1996年6月
質問者:ワイの本質、「我在り」に瞑想したら、原因ない愛の感覚広がんねん。この感覚って正しいもんなん?それともやっぱ幻なん?
ランジット:それは自己の至福や。お前さんは”我在り”の臨在感じとんねん。観念と幻ぜんぶ忘れとるんや。それは無制限の境地や。この至福が湧くんは、お前さんが対象を忘れた時やねんけど、その至福にはまだ自己の感触あんねん。やっぱまだ観念のもんや。外の世界にうんざりしたら、「一人になりたい」「自己ん中におりたい」て思うやん。それは高い境地の体験やねんけど、やっぱまだ心のもんや。自己には快も不快もあらへん。”自分”いう感覚あらへんねん。「幻想を完全に忘れる」いうんは、「何もあらへん」「何も存在せえへん」いうことや。相変わらずそれはあんねんけど、お前さんにとっては実在やあらへんねん。それが「悟り」とか「自己知」いうて呼ばれとるもんや。「無自己の自己を悟る」っちゅーことやな。
誰かに呼ばれたら、「ワイここにおんで」言うやん。せやけど、「ワイはここにおる」て言う前から、お前さんはおんねん。幻は実在に何も加えることできへん。実在に何も特殊なもん加えることができへんのは、実在があるもんすべての基盤やからや。存在するすべて、お前さんが認識するもん、認識対象すべて、あるもんすべて、実在に拠っとんねん。そこには知識も無知も存在せえへん。どっちもあらへんのや。せやさかい、それにどんな表現加えられる?表現加えられるんやったら、何や体験されるもんあんねん。ほんのちょっとでも存在感じとる間はまだ無知で、自己から離れとるっちゅーことや。愛感じるかもしれん。それは構へんけどやっぱまだ一つの境地で、境地いうもんはいつでも制限されたもんや。制限されてへんもんは境地やあらへん。それは幻の不在いう体験や。これはめっちゃ微妙なもんやから、そんとき無知も知識も両方残らんのや。理解するん難いけど本気で求めたら、その無境地の境地つかめんで。それはあるし、いつでもあってんけど、お前さんにそれがわからんっちゅーとこが難いとこや。実在があらへんとこなんて一箇所もあらへん。お前さんは物通してその存在体験しとんねんけど、こんなもんぜーんぶ無や。それはどこでもあんねんけど、お前さんには認識できへんねん。何でや?お前さんが実在そのものやねんから、自己をどうやったら認識できんねや?自分の顔見るには、お前さん鏡必要やろ。
ほんまの幸せはお前さん中にあんねん。外とちゃう。熟睡中、お前さんは幸せや。世界忘れとってん。ちゅーことは、幸せは世界を忘れたら見つかんねん。世界はそのまま放っとき。壊しなや。せやけど、世界があらへんことわかっとき。せなあかんことぜんぶしーや。せやけど、理解して離れとき。なんでやゆーたら、お前さんが何感じても、何気づいても、何手に入れても、ぜーんぶ幻やからや。そんなもんあらへんねん。お前さんの心はそのこと認めなあかんねんで。
聖者たちは言うやん。「一切は無やねんから、なんでこの無がお前さんに影響したり触れたりできんのや?」て。せやけどお前さんの心が言うことは、お前さんに影響するし触れとる。せやったらどないしたらええんや?心は知識以外の何もんでもあらへん。人は心と知識を分けるけど、これは正しくないねん。世界には何もあらへん。幻や。実在だけがあんねん。「幻がほんまは幻や」いうこと理解したら、なんでお前さんに影響できんのや?
