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中庸に寛容に

~毎日のこと~

らき☆すたのキャラの名前の由来

2008年04月17日 01時04分00秒 | 精神世界
検索してみたが、意外に気付いている人が少なかったので記述しておきます。
(アニメや漫画にはやたら詳細なwikipediaにさえ記述がなかったので、もしかしたら気付いたの私だけ・・?いや、そんなことはないだろう 笑)
真面目に書きますが、反動形成でキモいとか思わないで下さい。

(知ってる人は読み飛ばしてください↓)

らき☆すたは元はコンプティークに2004年から連載されてきた四コマ漫画で
私は2007年4月から9月まで放送されたテレビアニメの方だけ見てました。
(AirとかkanonとかCLANNADとかの京都アニメーションの作品が大好きなので)

内容は小柄でアニメやゲームが大好きなオタクな女子高生泉こなたとその友人でゆったりした性格の柊つかさ、つかさの双子の姉でしっかりものでツッコミ役の柊かがみ、容姿端麗で博識ながら天然な所がある高良みゆきの4人を中心として、その周囲の人々も含めたまったりとした普段の生活を描いた物語(wikiより少々コピペ)

オープニングは初登場オリコン2位など、その他の曲も10位以内を独占するなどの偉業を成し遂げ、一般的にも名の知れたアニメである。
(同じ京都アニメーション制作の「涼宮ハルヒの憂鬱(2006年)」のED曲も当時オリコンで5位を獲得しているので(らき☆すたやハルヒで主人公の声優を務めた平野綾さんの影響もあったのかとも思うが、他のアニメではそれほどオリコンに上がってこないところを見ると)京都アニメーションの影響力に驚愕せざるをえないです)

さて、本題のらき☆すたの登場人物の名前の由来ですが、
神道や仏教に精通しているところが多く見受けられます。

主人公の「泉こなた」は漢字にすると
「泉此方(こなた)」です。
仏教において「此方(こなた)」とは「此岸(ひがん)」を指します。
つまり「此(こ)の世」のことです。

作者も意識してだとは思いますが、その母親の名前は「泉かなた」です。
漢字にすると「泉彼方(かなた)」となります。
逆に「彼方(かなた)」とは「彼岸(ひがん)」
「彼(あ)の世」のことを指しています。
実際、作中で、母である「泉かなた」は「こなた」が幼い時に亡くなっていると言う設定です。
苗字の「泉」は水に通じ「生命の源」という意味合いが強いようです。
和名抄には「出水」「伊豆美」と記述され、「水の出(いずる)」という意味があるそうです。伊豆美神社や和泉神社という神社も実際にあるように、何か神秘的な語源を感じさせる苗字です。

「こなた」自身はアニメやゲームが大好きなオタクな女子高生なので「此(こ)の世」を象徴していると言う意味では、まさに現代の日本の若者の傾向であり、主人公としては良い隠喩的な描写だと思います。


次に柊かがみ、柊つかさ姉妹についてです。

この双子姉妹はストーリー上、そのまま神社の巫女さんという設定です。
(元ネタはCLANNAD(アニメは同京都アニメーション制作)の藤林杏、藤林椋の姉妹と、つかさはToHeartのヒロイン神岸あかりをパロディで混ぜたもの)

柊(ひいらぎ)と言う苗字は神道において魔除けの際に使われる木です。
節分の際に、柊の枝に鰯の頭を刺して玄関に飾って魔除けとする「やいかがし」という行事が印象的ですね。

姉の「かがみ」は八咫鏡(やたのかがみ)に代表されるように天照大御神から授けられたとする鏡・剣・玉の三種の神器の一つである鏡であり、鏡には神様が宿ると言われています。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の化身として神社や神棚に祀られることがほとんどです。
記紀神話には「天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出し再び世は明るくなった」と記述されています。
劇中でもありましたが、本人曰く「鏡餅の円は鏡を形取り、丸型には夫婦円満という意味もある」そうです。
仏教でも閻魔大王の隣に「浄玻璃(じょうはり)の鏡」というものがあると言われ、その人の生前行った行いを映し出す鏡と言われています。(アカシックレコードみたいなものでしょうか・・?)
転じて、鏡には魔除けや神秘的な意味合いがあるようです。

妹の「つかさ」は「宮司(みやづかさ)」を意味し、神官や巫女をまとめる神社の長(おさ)である神職の職階や職名、職称などを指します。
二人とも、神社なだけに神事的な名前ですね。


