悟りへの道標(悟った人の言葉を紹介していきます)

現在は主にニサルガダッタ・マハラジ(1897~1981)の言葉がメインです。みんなで悟りましょうヽ(=´▽`=)ノ

1996年6月

2016-09-01 03:22:02 | ランジット・マハラジ
1996年6月

質問者:ワイの本質、「我在り」に瞑想したら、原因ない愛の感覚広がんねん。この感覚って正しいもんなん?それともやっぱ幻なん?

ランジット:それは自己の至福や。お前さんは”我在り”の臨在感じとんねん。観念と幻ぜんぶ忘れとるんや。それは無制限の境地や。この至福が湧くんは、お前さんが対象を忘れた時やねんけど、その至福にはまだ自己の感触あんねん。やっぱまだ観念のもんや。外の世界にうんざりしたら、「一人になりたい」「自己ん中におりたい」て思うやん。それは高い境地の体験やねんけど、やっぱまだ心のもんや。自己には快も不快もあらへん。”自分”いう感覚あらへんねん。「幻想を完全に忘れる」いうんは、「何もあらへん」「何も存在せえへん」いうことや。相変わらずそれはあんねんけど、お前さんにとっては実在やあらへんねん。それが「悟り」とか「自己知」いうて呼ばれとるもんや。「無自己の自己を悟る」っちゅーことやな。
誰かに呼ばれたら、「ワイここにおんで」言うやん。せやけど、「ワイはここにおる」て言う前から、お前さんはおんねん。幻は実在に何も加えることできへん。実在に何も特殊なもん加えることができへんのは、実在があるもんすべての基盤やからや。存在するすべて、お前さんが認識するもん、認識対象すべて、あるもんすべて、実在に拠っとんねん。そこには知識も無知も存在せえへん。どっちもあらへんのや。せやさかい、それにどんな表現加えられる?表現加えられるんやったら、何や体験されるもんあんねん。ほんのちょっとでも存在感じとる間はまだ無知で、自己から離れとるっちゅーことや。愛感じるかもしれん。それは構へんけどやっぱまだ一つの境地で、境地いうもんはいつでも制限されたもんや。制限されてへんもんは境地やあらへん。それは幻の不在いう体験や。これはめっちゃ微妙なもんやから、そんとき無知も知識も両方残らんのや。理解するん難いけど本気で求めたら、その無境地の境地つかめんで。それはあるし、いつでもあってんけど、お前さんにそれがわからんっちゅーとこが難いとこや。実在があらへんとこなんて一箇所もあらへん。お前さんは物通してその存在体験しとんねんけど、こんなもんぜーんぶ無や。それはどこでもあんねんけど、お前さんには認識できへんねん。何でや?お前さんが実在そのものやねんから、自己をどうやったら認識できんねや?自分の顔見るには、お前さん鏡必要やろ。
ほんまの幸せはお前さん中にあんねん。外とちゃう。熟睡中、お前さんは幸せや。世界忘れとってん。ちゅーことは、幸せは世界を忘れたら見つかんねん。世界はそのまま放っとき。壊しなや。せやけど、世界があらへんことわかっとき。せなあかんことぜんぶしーや。せやけど、理解して離れとき。なんでやゆーたら、お前さんが何感じても、何気づいても、何手に入れても、ぜーんぶ幻やからや。そんなもんあらへんねん。お前さんの心はそのこと認めなあかんねんで。
聖者たちは言うやん。「一切は無やねんから、なんでこの無がお前さんに影響したり触れたりできんのや?」て。せやけどお前さんの心が言うことは、お前さんに影響するし触れとる。せやったらどないしたらええんや?心は知識以外の何もんでもあらへん。人は心と知識を分けるけど、これは正しくないねん。世界には何もあらへん。幻や。実在だけがあんねん。「幻がほんまは幻や」いうこと理解したら、なんでお前さんに影響できんのや?