なんで「ワイに影響しとる」いうて感じれるんや?蓮の葉っぱは水中で生きとるし水吸うとるけど、水に触れてへん。そこに水注いだら、水転がり落ちるから、葉っぱは水に触れへん。何も残らんいうこと理解したら、愛いう問題はもうあらへん。お前さんが感じとる自己の至福は、まだ知識の喜びや。まず最初に、お前さんはそれに気づかんとあかんねん。次に、お前さんが実在そのものになんねん。なんでやいうたら、お前さんがカレやからや。せやから幻ん中で、世界ん中で生きんのは何も害あらへんけど、存在せえへんねんから、お前さんは触れられへんねん。蓮は水中に留まっとるけど、気にせえへん。
このやり方で、自分の正体を体験せなあかんねん。体験言うたけど、そこに言葉はあらへん。それは空間を、ゼロを超えとるからや。言葉はそこに入り込めへんさかい、そこで止まるんや。バガヴァッド・ギータでクリシュナはんは言うた。「言葉が戻ってくとこーそこがワイの境地やでー」てな。クリシュナはんは王様で統治しとったのに、何もあらへんいうことわかっとったんや。すべては無やいうこと、この無は自分に触れれへんことを、お前さんは理解してへんねん。何も自分に触れれへんいうて感じとっても、まだ幻ん中におるんや。それが哲学の最高点で、お前さんはそこに到達できんねん。そこには師も弟子もおらん。両者はただ1つやからや。そこに二元性はあらへん。ただ一元だけがあんねん。そっから外れてあるもんは何もあらへん。せやから幻ん中に留まり。せやけど理解と一緒にな。
友達2人が別の友達に悪戯したかってん。1人が罵りだしてんけど、もう1人はそれ聞いて笑うとった。3人目は困惑して言うてん。「なんで罵られとんのに笑ってられるんや?」てな。笑ってたんは、そのゲームの鍵を握っとったからや。せやけど3人目は理解してへんかってん。同じで、悟った人は世界ん中で生きとるけど、「これみんな無や」「何が起こっても、何も起こってへんねん」いうこと理解しとんねん。せやから悟った人らは触れられへんねん。人はいつも「起こってること」とか「これから起こること」を恐れとる。「人が何言うか」怖がっとんねん。「ワイは何したらええんや?」「ワイに何起きるんや?」て考えとる。戦っとるか楽しんどんねん。このタイプの束縛はぜんぶ心が原因なんやで。
その環から抜け出した者は、すべて無やいうて理解しとる。それは存在せえへん、ただの無知や。海中深く潜った者だけが真珠を見つけれるて言われとる。表面に残っとる者は快苦の流れに押し流されとんねえん。お前さんは無限の底まで深く潜らなあかんねん。なんでやゆーたらそこがお前さんの居場所やからや。限定で絶対止まりなや。金は、装飾品でとっとる姿形を気にせえへん。犬の姿でも神の姿でも、形に無関心や。同じで、物事に無関心でいとき。なんでやゆーたら存在せえへんからや。何もお前さんに触れれへん。お前さんは超然としとんねん。心は、幻を完全に理解するポイントに至らなあかん。そこにお前さんの境地があんねん。理解した者には、何も残らへん。もう得失あらへん。「実在手に入れるなんて、ワイにできんのか?」いうて聞きなや。なんでやゆーたらお前さんが実在やねんから、なんで「ワイにできる」言うんや?まず初めに、その環から出え。1っこずつみーんな捨てて、自分の自己に深くまで進み。次に戻ってきて、全なるもんの中いとき。お前さんが描写しいたもんは、ええ境地や。間違いない。せやけどもう少し先進み。「ぜーんぶ幻や、ただの幻にすぎへん」て心が受け入れるとき、お前さんは自己ん中おんねん。体と心は幻や。それ知って幸せにならんとあかんで。自己同化捨てえ。師がする唯一のことは、お前さんがまったく気に留めてへん、自分の中にある力のほんまの価値を示すことや。師はそれ以上何もせえへん。お前さんがただの石ころ思うとったもんが、師によってダイヤモンドの正体やっことが明かされんねん。師はお前さんにいっちゃん高価な石を作ってくれるんや。
「ワイは遍かつ全能や。ワイは全存在の創り主や」お前さんがすべてのベースにおるとき、お前さんは全なるもんの中におんねん。せやから、人殺しも悪とみなせへんねん。「何が起ころうが、それは”ワイ”の命令や」て知っとき。奴隷やなくて、主人でおり!お前さんが主人やねんで。