最後に天才少女の高良みゆきについてです。
苗字の「高良」は高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)のことを指し、福岡県久留米市の高良山山腹にある神社で祭神とされています。
古くから筑後の国そのものである国魂(くにたま)として、人々の衣食住にわたる生活全般をお守り下さるとともに、芸能・延命長寿・厄除けの神さまとして、厚く信仰されてきました。更には家内安全・商売繁盛や交通安全の信仰もあるようで、まさに俗世において万能といえるでしょう。
そのままキャラクターを象徴しています。
名前の「みゆき」は推測になりますが、おそらく「御火水(みいき)」のことでしょうか。(少し私の考え過ぎかもしれませんが)
言霊の御水火(みいき)より成り出でまし神霊すべてを神と称へ神と神との嫁ぎによりて生れませる神霊を命と言ふ(霊界物語より)
【水火(すいか)を辞せず】
水におぼれ、火に焼かれるような危険や苦しみがあっても、何が何でも全力でやり遂げる、という決意を表明した言葉。
という、ことわざがあるようにこの語源の気もするのですが単純に御幸とか美幸とかで「幸(さち)」で「幸せ」「財産」的な意味なのかもしれません。
雑学に詳しいキャラなので「知識が豊富」という意味で「幸」なのか・・
むしろ、ネット上で「みwiki」とあだ名されたことの方が当てはまっている気がします。(wiki=詳しい 的な意味で)

作者の名前は「美水かがみ」という方のようですが、こなたとかがみを合体させたような名前の方なんですね。(あれ・・つかさとみゆきは・・?)

「あずまんが大王」の登場キャラクターも神道の神事に由来して命名していましたが、流行なんでしょうか。
いや、逆に、関連して命名させることで作品が流行っている気がします。
何かキャラクタ-の名前にも因果関係があるとファンのマニアックな心をくすぐるということもあるのかも知れませんが、どちらにしても神様のバックアップ的な御利益があるのかもしれません。
考えすぎかもしれませんが、本社が京都だけにどうも因果を感じます。
最近、時代背景の裏にあるエネルギー背景がそのように動いているようにも感じられてなりません。やはり弥勒の世の前兆ですかね。
京都アニメーションはAirやkanonやCLANNADなど(総称してKeyと呼ぶ)のように縁、輪廻、奇跡、因果、家族、霊性、愛情、神秘などをテーマにした作品を多く取り上げていますね。(正直、最初ハルヒやらき☆すたはKey関連アニメ制作の合間の穴埋め的な役割の目的で作った感もあったように見受けていたのですが・・意外でした)

そんな京アニが私は大好きです。

全作ゴールデンタイムに教育アニメとして放送してほしいくらいです(笑)

らき☆すたにも命名にも必然的な意味があったことに驚きました。
また、今回は主要キャラだけでしたが、他のキャラも関連はあるのだと思います。

身代わり地蔵

2008年03月19日 21時03分23秒 | 精神世界
F905iで撮影した画像をそのままアップしてみます。
予想以上に高画質です。
画像はいつも行く床屋の横道に居られる通称「身代わり地蔵」。
明らかに車道にはみ出した邪魔な位置にあるのにもかかわらず、社(やしろ)は移動されたり動かされた痕跡がない。(それだけ何らかの謂(いわ)れがあるという証拠)
気に入っているので床屋に行く度に必ず礼拝して行きます。

社はコンクリートで固められ、中には救われた者の感謝状などが入っており、お供えなどの手入れも充実していて怠っていない、正面も木製の網目状の格子でカバーされ、姿を拝見するには屈み込んで格子の隙間から覗くしかありません。
しかしこんなことを申し上げるのも大変失礼ですが、実際、拝顔してみるとゾッと背筋が凍り付くほど、この世の物とは思えないような形相で目玉が見開いている。
地蔵菩薩様は過去にも幾らか拝見したことはありますが、ここまで圧迫感と威圧感のある地蔵菩薩様は珍しいです。
いつも礼拝する時は不思議な気分で礼拝しています。

【お地蔵様(地蔵菩薩)とは?】(興味のある人は読んで下さい)

お地蔵様とは本来、幼くして亡くなった子が輪廻六道地獄(天道、餓鬼道、修羅道、畜生道、人間道、地獄道)において救済して下さる神様のことを言います。
「若くして亡くなると、その子は折角受けた生を恩返しもせず無駄にした不徳者として、三途の河原で石を積まされ、鬼がまたそれを崩し、また積み直すことを永遠と続けなければならない」という仏教説話は有名ですよね。

「私は死んでもそんなことしたくない、幼い子が可哀想・・、なんで若くして死んだのに更にそんな悲惨な仕打ちを・・」とこの話を聞いた多くの皆さんが思うでしょう。幼い子自身ですらもそう思うと思います。
まさにそれがこの話の狙いなのです。実はそう思ってくれることこそが本望なのです。
この説話が示唆しているものは今現在、現世で生きている者に対して、幼くして命を亡くす事がいかに悲惨なことなのか、また、それを防がなければならないことなのか、と言う暗喩を大人にも子供にも教示しているのです。
現世には相手の心情を想像できず、若かろうが老いていようが人が一人二人死んだくらいで何とも思わない嗜虐性を好む心の狭いニヒリストの方も中にはいるのです。そのような人を試すような意味も含めてこの説話は非常に有意義だと思います。

そして、この話の結末に出てくるのが地蔵菩薩(お地蔵様)です。
石積み地獄から天国に救済してくれてハッピーエンド・・なんて話になっていますが、その結論に安堵する前に一つここで考えてみると面白いことがあります。
地獄とは?天国とは?輪廻とは?
輪廻とは生まれ変わりのことです。
輪廻六道とはその生まれ変わる環境を指します。
その場所とは天道、餓鬼道、修羅道、畜生道、人間道、地獄道の六道です。
これらは「六道地獄」と言われています。
人間道とは今、私達がいる現世のことです。
いや、中には飢餓で苦しむ餓鬼道、妬みや嫉みの修羅道、人間以外の生物である畜生道、それ以上に厳罰に責め苦を受ける地獄道、天国のような豊かな暮らしをする天道も、現世にはあるでしょう。
ちなみに、このような輪廻六道地獄から解脱(げだつ)した世界のことを「涅槃(ねはん)」と言います。

私が言いたいことが察してもらえたでしょうか?

