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悟りへの道標(悟った人の言葉を紹介していきます)

現在は主にニサルガダッタ・マハラジ(1897~1981)の言葉がメインです。みんなで悟りましょうヽ(=´▽`=)ノ

エゴ

2016-08-26 00:45:22 | ランジット・マハラジ
幻想への愛着をすべて失えば、は自ずからいるでしょう。あなたが現実に夢中になるのは、とあなたは同じであって、それ以外の何物でもないからです。”あなた”も”自分”も現実には存在しません。自分について忘れなさい。真の理解とは、「私は実在しない。」です。

エゴとは不産女の息子のようなものです…実在しません。錯乱した無知な心による誤った投影です。

何かをしなければならないとか、何らかの結果を手にしなければいけないとか感じている限り、あなたはまだ幻想の支配下にいるのですよ。幻想を忘れて、でありなさい。無為が現実なのです。

「私は何もしていない。」が、あなたの理解であるべきです。いかなる結果も気にしてはいけません。「私は”私”を超えた現実です。」と言うのです。それでありなさい。これが正しいありかたです。

自分の中に深く入っていきなさい。あなたが消えてしまうほど深く。”私”が消えれば、だけが残ります。永遠の現実はいつもここにありますから、何も思い悩むことはありませんよ。

「私は多くのことをします。私は実在します。」と、あなたは言います。「あなたは何もしません。あなたは実在しません。」と、私は言います。ここが違うのです。あなたが実在しないなら、誰が話し、誰が語るのでしょうか?誰もいません!私は決して話さず、決して語りません。すべてを忘れた瞬間、はいます。単純明快!

「私は実在します。」と、あなたは感じますが、その実在そのものが偽りなのですよ。あなたが「自分」と「世界」を本物とみなせば、心はありとあらゆる偽りの思考を抱きます。

人はそれぞれ、生まれると名前がつけられます。実在しないものに、名前がつけられるのです。しかし、あなたは決して生まれなかったし、名前もありません。あなたに名前がないなら、エゴはどこにありますか?

エゴが最強のトラブルメイカーです。”私”が残っている限り、トラブルは尽きません。エゴを現実に溶かし、トラブルから解放されなさい。どうしてトラブルメイカーの奴隷を続けているのですか?

幻の”私”が本当は実在しないなら、世界は実在しません。そのことを自明にしてください。

”私”がいれば、”あなた”もいます。”私”がいなければ、”あなた”はどこにいますか?

”私”としてあり続けないことが、最高の理解です。

エゴを落とさないと、現実であることはできません。はいつでもここにいるのに、あなたはを見ることができません。エゴが、現実への認識を妨げる唯一の要因なのです。

ある虫は半分に切られても生き続けますね。エゴはそれと全く同じなんですよ。

何もあなたのものではありませんし、誰もあなたのものではありません。

誰一人、他者に構っている人はいません。愛が二元性に過ぎないというのは、あなたは他の何かを愛することしかできないからです。あなたが現実だというのに、誰を愛し、誰を愛さないというのですか?

物事はあなたの意思に反して起こるかもしれませんが、あなたの意思は本物ですらないのです。これに気づけば、エゴの支配から解放されます。さもなければ、エゴの奴隷のままです。

あなたの理解は、「私は実在しない、私はいない。」であるべきです。このようにして、全ての行為は”無為”となります。誰のものでもなくなるからです。

思考は無知から生じます。思考が実在しないことがわかれば、すべて無になります。あなたは、「私は無、全ては無。」とわかります。何かであってはいけません。何かでありたいなら、それはあなたのエゴがまだ働いている証拠ですよ。あなたが無であれば、現実だけが残ります。

「私はめっちゃ強い。」と言う人は、砂漠でトランペットを鳴らしているのです。喜びや幸せは、まだ幻覚症状なのですよ。

2016-08-25 07:34:42 | ランジット・マハラジ
体が束縛なのです。「私は体だ。」と言うなら、あなたは地獄にいます。自分が体ではないことに気づけば、あなたは偏在していることを悟るでしょう。これが天国です。