訪問者:ワイが知りたいんは、なんで悟った者ん中には、他の者の悟りを助けるために転生する者がおるんかっちゅーことや。
ランジット:誰も来おへんし、誰も去らん。それ誰に教えてもろたんや?お前さんは本読んで、それリピートしとんねん。「いっちゃん偉大な者は無名で死んだ者や」言われとる。ラーマとかクリシュナは二流のヒーローやってん。完成者は静かに生きて、静かに死ぬんや。その後、悟った者の想念が他の誰かに働くねん。せやけど戻ってくるいう考えはナンセンスや。
誰も去来せえへん。ぜーんぶ夢や。お前さんは夢ん中で偉大なマスターなれるけど、目え覚めたら、普通の状態に戻んねん。誰がそこで消えて、誰が戻ったんや?何も起こってへんかってん。「偉大なマスター」いう観念がお前さんに浮かんできて、お前さんはこの「偉大なマスター」になってんけど、目え覚めたら「はぁ、こんなんみんなナンセンスや。なんでワイが偉大なマスターなれるんや?ワイのアホ!」て思うねん。それでも、お前さんは夢ん中では講義して、こういうことぜんぶ簡単に話しとったのに、目覚めが来たら、この知識ぜんぶ消えんねん。それは夢やってん。それどっから来て、どこに消えたんや?何もあらへんとき、すべてはただの心の信念とか観念やねん。「ワイは神の生まれ変わりや」とか言うとる似非聖者はカレ、実在を知らへん。それどころか自我の奴隷、幻の奴隷や。知識そのものに何の実体もあらへんとき、こういう問題はまったくあらへん。
理解した者はすべて捨てんねん。普通の人みたいに見えるけど、そのハートはまったくちゃうねん。外におってなんで理解できるんや?家のオーナーになるには入らなあかん。同じで、自分の自己のオーナーになるには入り込まなあかん。せやけどそこでは「自分」は「自分」のまま残らへん。師と弟子いう問題はもうあらへん。体をとる者やったら誰でも師の想念が吹き込まれんのは、師と静寂ん中におる者が1つやからや。「悟った者」のハートに入ったら、お前さんは「お前さん」として残らんへん。カレだけがおるからや。せやから、教える者は神の化身や言われとる。師は皆に知識を放つねんけど、知識を重んじへんのは、その知識が最大の無知やからや。せやから、何にも触れられへんねん。
訪問者:すべてが幻やったら、お前さん自身も幻なんか?
ランジット:おー、せやで!ワイは「最大の幻」や!ワイが心込めてほんまありのまま語っとることみーんな偽りや!せやけど、師がお前さんに語る偽りは、お前さんを「あのポイント」に到達させてくれるんや。人のアドレスは本物やあらへん。その人だけが本物や。
質問者:ワイの本質、「我在り」に瞑想したら、原因ない愛の感覚広がんねん。この感覚って正しいもんなん?それともやっぱ幻なん?
ランジット:それは自己の至福や。お前さんは”我在り”の臨在感じとんねん。観念と幻ぜんぶ忘れとるんや。それは無制限の境地や。この至福が湧くんは、お前さんが対象を忘れた時やねんけど、その至福にはまだ自己の感触あんねん。やっぱまだ観念のもんや。外の世界にうんざりしたら、「一人になりたい」「自己ん中におりたい」て思うやん。それは高い境地の体験やねんけど、やっぱまだ心のもんや。自己には快も不快もあらへん。”自分”いう感覚あらへんねん。「幻想を完全に忘れる」いうんは、「何もあらへん」「何も存在せえへん」いうことや。相変わらずそれはあんねんけど、お前さんにとっては実在やあらへんねん。それが「悟り」とか「自己知」いうて呼ばれとるもんや。「無自己の自己を悟る」っちゅーことやな。
誰かに呼ばれたら、「ワイここにおんで」言うやん。せやけど、「ワイはここにおる」て言う前から、お前さんはおんねん。幻は実在に何も加えることできへん。実在に何も特殊なもん加えることができへんのは、実在があるもんすべての基盤やからや。存在するすべて、お前さんが認識するもん、認識対象すべて、あるもんすべて、実在に拠っとんねん。そこには知識も無知も存在せえへん。どっちもあらへんのや。せやさかい、それにどんな表現加えられる?表現加えられるんやったら、何や体験されるもんあんねん。ほんのちょっとでも存在感じとる間はまだ無知で、自己から離れとるっちゅーことや。愛感じるかもしれん。それは構へんけどやっぱまだ一つの境地で、境地いうもんはいつでも制限されたもんや。