なんで「ワイに影響しとる」いうて感じれるんや?蓮の葉っぱは水中で生きとるし水吸うとるけど、水に触れてへん。そこに水注いだら、水転がり落ちるから、葉っぱは水に触れへん。何も残らんいうこと理解したら、愛いう問題はもうあらへん。お前さんが感じとる自己の至福は、まだ知識の喜びや。まず最初に、お前さんはそれに気づかんとあかんねん。次に、お前さんが実在そのものになんねん。なんでやいうたら、お前さんがカレやからや。せやから幻ん中で、世界ん中で生きんのは何も害あらへんけど、存在せえへんねんから、お前さんは触れられへんねん。蓮は水中に留まっとるけど、気にせえへん。
このやり方で、自分の正体を体験せなあかんねん。体験言うたけど、そこに言葉はあらへん。それは空間を、ゼロを超えとるからや。言葉はそこに入り込めへんさかい、そこで止まるんや。バガヴァッド・ギータでクリシュナはんは言うた。「言葉が戻ってくとこーそこがワイの境地やでー」てな。クリシュナはんは王様で統治しとったのに、何もあらへんいうことわかっとったんや。すべては無やいうこと、この無は自分に触れれへんことを、お前さんは理解してへんねん。何も自分に触れれへんいうて感じとっても、まだ幻ん中におるんや。それが哲学の最高点で、お前さんはそこに到達できんねん。そこには師も弟子もおらん。両者はただ1つやからや。そこに二元性はあらへん。ただ一元だけがあんねん。そっから外れてあるもんは何もあらへん。せやから幻ん中に留まり。せやけど理解と一緒にな。
友達2人が別の友達に悪戯したかってん。1人が罵りだしてんけど、もう1人はそれ聞いて笑うとった。3人目は困惑して言うてん。「なんで罵られとんのに笑ってられるんや?」てな。笑ってたんは、そのゲームの鍵を握っとったからや。せやけど3人目は理解してへんかってん。同じで、悟った人は世界ん中で生きとるけど、「これみんな無や」「何が起こっても、何も起こってへんねん」いうこと理解しとんねん。せやから悟った人らは触れられへんねん。人はいつも「起こってること」とか「これから起こること」を恐れとる。「人が何言うか」怖がっとんねん。「ワイは何したらええんや?」「ワイに何起きるんや?」て考えとる。戦っとるか楽しんどんねん。このタイプの束縛はぜんぶ心が原因なんやで。
その環から抜け出した者は、すべて無やいうて理解しとる。それは存在せえへん、ただの無知や。海中深く潜った者だけが真珠を見つけれるて言われとる。表面に残っとる者は快苦の流れに押し流されとんねえん。お前さんは無限の底まで深く潜らなあかんねん。なんでやゆーたらそこがお前さんの居場所やからや。限定で絶対止まりなや。金は、装飾品でとっとる姿形を気にせえへん。犬の姿でも神の姿でも、形に無関心や。同じで、物事に無関心でいとき。なんでやゆーたら存在せえへんからや。何もお前さんに触れれへん。お前さんは超然としとんねん。心は、幻を完全に理解するポイントに至らなあかん。そこにお前さんの境地があんねん。理解した者には、何も残らへん。もう得失あらへん。「実在手に入れるなんて、ワイにできんのか?」いうて聞きなや。なんでやゆーたらお前さんが実在やねんから、なんで「ワイにできる」言うんや?まず初めに、その環から出え。1っこずつみーんな捨てて、自分の自己に深くまで進み。次に戻ってきて、全なるもんの中いとき。お前さんが描写しいたもんは、ええ境地や。間違いない。せやけどもう少し先進み。「ぜーんぶ幻や、ただの幻にすぎへん」て心が受け入れるとき、お前さんは自己ん中おんねん。体と心は幻や。それ知って幸せにならんとあかんで。自己同化捨てえ。師がする唯一のことは、お前さんがまったく気に留めてへん、自分の中にある力のほんまの価値を示すことや。師はそれ以上何もせえへん。お前さんがただの石ころ思うとったもんが、師によってダイヤモンドの正体やっことが明かされんねん。師はお前さんにいっちゃん高価な石を作ってくれるんや。
「ワイは遍かつ全能や。ワイは全存在の創り主や」お前さんがすべてのベースにおるとき、お前さんは全なるもんの中におんねん。せやから、人殺しも悪とみなせへんねん。「何が起ころうが、それは”ワイ”の命令や」て知っとき。奴隷やなくて、主人でおり!お前さんが主人やねんで。