仏教ではこの世も「地獄」の一つとして数えられています。
つまり、お地蔵様がいて当たり前です。
お墓の手前に地蔵堂、もしくは六地蔵と言う六人の地蔵様が大概は奉られてありますが、「六」という数字も輪廻六道が所以です。
また、幼い子が亡くなった事故現場(よく道端など)にもお地蔵様が立っていますよね。それも所以の一つです。

みなさんも、お墓参りや道端でお地蔵様を見かけたら是非礼拝してみてください。
新しい発見があると思います。

気功実験の成果

2008年03月18日 23時32分46秒 | 精神世界
折角TS-RDM3Kで前携帯のminiSDから画像をPCに移行したのでupさせてもらいます。
画像は去年の夏に「植物に気功を浴びさせて成長に変化が現われるか?」をカイワレで個人的に実験した成果です。

気功がどうして使えるか?は、また後に記述いたします。
気功は内気功ではなく外気功です。
前者は自分自身のエネルギー(オーラ)を対象に対して放出します。故に自信の体力を消耗しますが、その効力は達人ともなれば絶大です。(テレビとかで人を吹っ飛ばしたりするのは内気功の一つ「硬気功」に分類されます)
後者は対象と自分自身のオーラを循環させます。相互に疲れることはありません。そのパワーの出所は未だ不解明でり、神秘です。
(東洋の学術上、このように分類されていますが、信憑性の話はこの際おいて置くとして、まぁこの時の実験では証明も何も基本もできていないので、「うわぁ・・怪しい話し始めちゃったよこの人・・」とでも思いながら素人の妄言と思って広い心で右から左に受け流してください。)

【実験内容】
①毎日、2つとも同様の環境(日当たり等)で計量カップで正確に同分量の水を与えます。
②毎日、片方には気功を与え、片方には何もしません。
(私は神経質なほどに不公平が嫌いなので確実に同じ環境で同じように実験を行いました)
画像は種の撒布から10日後くらいだったと思います。

本当に植物には自然の摂理を変化させてしまって申し訳ない話ですが、散々カイワレに謝って実験を行いました。
正直、半信半疑でしたが、結果見事に変化が出ました。
右が気功を行った方、左が行わなかった方です。

去年は猛暑だったので左は枯れ果ててしまいました。
先生に枯れた方が可哀想だと思ったら、実験後にまた復活させれば良いと言われていましたが、復活すら出来ませんでした・・
左のカイワレさん・・本当のごめんなさい・・orz
この場合、変化を加えた右のカイワレさんにもちゃんと謝っておきました。
やっている最中は猜疑心満々で半信半疑だったので毎日の変化とかレポートしていなかったのが勿体無かったです。
「まぁー偶然でしょー」と合理化して割り切ろうともしましたが、ここまで大きく変化が生じるものでしょうか・・?
サボテンに話しかけたりすると成長に変化が現われたり、農家で作物にクラッシックの音楽を聞かせていると育ちが良く質の良い作物が比較的大量に収穫できるなんて話もよくある話です。

私はこういう力は人も含む森羅万象全てにあるものだと思っています。
懐疑的な立場すらも通り越して否定的な立場に回る人がいますが、そういう人こそ文字通り「現実逃避」。科学教という宗教から脱会できずに、明日変わるかもしれない「常識」を聖書のようにしがみ付き、変化を恐れている人だと思います。

「証明できていないからこそ今後、是非とも科学で証明すべきだし、あって悪い物ではないと思います。まして「ない」と断言するほうが科学的ではない。」
これは近年、関東の難関大学4校(理系学部限定)でのアンケートの「超常現象を信じるか?」と言う問いに対する回答です。
統計的には文系の人よりも理系の人の方が超常的な話に肯定的or懐疑的な立場の人が多いです。その理由は「科学的な根拠を求めるから、それまでは一つの可能性を「ない」と断言できない」からです(書籍:「なぜ超常現象を信じるのか?」より引用)
「科学にとって最高の可能性とは神秘を発見した時にある」
これはアインシュタインの言葉です。(アインシュタイン自身も東洋訪問の際に内気功を体感し、効果を認めたことは言わずと知れた事実です)

このような純粋でシンプルで建設的で中立的な考え方が僕は個人的に大好きです。
限りないポテンシャルを感じます。

今回はお遊びに終わりましたが、
また機会と時間があれば詳細に研究してみたいものです。