制限されてへんもんは境地やあらへん。それは幻の不在いう体験や。これはめっちゃ微妙なもんやから、そんとき無知も知識も両方残らんのや。理解するん難いけど本気で求めたら、その無境地の境地つかめんで。それはあるし、いつでもあってんけど、お前さんにそれがわからんっちゅーとこが難いとこや。実在があらへんとこなんて一箇所もあらへん。お前さんは物通してその存在体験しとんねんけど、こんなもんぜーんぶ無や。それはどこでもあんねんけど、お前さんには認識できへんねん。何でや?お前さんが実在そのものやねんから、自己をどうやったら認識できんねや?自分の顔見るには、お前さん鏡必要やろ。
ほんまの幸せはお前さん中にあんねん。外とちゃう。熟睡中、お前さんは幸せや。世界忘れとってん。ちゅーことは、幸せは世界を忘れたら見つかんねん。世界はそのまま放っとき。壊しなや。せやけど、世界があらへんことわかっとき。せなあかんことぜんぶしーや。せやけど、理解して離れとき。なんでやゆーたら、お前さんが何感じても、何気づいても、何手に入れても、ぜーんぶ幻やからや。そんなもんあらへんねん。お前さんの心はそのこと認めなあかんねんで。
聖者たちは言うやん。「一切は無やねんから、なんでこの無がお前さんに影響したり触れたりできんのや?」て。せやけどお前さんの心が言うことは、お前さんに影響するし触れとる。せやったらどないしたらええんや?心は知識以外の何もんでもあらへん。人は心と知識を分けるけど、これは正しくないねん。世界には何もあらへん。幻や。実在だけがあんねん。「幻がほんまは幻や」いうこと理解したら、なんでお前さんに影響できんのや?
なんで「ワイに影響しとる」いうて感じれるんや?蓮の葉っぱは水中で生きとるし水吸うとるけど、水に触れてへん。そこに水注いだら、水転がり落ちるから、葉っぱは水に触れへん。何も残らんいうこと理解したら、愛いう問題はもうあらへん。お前さんが感じとる自己の至福は、まだ知識の喜びや。まず最初に、お前さんはそれに気づかんとあかんねん。次に、お前さんが実在そのものになんねん。なんでやいうたら、お前さんがカレやからや。せやから幻ん中で、世界ん中で生きんのは何も害あらへんけど、存在せえへんねんから、お前さんは触れられへんねん。蓮は水中に留まっとるけど、気にせえへん。
このやり方で、自分の正体を体験せなあかんねん。体験言うたけど、そこに言葉はあらへん。それは空間を、ゼロを超えとるからや。言葉はそこに入り込めへんさかい、そこで止まるんや。バガヴァッド・ギータでクリシュナはんは言うた。「言葉が戻ってくとこーそこがワイの境地やでー」てな。クリシュナはんは王様で統治しとったのに、何もあらへんいうことわかっとったんや。すべては無やいうこと、この無は自分に触れれへんことを、お前さんは理解してへんねん。何も自分に触れれへんいうて感じとっても、まだ幻ん中におるんや。それが哲学の最高点で、お前さんはそこに到達できんねん。そこには師も弟子もおらん。両者はただ1つやからや。そこに二元性はあらへん。ただ一元だけがあんねん。そっから外れてあるもんは何もあらへん。せやから幻ん中に留まり。せやけど理解と一緒にな。
友達2人が別の友達に悪戯したかってん。1人が罵りだしてんけど、もう1人はそれ聞いて笑うとった。3人目は困惑して言うてん。「なんで罵られとんのに笑ってられるんや?」てな。笑ってたんは、そのゲームの鍵を握っとったからや。せやけど3人目は理解してへんかってん。同じで、悟った人は世界ん中で生きとるけど、「これみんな無や」「何が起こっても、何も起こってへんねん」いうこと理解しとんねん。せやから悟った人らは触れられへんねん。人はいつも「起こってること」とか「これから起こること」を恐れとる。「人が何言うか」怖がっとんねん。「ワイは何したらええんや?」「ワイに何起きるんや?」て考えとる。戦っとるか楽しんどんねん。このタイプの束縛はぜんぶ心が原因なんやで。