訪問者:ワイが知りたいんは、なんで悟った者ん中には、他の者の悟りを助けるために転生する者がおるんかっちゅーことや。

ランジット:誰も来おへんし、誰も去らん。それ誰に教えてもろたんや?お前さんは本読んで、それリピートしとんねん。「いっちゃん偉大な者は無名で死んだ者や」言われとる。ラーマとかクリシュナは二流のヒーローやってん。完成者は静かに生きて、静かに死ぬんや。その後、悟った者の想念が他の誰かに働くねん。せやけど戻ってくるいう考えはナンセンスや。
誰も去来せえへん。ぜーんぶ夢や。お前さんは夢ん中で偉大なマスターなれるけど、目え覚めたら、普通の状態に戻んねん。誰がそこで消えて、誰が戻ったんや?何も起こってへんかってん。「偉大なマスター」いう観念がお前さんに浮かんできて、お前さんはこの「偉大なマスター」になってんけど、目え覚めたら「はぁ、こんなんみんなナンセンスや。なんでワイが偉大なマスターなれるんや?ワイのアホ!」て思うねん。それでも、お前さんは夢ん中では講義して、こういうことぜんぶ簡単に話しとったのに、目覚めが来たら、この知識ぜんぶ消えんねん。それは夢やってん。それどっから来て、どこに消えたんや?何もあらへんとき、すべてはただの心の信念とか観念やねん。「ワイは神の生まれ変わりや」とか言うとる似非聖者はカレ、実在を知らへん。それどころか自我の奴隷、幻の奴隷や。知識そのものに何の実体もあらへんとき、こういう問題はまったくあらへん。
理解した者はすべて捨てんねん。普通の人みたいに見えるけど、そのハートはまったくちゃうねん。外におってなんで理解できるんや?家のオーナーになるには入らなあかん。同じで、自分の自己のオーナーになるには入り込まなあかん。せやけどそこでは「自分」は「自分」のまま残らへん。師と弟子いう問題はもうあらへん。体をとる者やったら誰でも師の想念が吹き込まれんのは、師と静寂ん中におる者が1つやからや。「悟った者」のハートに入ったら、お前さんは「お前さん」として残らんへん。カレだけがおるからや。せやから、教える者は神の化身や言われとる。師は皆に知識を放つねんけど、知識を重んじへんのは、その知識が最大の無知やからや。せやから、何にも触れられへんねん。

訪問者:すべてが幻やったら、お前さん自身も幻なんか?

ランジット:おー、せやで!ワイは「最大の幻」や!ワイが心込めてほんまありのまま語っとることみーんな偽りや!せやけど、師がお前さんに語る偽りは、お前さんを「あのポイント」に到達させてくれるんや。人のアドレスは本物やあらへん。その人だけが本物や。


































知識と無知

2016-08-30 08:08:27 | ランジット・マハラジ
シッダラメシュワル・マハラジは初めに知識くれてん。今の神話学者たちは、初めに一切合財捨ててから知識授かれっちゅーてるけどな。あの人は、「知識無き放棄は無用。」言うとったな。心の束縛になるからな。例えばや、ごっつええ感じの食事の準備ができた。めっちゃいい匂いがして、みんな食いとーてしゃーない。せやけど、ジブンみんなに言うねん。「食べたらあ・か・ん。」みんな聞くねん。「なんでや?」そしたら、その食事は毒入りやー教えんねん。毒っちゅー知識が瞬く間に放棄を引き起こすねん。せやから、最初に知識あったら、放棄は勝手についてくんねん。

