく探ってみた。中学卒業後は3年ほど山形市内にある金融機関に勤めた後、地元の土建会社の社長の息子と結婚したという。その土建会社は山形県内では上位5社に入る規模であり、官公庁からの公共工事を主に受注している企業であった。地方であっては公共工事は安定した収入源であり、それなりの利益を確保してきたようだった。
 土建会社の社長の息子がどのようなキッカケで晴美と出会ったのかは不明であるが、社長の息子が見初めたのは晴美の美貌であったことは間違いないであろう。地元の中堅会社の社長婦人として結婚生活を開始してから、毎日の生活で経済的な悩みを持つことは無かったはずである。女性が結婚してから直面する問題には、生活費をやり繰りする経済的なもの、子供の学力を高めるための教育に関するもの、婚家における舅、姑などとの人間関係に関するものなどがある。その中で、経済的な問題は女性にとっては最大の悩みであろう。貧乏な婚家に嫁した女性では、1円2円の支払いに頭を悩ますことになる。金銭的な困難さでは、女性の顔つきにもろに影響してくる。毎日のやり繰りに困っていると、顔つきに現れて、貧相になってくる。同級の女性の殆どはこの金銭的な問題で頬がこけていったのであろう。晴美は結婚した時から、充分過ぎるほどの生活費を与えられていたのであった。金銭的な悩みが解消された生活を40年以上続けてきたのではなかろうか。
 女性にとって結婚した亭主により人生が決まってしまう、とは昔から言われてきたことである。晴美の明るく輝いた顔つきは、亭主の稼ぐ力によって形成されたものに間違いはない。学力がそれほど高かったわけでもなく、実家の家柄が良かったわけでもない女性が幸せを掴むことができたのは「美貌」という武器だけだった事例を目の前にしたようであった。


突然に知人の自宅を訪問してみたい、と考えている方へ。

2017-09-22 20:23:14 | 思い出

【私の体験からの助言】
 永い間会っていない旧友の自宅を突然に訪れる、という特異な行動を続けてきた。その結果、どのような形で訪問したら相手に不自然とおもわれない再会ができる、という経験を得ることができた。こんな奇妙な体験をした人は少ないのではなかろうか。もし、貴方が私と同じように、30年以上も会っていない知人を訪問してみようと思い立ち、実行されるのであれば活用して頂きたい。私の助言が役に立つと確信している。
 さて、多くの人達は年齢を重ねると昔の出来事を振り返ることが多いらしい。特に、男性であれば定年となって職場を離れ、自由な時間ができると幼なじみの知人や同級生が現在どのような生活をしているかに関心を持つらしい。また、女性であっては、子供が成長して家庭から巣立ってしまい、世話をする家事が減るような時期に昔の知人を思い出すようである。初恋の人や片思いだった人のことなどである。
 男女を問わず、還暦を過ぎた頃には「昔に出会ったあの人はどうしてるかな」と頭の隅に浮かび、「生きている内に一度は再会してみたいな」と考えるらしい。しかし、それは単に郷愁により、ふと思い起こすだけであり、実際に実行することは稀であろう。ほとんどの人は、「その内に、何かの機会で出会うこともあるかもしれない」と期待することで終わるか、それとも「再会してみたところで、相手が喜んでくれるだろうか」と考え直してしまうのではなかろうか。そんな迷いがあって、行動に移すことまではしないのではなかろうか。しかし、実行してみると、予想とは違った展開になることが多いはず。私の体験を参考にしてぜひ実行してみて欲しい。
【訪問する日の天気と服装】
 訪問する日は、晴天の土日曜日の午後が一番最良である。雨の日に傘を差しながらベルを押すと、玄関先では傘から雨の雫が垂れ落ち、惨めな格好となるからである。また、「雨が降っているから、早く部屋の中に招き入れろ」という意思表示をしているように思われるかもしれない。雨に濡れている姿を見て、友人は何と判断するだろうか。雨の日は絶対に避けるべきである。
 これに反して、暖かく、天気の良い日であれば、「ちょっと寄ってみたので、玄関先での立ち話で結構ですよ」と言い逃れることができる。実際に玄関先での立ち話で終わった訪問もあるが、ほとんどは「せっかくお見えになったのだから、お茶でもどうですか」と部屋に上がることを促してくれた。訪問するのであれば、絶対に快晴の日である。