母親の子宮にいたとき、あなたは一滴でした。そしてある日、再び一滴になります。あなたの体が墓に入れられれば、すべては消えてしまいます。なのに、どうしてこの体を愛するのですか?愛してはいけません。決して死ぬことのない自己を愛しなさい。

あなたは体を取って、「私はこれです。」と言いますね。これが最大の無知なのですよ。

体は死にますが、あなたは決して死ぬことがありません。そして体が死ぬとき、体は現実に還ります。すべてはなのです。以外は何も存在しません。

私は体に関する出来事に関心がありません。体から離れなさい。あなたは「私は体ではない。」という強い確信を抱かなければいけません。

あなたは自分を体に引き下げておいて、絶え間なくその心配をしているのです。どうしてですか?「私は体です。」と言うことによって、あなたは自分をひどく矮小な生き物に限定してしまいました。体は無です。ゼロから現れて、すぐにゼロに還るものです。

体が綺麗だなんて、どうして言えるのですか?体は糞尿を出します。体は汚いもの、糞尿製造機なのに、あなたは「私はこれです。」と言いますね。が体に働き続けている間は、体を崇拝しますが、が離れて体が死んだ途端、できるだけ早く体を捨てたがります。死に掛けの糞尿製造機のオーナーになるのではなく、それよりは永遠の現実のオーナーになりなさい。

例えば、もしあなたの足におできができたら、医者に取り除いてもらうようお願いするでしょう。このおできがまだ自分の体の一部であるとしても。おできがあなたを苦しめるので、あなたは喜んでおできと別れますね。同じように、体とはあなたにできたおできに過ぎないものだと気づけば、体が消えるのを見て凄く幸せになるでしょう。この体はあなたの腫れ物ですから、真の理解によって取り除かなければいけません。

師との出会い その1

2016-08-25 07:00:59 | ランジット・マハラジ
質問:あなたが12歳のとき、初めてシッダラメシュワル・マハラジにお会いしたとき、どうして彼が自分の師だとわかったのですか?

ランジット:私が彼を見ると、彼は私を圧倒したのです。そこが要点です。私は生まれてからというもの、主クリシュナやラーマ、その他のヒンドゥー教神話の神々を常に思い続けていました。6歳から心を込めて祈っていたのです。たいへんな帰依心をもって主クリシュナを拝むことに、非常に没頭していました。寺院や聖地にもよく行ったものです。家族みんなも、私と一緒に拝んでいました。当時、私の体はとても弱かったので、断食や、色んなことをしていました。インドでは、クリシュナ・プルショッタマ…主クリシュナ月…と言われる特別な月があります。この月の期間中は喋りませんでした。食事中でもです。この期間中に私はたくさんのことをしていた、ということを言いたいのです。

その後、私は事故にあいました。父と歩いているときに、荷車の車掌が足を轢いたのです。骨が3つに折れてしまって、完全に包帯で巻かれました。その時は、母が妊娠中でもあったので、隣人が私の面倒を見てくれました。その方はたいへん信心深い老婦人でした。結局、私は彼女と20年共に過ごしたのです。そして、彼女がたいへん信心深かったので、そういった類の考えが私にたくさん湧いてきました。彼女の甥は弁護士事務所で働いていて、そこの管理職には、当時シッダラメシュワル・マハラジと交流があったオカリア氏という男性がいました。彼女の甥は全く異なった性質で、神を信じていませんでした。1925年に、彼はオカリア氏と一緒に、パトゥリのシッダラメシュワル・マハラジの生誕地へ物見遊山に出かけました。師の人格があまりにも素晴らしいので、師と交流しに来た人は、心を動かされずに去ることなど不可能でした。なので、彼女の甥は神を信じていないにもかかわらず、シッダラメシュワル・マハラジからマントラを授かったのです。彼がボンベイに戻ってくると、私に、「シッダラメシュワル・マハラジがボンベイに来られたら、君を連れて行くよ。君はマントラを授からなきゃいけない。」と告げました。私はマントラを授かり、それから師の祝福が自然に訪れたのです。私は偶像神達を信仰していて、熱狂的信者のように崇拝していましたが、その翌日には離れました。なぜって?それはわかりません。