なーんも知りとーないヤツが実在や。

初めに知的理解が要って、その後に実践的理解が来んねん。知力っちゅーんは凄いもんや。知性なかったら、理解できへん。せやから、頭フル回転させて理解せなあかん。そしたら、その知識とか理解とかは消えてくねん。なんでかゆーたら、知識は思考やからや。良い思いも悪い思いも、どっちも思いや。せやから、知識は金の棘で、無知は普通の棘で、どっちも束縛やねん。ジブンの手に手錠かけられたとしよーや。その手錠は鉄製かもしれんし純金製かもしれんけど、やっぱり囚われの身や。せやから、どっちも棘やねん。理解して、どっちも捨てなあかん。知識を捨てるんがめっちゃ難いんは、エゴが知識んとこまでおるからや。知識はエゴ、それ以外の何もんでもあらへん!その知識消すにはな、「俺は何もわからん。」て言わなあかん。ソクラテスが言うてたようにや…「ワイはわからんっちゅーことをわかっとるでー」

知識は薬で、病気やあらへん。病気はエゴで、「エゴはパチモンや。」言うはっきりした理解で一掃されんねん。

呼吸はただの風やのに、この風からジブン、ぎょうさん城作っとるで。みーんな幻で、風だけで保たれとるっちゅーことがわかれば、無知の支配から逃れられるで。無知によってみーんな集めて、理解によってみーんな捨てるねん。理解が悟りや。

最初はな、師匠は「知識が要る。」言うねん。せやけど最後には、その知識は究極の実在に合わさるねん。

実在の中に体験なんかあらへん。眠っとるとき、どんな体験しとる?そこに実在はあるけど、他のものはみーんなあらへん。ソレは無知と知識を超越しとる。例えばや、闇と光は相伴うもんや。光が消えたら闇があり、光をつけたら闇は自然に消える。そいつら1つや。同じで、知識と無知は2つで1つや。シッダラメシュワル・マハラジ師匠の言葉やったら、「知識は最高の無知です。」や。知識によって、無のソレがわかんねんけど、これは錯覚で、それ以外の何物でもないねん!この錯覚に気づかんとあかん。

クリシュナはんは、「自身の自己を知らなければ、貴方が何を為そうと、すべて無益なのです。」言うとった。

自分の自己を悟りたいんやったら、ソレに人生ぜーんぶ捧げなあかん。せやなかったら、人生何に使うん?

恐怖なしにいとき。虎みたいに吼え。いっつも走り回っとる鼠みたいにおったらあかんで。

無知はな、聞くことによって現れ、聞くことによって消えるねん。言葉によってジブンは囚われ、言葉によって自由になれんねん。言葉はパチモンやけど、それが意味するものは本物や。幻想は、幻想の彼方に行くために必要とされんねん。

この世に無知でおって、実在に精通しとき。

ジブンが今日知ってること、明日知ることはみんな同じや。同じで、知識は絶対変らんもんや。無知のせいで、結果はちゃうけどな。明かりにカバーかけたら暗なって、カバーはずしたら明かり戻るやん。

朝になって目え覚めたら、生まれ変わった感じするやん。寝てる間中、自分も含めてみーんな忘れとってんで。

言葉で束縛されて、言葉で解放されるねん。耳から無知入ってきて、耳から消えるねん。言葉は偽物やけど、言葉が運ぶ意味だけは本物や。みんな幻やってわかったら、幻のことは忘れるやろ。そしたらジブン、実在やで。

ウチの言うてること、みーんな嘘やで。ほんまや!言葉は嘘やけど、真理実在に向けて喋ってんねん。言葉は実在に絶対触れられへん。みんな忘れて、言葉みんな忘れたら、その瞬間ジブンはアレや。

ジブンに覆いかぶさった無知のヴェール取り除き。明かりの前の布どかしたら、明かりあるやん!睡眠中、人はこの”果て”まで行っとる。”果て”に行って、自分の自己見つけえ。見つけ出すっちゅーことは、ジブンの心を、念を、個を忘れるっちゅーことや。

無知を除くには知識が必要やけど、終いにはどっちも実在に溶け込むねん。自己の中には、無知も知識もあらへんのや。

何も壊す必要ないで。何で壊すんや?これって何や?物がジブン煩わすんやなくて、ジブンから突っ込んでって悩んでるねん。この椅子は絶対、「ワタシはアナタのものよ。」なんて言わん。ジブンが、「それは俺の椅子や。」言うねん。したら、誰の責任や?椅子やなくて自分自身やろ。ジブンはそれと全く無関係や。こういう見方で世界を見んとあかんで。

ジブンは時空を超えとる。”俺おる”言うたら、みーんな出てくるねん。お手上げや!