 服装は、当然のように軽装である。いかにも散歩のついでに寄ってみた、という雰囲気が出るからである。背広やネクタイなどをする必要はないし、また、改まった服装で訪れるなら、友人は「何か変だ」と構えてしまうであろう。ジャンバーにスニーカーで、小さなリュックサックを背負えば良いのである。
【訪問の意図を探られないために】
 昔は親友であった知人であっても、久しぶりに突然訪問するとなれば、何を目的にしてきたかと勘繰ることになる。20年、30年も出会っておらず、その間にどのような生活を続けてきたか、については知人は把握できていないからである。
 突然の訪問では、相手が想定する訪問目的は次の4つに限られるであろう。
 ① 借金の申し込み。
 ② 宗教の勧誘。
 ③ マルチ販売(ネズミ講)の勧誘。
 ④ 選挙の投票依頼。
 ネットで検索すると、「突然の友人からの電話で、会いたいと言われて会ったらマルチ販売であった」とか、「それほど親しくもなかった同級生が訪問してきて、宗教の入信を勧められた」などの被害の報告が数多く見つけることができる。それだけ突然の訪問者は下心があるため、突然の訪問では知人は警戒するはずである。
 そんな知人の不安や警戒を避けるためには、笑顔で対応することである。ドアーから顔を出した知人には、明るい声で「こんにちは」と話しかけることである。暗い顔をしていたり、切羽詰まったような顔つきをしていれば借金の申込みではないかと勘繰られる。明るく、軽い感じで声をかけるのが必要なのである。また、勧誘するのではないか、と勘繰られるのを予防するために、パンフレットなどの紙片は持たないことである。両手は空けておくことが肝心であろう。
【男女で訪問する】
 私が知人の自宅を訪問するときは、必ず妻を同行していた。私一人での訪問はすることがなかった。訪問されるのであれば、男女の組み合わせで出掛けることが必須の条件ではないかと思われる。連れて歩くのは妻でなくとも、娘であったり、愛人であっても良い。とにかく、男性と女性の二人連れである。その理由を考えてみた。
 ① 男一人だけの訪問。
 これは典型的な借金の申し込みのスタイルである。サラ金などへの返済ができず、家族に黙って一人だけで訪問してきた、と勘繰られるであろう。また、女一人だけの場合も同じである。女一人で男性の知人の自宅を訪問する、というのは更に悪いパターンである。昔の出来事などを思い出し、その清算のために訪れたと想像されるかもしれない。何れにせよ、一人だけの訪問は避けるべきである。
 ② 男二人の訪問。
 これは過去にあった何かのトラブルの解消のために訪問した、と勘繰られるであろう。特に、休日に背広を来た男二人での訪問は借金の返済請求か、交通事故の後遺症による損害賠償の請求とかを連想させるであろう。
 ③ 女二人の訪問。
 これは典型的な宗教の勧誘のパターンである。ある新興宗教の勧誘では、女二人のペアで巡回している。昔は仲の良かった知人といっても、その後に新興宗教に嵌まり、知人を入信させよう、と勘繰られることは間違いないはず。
【訪問する言い訳】
 突然の訪問では、知人はその目的が何であるかを勘繰るであろう。そのために、私は、「近くに親戚の自宅があり、そこを訪問したついでに近くに住む貴方を久しぶりに尋ねてみた。懐かしくなって尋ねてみた」と言い訳していた。この言い訳はどの知人にも使ってみたが、ほぼ全ての知人では疑われることもなかった。意外にも、このような単純な方便であっても、知人達は信用してくれた。また、これ以外に便利な言い訳はないと思われる。
【お土産】
 突然の訪問では、土産は一切持参しなかった。前記したように、「近くに来たついでに、貴方の自宅が近所にあることが判ったのついでに寄ってみました」という言い訳をするのであるから、土産を渡すのはおかしなことである。手ぶらで訪問し、何気なくベルを押しました、という雰囲気を出すことが大切なのである。手土産などを持参したなら、借金の申し込みではないか、と勘繰られるのが普通であろう。


突然の訪問を目的にして散歩を続けた体験から。

2017-09-21 19:24:38 | 思い出

