製図工の錘は、コンパスを使って描いた円よりも、もっと完璧な円を描くことができた。
錘の指は、どこともわからない所から、自然な形を生みだした。
錘の心は、そうしているあいだ自由で、自分のやっていることに関わっていなかった。
なんの集中も要らない。錘のマインドは完全に1つで、なんの妨げも知らなかった。
なので、靴が合えば、足は忘れられ、帯が合えば、腹は忘れられ、ハートが正常なら、是非は忘れられる。
なんの意欲も、衝動も、必要も、誘惑もない…
そんなとき、あなたの仕事はコントロールされている。あなたは自由な人間だ。
くつろいでいることが正しい。正しくはじめると、あなたはくつろぐ。くつろぎ続ければ、あなたは正しい。
くつろいで歩むための正しい道とは、その正しい道を忘れること、そして、その歩みがくつろいでいることを忘れることだ。
荘子は、開花した者のなかでも最も稀な者の1人、ブッダやイエスよりも稀だ。
というのも、ブッダとイエスは努力を強調し、荘子は無努力を強調したからだ。
努力によって沢山のことが可能だが、無努力によってさらに沢山のことが可能だ。意志によって沢山のことが成し遂げられるが、無意志によってさらに沢山のことが成し遂げられる。そして、意志の力で成し遂げたものは1つ残らず、常にあなたの負担であり続ける…それは常に葛藤、内面の緊張になるし、あなたはそれをいつ何時でも失いかねない。それは絶えずメンテナンスされる必要があり、sれをメンテナンスすることはエネルギーが要るし、それをメンテナンスすることは、最後にはあなたを使い尽してしまう。
無努力によって達成されたものだけが、決してあなたの重荷になることはなく、重荷ではないものだけが、永遠になりうる。いかなる面でも不自然ではないものだけが、永久にあなたとともに在り続けられる。
荘子は言う。本物、神聖、実在は、自分自身を完全にその中に失くすことで達成されるのだ、と。それを達成する努力さえ、障害となる…そうしたとき、あなたは自分を失うことができない。
自分を失う努力さえ、障害となる。
どうやったら自分を失う努力なんてできるだろう?あらゆる努力は自我から生まれ。自我は努力によって強められる。自我が病なのだ。だから、すべての努力が完全に捨てられる必要があり、なられなければならないことは何1つない。人は、実在の中に自分自身を完全に失う必要がある。人は、もう一度幼子のように、生まれたてのようになる必要がある。何が正しいか知らず、何が間違っているか知らず、いかなる区別も知らない。区別が入り込んだとたん、「これは正しい」「あれは間違っている」と知ったとたん、あなたはもう患っており、現実から遠く隔たっている。
子供は自然に生きている。子供はトータルだ。いかなる努力もしない。というのも、努力が意味することとは、あなたが自分自身と戦っているということだからだ。あなたの一部は賛成で、あなたの一部は反対。ゆえに努力だ。
あなたは沢山のことを成し遂げられる。覚えておきなさい、特にこの世で、努力によって沢山のことを成し遂げられるのは。というのも、努力は攻撃、努力は暴力、努力は競争だからだ。しかし、あの世では、努力では何一つ成し遂げられないのであり、努力とともに始める者達は、最終的には努力を落とす必要もあるのだ。
ブッダは6年間努力した。絶えず瞑想し、集中して。苦行者になったのだ。ブッダは、人間にできることは全てやった。あらゆる努力、あらゆる手段を尽くした。自分の全存在を賭した。しかし、それは努力だった。そこには自我があった。そして、ブッダは失敗した。
究極のなかでは、自我ほど失敗するものは何一つない。この世のなかでは、自我ほど成功するものは何一つない。
物質界では、自我ほど成功するものは何もなく、意識界では、自我ほど失敗するものは何もない。事情は正反対だ。そして、そうである必要があるのは、次元が正反対だからだ。
ブッダは完全に失敗した。6年経ち、完全に挫折していた。完全に、と私が言うとき、100パーセントを意味している。一欠けらの希望さえ残っていなかった。完全に絶望していた。
その絶望のなかで、ブッダはあらゆる努力を落とした。これまで既に、世俗を落とし、王国を捨てた。この現象界に属するもの全てを後にし、放棄していた。
今、6年の猛烈な努力を経て、あの世に属するものをも全て後にした。彼は完全に独りだった。空っぽだった。その夜、ブッダは普通とは違う性質の眠りを眠った。というのも、自我が全くなかったからだ。普通とは違う性質の静寂が生まれた。というのも、努力が全くなかったからだ。その夜、ブッダに普通とは違う性質の状態が起こったのは、夢見が全くなかったからだ。
努力が全くなければ、不完全なものは何一つない。そうしたとき、夢を見る必要はない。夢とは、常に何かを完成させるものだ。昼に完成されないまま残っているものが、夢のなかで完成されるのだ。というのも、マインドには全てを完成させる性質があるからだ。もしもそれが完成していなければ、マインドはいつも不安になる。努力は多くのものごとに注がれ、もしもそれらが不完全なままなら、夢が必要だ。
欲望があるとき、夢を見るのは必然だ。というのも、平和を乱すことが夢見なのだ。夢見とはまさに欲望の影なのだ。
その夜、なされることが何一つなかったとき…この世は既に無用で、今やあの世も無用だった。全ての行動ための意欲が止んだ。行く場所はどこにもなく、どこかに行く者は誰もいなかった。その夜、眠りはサマーディに、悟りになった。その眠りは、人間に起きうる究極のものとなった。その夜ブッダは花開き、朝に光明を得た。ブッダは目を開き、空の消えかかっている最後の星を見た。そこには全てがあった。それは常にそこにあったのだが、あまりに求めすぎたために、見ることができなかったのだ。それは常にそこにあったのだ。しかし、欲望を抱いて未来へ行動しすぎたために、今ここを見ることができなかったのだ。
その夜、一切の欲望が、一切のゴールが、一切の行き場がなく、どこかに行く者は誰一人いなかった。すべての努力が止んだ。突然、ブッダは自分自身に気づいた。突然、あるがままの現実に気づいた。
荘子はまさにその最初から言っている。いかなる努力もしてはいけない。荘子は正しい。というのも、ブッダがしたのと同じだけトータルな努力をあなたがすることは決してないからだ。あなたは、挫折しすぎたために、努力が独りでに落ちるなんてことは決してない。あなたの努力は常に不完全だ。そして、あなたのマインドは常に言い続ける、もうちょっとで何かが起きる、もう一歩で。ゴールは近い。どうしてショゲてるんだ?ほんのもう少しの努力が要るだけだ。ゴールは毎日近づいて来てるんだから。
それほど完全な努力をあなたがすることは決してないため、完全に絶望することは決してないのだ。そして、あなたはこの半端な努力を、沢山の生涯でできる。それが、あなたが過去に行ってきたことだ。
あなたがここに、私の前にいるのは初めてのことではない。真理を、現実を悟るために何らかの努力をしてここにいるのは、初めてのことではない。あなたは過去に、何回も何回も、100万回もそれをやってきたのだ。
荘子は言っている。初めに努力を落とす方が良い。それは落とされる必要がある。最初に落とすか、最後に落とす必要があるか。しかし、最後はすぐには来ないかもしれない!だから、2つの道がある。トータルな努力をすること…あまりにトータルすぎて、すべての希望が砕け散り、努力によって成し遂げられるものは何一つないということを悟るに至る