自分の中にエネルギー増えたらな、世俗のことに使わんと、正しいことに使い。世俗のことはみんな幻やねんから、なんで実在せえへんもんに無駄にするんや?

進み続けなあかんで。障害は出てくるやろけど、乗り越えなあかん。問題を克服せんとあかん。問題は思考や。ジブンは子供のころから、たくさんの思考を集めてきとる。この思考をみんなくれたのは誰や?父さん、母さん、仲間内の友達。ぜーんぶジブンのところにやって来たもんや。ソイツらみんな無知な輩やねんから、ソイツらが何をくれるっちゅーねん?闇が光に何をもたらすことができる?言うてみい。何もないやろ?暗闇の中で何を見つけれる?何もあらへん!すべての思考、すべての習慣は本物やない。みーんな無知のせいでジブンに現れたものや。それらが出てきて、消えてくに行き。あらゆる束縛は、ジブンが他の誰かさんから借りてきた、架空の束縛に過ぎん。借りた金はジブンのちゃう。同じで、ジブン、他人の思考もろといて、それを自分の束縛や思ってるねんで。どーしたらええ?その束縛捨てえ!誰が止める?貸主に金返したら、借金ぜーんぶチャラや!負債から解放されなあかんで。

無知は、この世とこの世の物を本物や思うとる。世界はジブンに、「僕、本物ですよ。」なんて絶対言わんし、物も、「私はあなたのものでございます。」なんて絶対言わん。これみーんな本物や思うてるのはジブンやけど、みんなただの儚い幻や。幻にまだ愛着持っとるヤツらは、自分が誰かわかっとらん。ぜんぶ捨てたら、「俺が実在や。」てわかるわ。

金はな、どんな飾りになっても関係ないねん。金の腕輪が壊れて形変っても、金は構わん。別の形とれるさかい、何で心配せなあかん?犬の形でも、神さんの形でもとれるやん。形なんか気にしよらん。同じで、形あるもの全部と無関係でおり。

ジブンが集めてきた知識は、ただの無知や。何も起こっとらんし、何も起こらんのに、それでも全部知りたい思ってるねん。何でや?何であらへんものを欲しがるのや?

心を実在の中に定着させ続けることで、ジブン、最高の中の最高になるねん。心は終いに実在に完璧に吸収されて、”ジブン”は残らん。

実在

2016-08-30 05:42:47 | ランジット・マハラジ
修行したいんやったら、悟ったやつに付かんとあかん。技は欲求不満の塊で、ほんまに満たしてくれるもんちゃう。実在に技なんてあらへん。幻想には技法、課題、観念がごーっつあるけどな。幻想、観念に勝つには、「この思考ぜんぶ、どっから湧いきよってん?」て尋ねなあかん。思考はいっつも別もんや。思考のおらん実在を知るには、考えんことが必要や。そこは思考のおらんとこや。オマエが考えてるもんなんかみーんな存在せえへんねん。みーんな久遠の実在で、アイツから離れてこの世に存在するもんなんかあらへんのや。考えられたもんは、アイツアイツ以外のもんにしてまう。思考が尽きたら、何が起きる?オマエがゼロに還んねん。