【訪問してみた結果から】
 30年近く会ったことのない友人の自宅を突然訪問する、という奇妙な散歩を62歳から始めて3年が経過した。この間に訪問できた友人は80名以上となった。これだけの人数の自宅を一軒一軒尋ねるとなると、大変だった。友人、知人、旧友といっても、一か所にまとまって住んでいるのではなく、関東圏のあちこちにちらばっているからだ。片道を1時間以上かけて最寄りの駅に到着し、駅から30分ほどかけて歩かなければ到着できない場所もあった。しかし、昔の友人を尋ねるという散歩では色々な出来事に会い、それまでの人生では得ることができなかった体験をすることができた。そんな体験と感想をまとめてみよう。
【自宅のある場所】
 私が訪れた友人の自宅は戸建て、マンションを問わず、ほぼ全員が自宅を自己所有していた。知人の多くは地方出身者であり、関東圏にある大学に入学するため、或いは他県の大学を卒業して就職するために上京してきた。このため、学生時代、新婚時代には賃貸住宅に住むのは当然のことである。中年になって頭金を工面して自宅を購入し、定年になる前にローンを完済していた。年金生活になったときに負担を軽くするためであり、常識のある人であれば当たり前のことである。皆、教科書通りのライフプランを実現されてみえ、堅実な人生を歩まれていた。
 しかし、友人達の自宅の場所が都心からは離れて過ぎているのが問題である。我々が住宅を購入しようとしたときは40歳前後であり、バブルが始まった時期と重なっていた。毎年のように地価が高騰していた時代であった。生活環境の良い広い住宅を購入しようとするなら、都心から遙に離れた場所しか選ぶことができなかった。当時は、新宿から快速電車で1時間20分かかる上野原付近でも分譲地が販売されていた時代だった。バブル時代に高額な価格で購入した住宅は、これからは資産価値が下がり続けることになるはず。ローンは終わったが、価値の薄くなった住宅に住みつづける友人達はどんな気持ちでいるのだろうか。
【住宅で生活が分かる】
 私の訪問では、友人の自宅に到着したなら、先ずは住宅の周囲を一周して環境を観察している。環境と住宅の外観を観察しただけで、ほぼ、その友人の現在の生活状態を判断できる。どの住宅でも、玄関先や庭などは掃除していて、ゴミなどが散らかっていることは稀である。地域に住む人達と協力をするための最低限のマナーであるからだ。
 ただ、玄関先などの掃除が行き届いていても、壁や窓などの汚れや傷からメンテナンスが不足しているのがありありと分かる住宅もあった。知人が経済的に苦しくて、補修や修繕にまで手が廻らないからと判断された。また、建物の補修もせずにそのまま放置して住み続けているのは、個人的な理由も考えられた。跡継ぎがいなくて、その住宅に住むのは友人一代限りと結論したような場合である。老い先が長くなければ、補修に手間隙かけるよりも、そのまま朽ち果てさせても良いと考えたのであろう。
 また、極めて劣悪な環境の住宅に住んでいた友人もいた。その住宅の前には道路が無く、長い階段の途中に玄関口が向けられていた。自宅に出入りするには、必ず階段を昇り降りしなければならず、どうしてこんな不便が住宅を購入したのか疑問であった。その他にも、袋小路の奥の20坪以下の土地に建てられた狭小住宅に住む友人もいた。しかし、そのような住宅に住む友人を笑うことはできない。彼らの経済力では精一杯の購入金額であったからである。その彼らが働いていた企業は中小企業ではなく、上場している有名な企業ばかりなのである。バブルによる地価の暴騰により、快適な住環境を得ることができなかったのであり、サラリーマンの給与の上昇が追いついて行かなかったのであった。
【ベルを押さなかった家】
 遠路を尋ねて知人の自宅に到着したが、ベルを押さなかった家もあった。知人とはそれほど深い縁があったわけでなく、単に住所を把握していただけという関係であった人物である。また、仕事や遊びで何度も出会ったことはあり、学歴や経歴などは良く把握しているのだが、何となくソリが会わず、気にくわない性格の人物も含まれる。再会しみたいとは思わないが、どんな住宅に住んでいるのかを確認したかったからである。