師を見たとき、私は主クリシュナを忘れてしまいました。それが、私が師の内に見た一番素晴らしいものです。なので、私が言いたいのはこういうことです。私が師を見たとき、ほんとうに自然さを感じ、そして主クリシュナを忘れてしまった、終了!この出会いの後、私には何も残っていません。なので、このように私は師と出会い、師の恩寵によって悟ったのです。全ての栄光は師に向けられるものであって、私にではありません。

「我々はいつ真理を悟るのでしょうか?どうすればそれは起こるのですか?」と、尋ねる人たちがいます。それが起こるのは、あなたのマインドがそれをたいへん強く望んだときです。なので、私が師に出会ったその日以来、私は全ての言葉を失いました。人が何かを得ることができる、この世でただ一人の人物が師であるとわかったのです。彼の知識はあまりにも素晴らしく、かつシンプルでした。彼は決して難解で複雑な言葉を用いませんでしたし、ヴェーダ(インドの最高聖典)は女性や子供にも教えられるべきだと信じていました。彼は現実に対する自身の悟りを確信していたので、悟りは万人の生得権だと感じていたのです。人間の体でのみ、これを達成することができます。そうでなければ、例えば動物や鳥には識別力、知性はありません。生命力は同じですが、識別智は存在しないのです。人間の体だけが、善と悪を、何が現実で何が非現実か、何が幻で何がかを識別する智を得ました。

質問:初めて師と出会ったとき、いっぺんに全てを捨てたのですか?

ランジット:そうです。”捨てた”とは、それまでの私の人生から離れた、ということです…信仰が私の人生でした。ですから、まずそれを捨てました。そうしたら、他に捨てるものがあるでしょうか?その後には、何も捨てる必要はありません。でも、家族は反対しました。母は彼のところに聴きに行ったのですが、それでも母と家族は私に反対でした。私は全然彼らを気にしませんでした。私は彼ら皆に「あなた達なんか構うもんか!」と言いました。なんと心の強い男だったんでしょう(笑)

質問:そうに違いありませんね?

ランジット:人はそうあってしかるべきです。もしあなたの心が強くならなければ、現実を受け入れることはできません。それはあなたに死を求めます。一方には死が、もう片方には現実があります。私は死を受け入れています。「あなたが死ぬことはありません。あなたが現実なのですから。」そのくらい強い意志の力を、人は持たなければいけません。私の家族、兄弟たち、多くの人たちは、私にたいへん反対しました。私は「僕は誰も構わない。」と言いました。ですから、人はそのような真の理解を有すべきなのです。理解があなたを強くしてくれます。他の何物でもありません。医者を呼ぶと、医者は「治してあげますから、心配しないで。」と言うでしょう。次に薬を渡します。あなたはそれを受け入れるべきなのです。なぜなら彼にはその理解があるからです。他の医者は、あなたは死ぬと言います。ですから拒絶し、気にしてはいけません。あなたの自己を信頼しなさい。自己への信頼が緩めば、あなたは迷って途方にくれてしまいます。この世で一番卑小な生き物になってしまいます。(手で親指と人差し指の間の空間を示して)何がありますか?この世にはあまりにも多くの人がいます。一人の人にはどんな意味があるというのでしょう?彼は英雄の中の英雄かもしれませんが、何が存在しますか?誰もが皆現実)であると気づけば、あなたは真の英雄中の英雄を理解することができますよ。そのとき誰もが皆です。皆このことを理解しません。お手上げです!皆そのことを心に留めません。彼らは「これをしたら、何が起こりますか?」と言います。そういった疑いがいつも心に浮かんできます。心はいつも疑いでいっぱいです。ですから、心を気にかけるべきではないのです。心を投げ捨て、エゴを投げ捨てなさい。あなたの自己にある現実を理解しなさい。それが彼のミッションであり、彼がそのミッションを授けたのです。今日、私はおそらく誰にでも「どうして悩むんです?あなたはですよ。」と言うでしょう。あなたの心には力があるばずです。そうでなければ、どうして何か一言でも話すことができるでしょう?「わかりました。あなたを殺しましょう。あなたはなんですから。」と言う人もいるかもしれません。では、殺しなさい!私は、私は決して誰にも構わない、と言っています。あなたは理解しなければいけません。識別力が使われるべきなのです。心の識別が。そこでは、心があなたを助けてくれます。心はそこで現実を理解する助けになってくれます。あなたが現実を求めるなら、心はそのために何でもしてくれるでしょう。