肉体がある間は、悟っやつも活動すんねん。自分の母ちゃんを「母ちゃん」呼ぶし、嫁を「嫁ちゃん」呼ぶ。せやけどソイツはわかっとる。「名前なんや?」て聞かれたら、自分の名前答えるけど、「俺はこれやない。」てわかっとんねん。それくらいはっきりした理解が要んねん。完璧な理解がアレ言われとるもんや。アレん中いとき。蓮の葉っぱみたいでいとき…オマエは水ん中で生まれて、水ん中で生きとるけど、水に触れとらん。何や他のもんやのーて、そういう風にいとき。一回、「俺はこれちゃう。」てわかったら、疑わんくなるわ。師匠は俺に「理解の後、汝が留まりたければ留まるがよい。しかし、獄中においても”我は罪人に非ず。”と、覚えておきなさい。」言うとった。人はそんな早お幻想を捨てられへんから、そこで生きとき。でも「俺は罪人ちゃう。」って理解しとくんやで。エゴはこんなもんや…ごっつたくさんの違う形、違う姿で生き続けんねん。せやから、いっつも気いつけとかなあかんけど、オマエが終わったら、気にするもんは何もあらへん。オマエが見るもんは幻や。”自分”が幻や、てわかったら、みーんなどこに残ってる?みんな幻が無ってことをわかっとらん。なんで幻がオマエを邪魔できる?どうやったら無がオマエを邪魔できんのや?

覚醒っちゅーんはな、100%完璧な理解ってだけや。物事を明確に理解するっちゅーんが覚醒や。実在は手に入るもんちゃうくて、もうここにあんねん。これを完璧に理解したら、なーんも要らんねん。

人の性質にはな、いっつも恐怖があんねん。みーんな恐怖持っとんのは、「俺は体や。」て信じとるからや。心が恐怖を創っとるわけやけど、自分の観念てだけねん。恐怖が心ん中に浮かぶんは、この世が不安定やからや。毎分変わっていきよる。闇と知を超えたら、恐怖なんてまったくあらへん。例えてゆーと、スクリーンがどんな映像にも恐怖を抱かんのは、スクリーンが変化せーへんからや。せやから、変化するもんには、いっつも恐怖がつきもんや。心は毎瞬変わりよって、自分で変らんままでおることができん。心は、自分の、自分の始まりを知って初めて、幸せになれるんや。体がある限り、恐れはある。恐怖なしにおりたいんやったら、恐怖のあらへんもんでおることや。なんでかゆーたら、それに終わりはないからや。究極の実在には、終わりも始まりもあらへん。無限や。微細すぎて、思考も観念もみーんな止んでまう。二元性は恐れを孕み、一なる実在に恐れは皆無や。

みーんな忘れたら、この瞬間、すぐにオマエが自己や。捨てるもんも拾うもんもあらへんっちゅーんは、みーんな無やからや。オマエは自分を持たん自己や。

エゴの棘抜き。名前と形取ったら、なーんも残らん。自分の理解力で、ぜーんぶ幻や、てわかるわ。体験せえ!オマエがわかりたないんは、心がそうさせへんからや。オマエの自己からオマエを遠ざけ続けとる唯一の障害が、心や。心は、「すべて本物ですよ。」てゆーやろ。心に「みんなパチモンや。」言い。心を理解したら、おらんくなるわ。

空間は、わかるし見えるし感じれるけど、実在は空間を超えとる。空間はゼロ、何の静寂も声も平和も境地もあらへんとこや。こーいうんはみんな、条件付きの代物や。実在はみんな超えとって、ほんまにすっからかんや。何もアイツを乱されへん。修行者は、「せやったら、どないせえっちゅーねん?」て聞くかもしれん。何もすんな!言葉はただ空間まで届くだけのもんや。主クリシュナはバガヴァッド・ギーターで、「そこ、言葉が顕れ出る場所、それだ。」言うてる。それ自分や。聖書でキリストも同じこと言うとる…「汝自身を知りなさい。さすれば汝は世界を知るでしょう。」思考が終わるとこ、アレまで行けば、自分おるわ。せやから、いっつもそれのこと、「自分がおらん自分」て呼んでんねん。自分悟りっちゅーんは、自分がおらん自分のことや。”悟り”が残っとる間は、自分が残っとる。目には、あらへんもんを見るっちゅー習慣持っとるんや。師匠はオマエをアレまで、実在まで連れてってくれて、「アレでありなさい。」言うねん。これがその場所や。