 彼らの住宅や環境は千差万別であったが、建物の意匠や飾り付けなどを観察すると知人の性格がそのまま現れていた。ずぼらな性格の知人の住宅では、玄関は綺麗に掃除してあるが、裏側は埃だらけという状況であった。或る知人の住宅では、塀に何やら看板が掲げられたいたのには驚かされた。新聞紙程度の大きさの紙に本人の不満が書き綴られていた。どうも、隣家と敷地の境界のことでトラブルとなり、裁判となったが敗訴したらしい。裁判には敗けたが、なおも自分の言い分に正当性がある、と恨めしいような内容が事細かく書かれてた。彼の性格は自己中心が顕著なものであり、自分に利益が出なければ一切協力しないという偏執的なところがあった。彼からは仕事の上での相談事は遠慮なく頼んでくるが、こちらから頼むと如実に嫌な顔をしていた。そんな性格のためか、自宅の塀に裁判の不満を平気で掲げることができるのであった。
【転居していた知人】
 私の田舎である山形でもそうであるが、地方都市での人の流動は極めて少ない。数十年前、或いは3百年も前から先祖伝来の同じ場所に住宅を構えている人は珍しいことではない。むしろ、最近になって地方都市に転入するする人の方が珍しいくらいである。地方に住む人が転居するとなれば、転居先は比較的簡単に知ることができる。元の住宅の近隣の人達には転居先を知らせてあるからである。また、元の住宅の付近には親戚縁者が住んでいることが多いため、それらの人達から転居先、勤務先を知ることができる。
 しかし、関東圏であっては人の移動が激しく、同じ場所に永住するということは無い。知人の自宅を訪問してみるとすでに転居していて、行き先が不明な人も多かった。隣家などに尋ねてみても、転居先は全く不明であり、手掛かりとなるような情報も無い。隣人関係が極めて希薄であり、それが大都会の特徴ともいえる。特に、マンションのような密閉された居住ではなおさらであり、隣の部屋に住む家族であっても転居先を把握していなかった。今までの縁を全て断ち切って知らない土地に移住したのであろう。何だか侘しい気持ちになるが、本人にとっては全く新しい環境で気分を一新して生活を始めたのであろう。
【病気になった知人】
 訪問した知人は私と同年輩の人達ばかりで、65歳前後であった。この年代ではまだ老境には達しておらず、30歳代に比べれば体力は落ちるが元気そのものである。しかし、数名は病気に罹っていた。一番多い病名は脳梗塞であった。
 自宅を尋ねてみると脳梗塞で既に亡くなっていたり、或いは、脳梗塞の後遺症で治療中であった。昔に比べると治療技術が発達してきているので、脳梗塞を発病しても意外と簡単に治るらしい。しかし、運悪く重い後遺症になると、家族が面倒を見なければならなくなる。数年の間、或いはもっと長い間、病人の看護を続けなければならなくなり、家族の負担は大変なことである。或る知人の自宅を訪れた時、その知人は半年前に脳梗塞で死亡していた。妻から経過を聞くと、発病してから1年間程は自宅と病院で治療を続けていたとのことだった。妻からは、「1年くらいの短期間の介護で助かりましたよ」と、サバサバとした話し方であった。家族であっても何時まで続くか分からない病人の看護を続けたくなかったのであろう。それが本音であった。
 これだけ多くの知人が脳梗塞に罹っているとは気がつかなかった。私も日常の生活に気を付けて、健康に注意しなければならない動機づけにはなった。
【突然の再会での知人の反応】
 ある日、突然に30年近くも出会ったことのない知人の自宅を訪問するのであるから、相手は驚くであろう。しかし、意外にも多くの知人達は嫌な顔もせず、「懐かしいね」とか、「よく尋ねてきてくれたね」と半ば歓迎して出迎えてくれた。嬉しい再会になった知人には共通する点がある。
 先ずは、30年間出会ったことはなかったが、その間には年賀状のやり取りを続けていたことが上げられる。年賀状を交換していれば、相手の動静は分かっている。また、年賀状を発送するということは、相手に対しては不快感を持っておらず友好関係にあります、という意思表示であるからである。
 次に、年賀状の交換はしていなくとも、30年前の最後に別れるまでの付き合いで嫌な思い出やシコリが無かった人達が該当する。このような人達は再会してからも、また以前と同じような気持ちの良い付き合いができる、と判断したからであろう。