2016-08-25 03:15:44 | ランジット・マハラジ
死が無であることを理解してください。「私は不生、私は不死。私は決して生まれなかったし、私は決して死なない。」と知るのです。蛇の毒牙を抜いて、一緒に戯れなさい。あなたはそれが自分に何の害も及ぼさないことを知っています。死とは無なんですよ。毎日、あなたが眠るとき、それは小さな死のようなものです。どうして恐れるのですか?そこには何もありません。すべては幻です。あなたの心を、その恐怖の存在しない状態だけに留めなさい。毒牙が抜き取られたように、同じ方法で、世界と戯れ、幻と戯れなさい。害はないのですから。それがあなたの心に影響することはありません。恐怖なしに生きるのです…死無く、恐怖無く、「私は、あの真のだ。」と知って。何も存在しません!何があなたに危害を加えるというのですか?

私はあなたに伝えることはできますが、あなたが棘を抜かなければいけません。それは実在しないということを、当然だと思ってください。それは実在しませんが、あなたはそれが実在すると感じています。困難は、あなたがそれを放っておかないところにあるのです。あなたはこれから起こることを心配しています。他に何も起こりはしません。今まで何も起こってはこなかったのですから、これから何が起こるというのでしょうか?故に、エゴの棘を摘み取って、いつも「私は何もわからない、私は見ていない、私は食べていない、私は眠っていない、私は歩いていない、私は何もしていない。」と言いなさい。その時、そこに”私”はいないので、エゴは消えざるをえません。

誰も死なず、誰も生まれません。決して死なず、決して生まれないものが、現実です。

人は、真に生きることに勇敢であるべきです。勇敢であれば、恐怖は存続しません。勇敢であり、師を信頼しなさい。師の言葉に従いなさい。あなたとは一つなのですから。覆いを取り除きなさい。無を取り除くのは簡単ですが、存在しているそれ、あなたが忘れてしまったそれは見難いものです。インドの風習に、死後13日目に親族全てにお菓子が配られるというものがあります。これが意味しているところは何でしょうか?それは…誰も決して死にはしない、ということです。

ゼロ

2016-08-23 08:30:49 | ランジット・マハラジ
すべての人はより多くの知識を欲しがっています。その知識を知りたいのです。知識とは何でしょうか?それはゼロから、認識から生じるものです。知識とはゼロなんですよ。知識が本物でないことがわかったら、あなたはゼロを超えられます。

この世界はゼロから創られます。誰がゼロを創造したのでしょう?あなたは決してを見つけられません。

すべての思考はゼロから、認識から生じます。「私は何々だ。」と言うのは、単なる思考なんですよ。それら自身では本当には実在しない思考の数々から、あなたは作られています。幾時代にわたって幾千もの思考が現れてきましたが、今それらはどこにありますか?

悟ったものが話すとき、彼は空の彼方から、ゼロの彼方から語ります。

花から花へブンブン飛び回って過ごす蜂のようではいけません。自己を知れば、すべては無であることがわかるでしょう。

あらゆるものはゼロから現れ、ゼロに戻るのですから、どうして悩むのですか?

地球は大きなゼロに似た形をしています。目にするものすべてにゼロをつけなさい。どの思考にもそれぞれゼロをつけるのです。あらゆるものに真の価値を授けなさい。何も実在しません。

あなたが自分の経験を集めているとき、あなたはただゼロを集めているだけなんですよ。現実はゼロの彼方、経験の彼方、認識の彼方、空間の彼方にあります。

生徒は全てにゼロをつけるべきです。自分自身を含めて。そうしなければ進むことはできません。誰も自分にゼロをつけたがらないのは、他人に認められなくなるのが怖いからです。狂い、実行しなさい!

何かが自分を害しているとか、傷つけているとか感じるなら、それはあなたが幻想の中にいることを示しています。どうして無があなたに危害を加えられるでしょう?幻想の中にあるすべては無なのです。