その環から抜け出した者は、すべて無やいうて理解しとる。それは存在せえへん、ただの無知や。海中深く潜った者だけが真珠を見つけれるて言われとる。表面に残っとる者は快苦の流れに押し流されとんねえん。お前さんは無限の底まで深く潜らなあかんねん。なんでやゆーたらそこがお前さんの居場所やからや。限定で絶対止まりなや。金は、装飾品でとっとる姿形を気にせえへん。犬の姿でも神の姿でも、形に無関心や。同じで、物事に無関心でいとき。なんでやゆーたら存在せえへんからや。何もお前さんに触れれへん。お前さんは超然としとんねん。心は、幻を完全に理解するポイントに至らなあかん。そこにお前さんの境地があんねん。理解した者には、何も残らへん。もう得失あらへん。「実在手に入れるなんて、ワイにできんのか?」いうて聞きなや。なんでやゆーたらお前さんが実在やねんから、なんで「ワイにできる」言うんや?まず初めに、その環から出え。1っこずつみーんな捨てて、自分の自己に深くまで進み。次に戻ってきて、全なるもんの中いとき。お前さんが描写しいたもんは、ええ境地や。間違いない。せやけどもう少し先進み。「ぜーんぶ幻や、ただの幻にすぎへん」て心が受け入れるとき、お前さんは自己ん中おんねん。体と心は幻や。それ知って幸せにならんとあかんで。自己同化捨てえ。師がする唯一のことは、お前さんがまったく気に留めてへん、自分の中にある力のほんまの価値を示すことや。師はそれ以上何もせえへん。お前さんがただの石ころ思うとったもんが、師によってダイヤモンドの正体やっことが明かされんねん。師はお前さんにいっちゃん高価な石を作ってくれるんや。
「ワイは遍かつ全能や。ワイは全存在の創り主や」お前さんがすべてのベースにおるとき、お前さんは全なるもんの中におんねん。せやから、人殺しも悪とみなせへんねん。「何が起ころうが、それは”ワイ”の命令や」て知っとき。奴隷やなくて、主人でおり!お前さんが主人やねんで。
訪問者:ワイが知りたいんは、なんで悟った者ん中には、他の者の悟りを助けるために転生する者がおるんかっちゅーことや。
ランジット:誰も来おへんし、誰も去らん。それ誰に教えてもろたんや?お前さんは本読んで、それリピートしとんねん。「いっちゃん偉大な者は無名で死んだ者や」言われとる。ラーマとかクリシュナは二流のヒーローやってん。完成者は静かに生きて、静かに死ぬんや。その後、悟った者の想念が他の誰かに働くねん。せやけど戻ってくるいう考えはナンセンスや。
誰も去来せえへん。ぜーんぶ夢や。お前さんは夢ん中で偉大なマスターなれるけど、目え覚めたら、普通の状態に戻んねん。誰がそこで消えて、誰が戻ったんや?何も起こってへんかってん。「偉大なマスター」いう観念がお前さんに浮かんできて、お前さんはこの「偉大なマスター」になってんけど、目え覚めたら「はぁ、こんなんみんなナンセンスや。なんでワイが偉大なマスターなれるんや?ワイのアホ!」て思うねん。それでも、お前さんは夢ん中では講義して、こういうことぜんぶ簡単に話しとったのに、目覚めが来たら、この知識ぜんぶ消えんねん。それは夢やってん。それどっから来て、どこに消えたんや?何もあらへんとき、すべてはただの心の信念とか観念やねん。「ワイは神の生まれ変わりや」とか言うとる似非聖者はカレ、実在を知らへん。それどころか自我の奴隷、幻の奴隷や。知識そのものに何の実体もあらへんとき、こういう問題はまったくあらへん。
理解した者はすべて捨てんねん。普通の人みたいに見えるけど、そのハートはまったくちゃうねん。外におってなんで理解できるんや?家のオーナーになるには入らなあかん。同じで、自分の自己のオーナーになるには入り込まなあかん。せやけどそこでは「自分」は「自分」のまま残らへん。師と弟子いう問題はもうあらへん。体をとる者やったら誰でも師の想念が吹き込まれんのは、師と静寂ん中におる者が1つやからや。「悟った者」のハートに入ったら、お前さんは「お前さん」として残らんへん。カレだけがおるからや。せやから、教える者は神の化身や言われとる。師は皆に知識を放つねんけど、知識を重んじへんのは、その知識が最大の無知やからや。せやから、何にも触れられへんねん。
訪問者:すべてが幻やったら、お前さん自身も幻なんか?
ランジット:おー、せやで!ワイは「最大の幻」や!ワイが心込めてほんまありのまま語っとることみーんな偽りや!せやけど、師がお前さんに語る偽りは、お前さんを「あのポイント」に到達させてくれるんや。人のアドレスは本物やあらへん。その人だけが本物や。