 しかし、中には再会を拒否する知人もいた。拒否した人は少なかったが、共通するのは女性ということであった。昔の職場の同僚であったり、趣味の仲間であったりしている。彼女達に多く共通する点は「独身者」ということである。60歳を越しても未だ独身だったことが知人に知られるのを嫌がっているのでなかろうか。或いは、若い時に私に語っていた夢のような豪華な生活ではなく、普通の生活であることを恥じているのかもしれない。普通の生活であるため落ちぶれているとは思われないのだが。彼女達からすれば、目標するような理想の生活を私に見せることができないのは一番大きな恥であると考えているのかもしれない。
【事件のあった住宅】
 百人近くも色々な知人の自宅を訪問していると、予想もしていない事件と出会うことになった。私の最初の職場の同僚であった知人の自宅を訪問したことがあった。同僚と言っても年齢は私より十数歳上の女性であった。ある閑寂な住宅街に自宅があり、敷地は百坪近くある大きな建物であった。ただ、周囲の住宅に比べるとなんとも奇妙な住宅であった。庭木は伸び放題で、木造の建物には蔦などが絡んでいて全く手が入れられていない。ガラス窓や入口には埃やゴミが溜まっていて、家人が住んでいるとは思えないような雰囲気であった。ベルを押したが全く反応はなかった。
 近所の住民に尋ねてみると、思いもかけない事件があったことを聞かされた。その住宅は私の知人の自宅ではなく、知人の親戚の所有であり、知人は間借りしていたのだった。その知人はかなり前に転出していていた。最近まで、知人の叔父とその娘の二人だけが住んでいたのだった。叔父の妻はすでに亡くなっていて、娘は障害のある人で、叔父が娘の生活の面倒を見ていたらしい。しかし、叔父は90歳近くになり痴呆症となっていた。そのため、娘の面倒を見ることができず、娘は死亡してしまった。近所の人達が不審に思い、警察を呼んで調べさせたところ、娘は3か月以上前に亡くなっていたことが判ったらのだった。痴呆になった叔父は娘の死亡を理解できなかったらしい。警察が強制的に住宅に入り、事件が判ったのは、私が訪問するよりも1週間前のことであった。どうりで、近所の人達は、私がベルを押している姿を遠くで胡散臭く眺めていた理由が判った。
 数多くの知人の住宅を尋ねていると、こんな事件にも出会うのであった。

【平凡な老後を送っている人達は】
 私が、2、30年間出会ったことのない知人の自宅を突然に訪問し、その感想をそれぞれ説明してきた。幸運な知人もいれば不運な知人もいた。どちらかと言えば、不運な知人の老後を取り上げて説明した方が多い。このため、私は、わざと不運な知人のみを取り上げて、その生活ぶりを批評しているように思われる。しかし、実際には適正な金額の年金を受け取り、老夫婦で穏やかに毎日を過ごしている知人の方がはるかに多いのである。それらの知人の生活を取り上げなかったのは、それらの人達とは現在でも音信があり、生活状況を把握しているからである。高校、大学、職場などで知り合った人達で、当たり前の生活をしている人達からは毎年のように年賀状があり、近況を知らせてくれるのである。また、同窓会や会合があれば必ず出席してくれていて、元気な顔を見せているのである。健全な老後を送っている知人達とはどこかで繋がりができているはずである。2、30年の間、音信が無かったり、途中から離れていった知人達は、私との交流を拒むような後ろめたさをもっているのではなかろうか。
 高校、大学、職場で、私が知り合った人達は数百人以上になるであろう(一説によれば、平凡な人でもその約60年間の人生で1万人の人達と何らかの繋がりがあると言われている)。その人達の大部分は平均的な金額の年金を受け取っていて、多少の不満はあるかもしれないが、小さな趣味や楽しみを持ちながら生活しているのが事実である。しかし、一部の高齢者では、年金額が少なかったり、或いは、年金が無かったりしているのも事実である。ことさら、私はそのような不運な人達だけを取り上げたつもりはないのであるが、長い間音信の途絶えていた人達は結果として不運な人達の区分に入ってしまったのである。私の体験からすると、これが本当のところであろう。