みーんなアイツやっちゅーんが、ほんまの観照や。”自分”を観照者や思うとったら、あらへんもんがみーんな本物に見えんねん。”自分”も世界も全然実在しとらん。観照はみんな超えとんねん。

実在はみんなん中で働いてるアレや。そんで、実在が十感ん中に入ったら、アイツが個の自分になんねん。十感に入ったら、自分の幸せがなくなんねん。

大洋の深みに潜っていけるやつが真珠を見つけんねん。己の深みに行けば、アイツは見つかるやろ。

自分の自己からオマエを遠ざけ続けてるんは、幻想に対するオマエの愛や。幻を幻やわかったら、騙されることともなくなるやろ。これがほんまの”理解”や。オマエはもう実在やねんて。なにパチモン追いかけ回して時間潰しとん?

アイツ実在っちゅーもん、アイツがオマエ作っとんねん。

どの経典も一なる実在を指し示しとって、ソレ見つけたら、経典はすっからかんなって存在せーへんくなんねん。

欲望抱いて何を得んねん?何も得えへんっちゅーんは、オマエが自分の自己忘れるからや。自分の自己失くして、それ何の役に立つねん?自己との繋がり保とうとしーや。究極の実在に連れてってくれんで。

みーんな海の泡と同じや。数え切れんくらいの泡あって、個の自分はそん中のたった1つや。自分の本質、実在に還るには、自分の泡を潰さんとあかん。そんで終いや。ほんまの理解が泡を潰すねん。

川の源まで行ったら、川見つかるか?源には氷と雪しかあらへん。自分のに行ったら、自分も消えんねん。だけがあんねん。

すべては現実に投影されたものです。全世界はの影に過ぎません。これを理解したなら、成し遂げたり掻き集めたりする必要のあるものがあるでしょうか?影は偽者で、主人だけがいるのですよ。

現実とは知識を超えたものです。

現実に至るためには何も要りません。いつでもここにあるからです。心に刻み込まれた、何かを”している”という幻想を取り除かなければいけないだけです。自分自身であるためにしなければいけないことなんて何もないのですよ。

久しく家を離れていると、家に帰ると幸せを感じますね。同じように、幾生にもわたり、あなたは自己を忘れていました。ですから、自己に帰ったら、幸せを感じるのではありませんか?

体験は要りません。体験はみな偽物ですから。体験不可能な者だけが本物なのです。わかりやすいですね。

誰かに会いたいと強く願えば、その人はきっと現れます。同じように、現実を知りたいとほんとうに強く願えば、どうしてが現れないでしょう?

究極の現実には、”あなた”も、”私”も、心も、思考もありません。それがあなたの自然な状態なのですよ。

自分の自己に目覚めなさい。顕れているものすべてに光を与えているのは自己であって、自己なくして見えるものはありません。あなたがすべてのなのです。

世界

2016-08-28 04:41:32 | ランジット・マハラジ
世界はただの、実在の反映や。そんで、反映はみーんな偽もんや。鏡に映った顔見て、ほんまの自分の顔が映ってる思たら、迷ってる言うことや。世界として映し出されるもんが本もんちゃうってわかった瞬間、あんさんが実在や。どんだけ時間かかる?

世界の創り手なんて全然凄ない言うんはな、そいつの創ったもんが本もんやないからや。これが勇敢なもんの務めや。

トゥカラムは「みんな狂ってる。」言うた。俗人はみんな狂人や。みんな見当違いのもん追いかけ回しとる。砂漠で水や思て蜃気楼を追っかけてるやつに、「そんなとこに水なんてあらへん。」言うたら、「あほか、わしには見えとんねん。」言われるやろ。そいつ、一日中走り回ったけど、夜になって蜃気楼消えてしまうねん。そんで「あぁ今日はついないわ。せやけど、明日は水ゲットすんで。」思うわけや。まったく実在せえへんもんを、まだ信じとんねん。お手上げやろ?

母ちゃんと父ちゃんがあんさんの体こしらえて、この世に出てきたんや。苦しむんは、それを真に受け取けとるからや。これは誰の責任や?存在せえへんようなもんは、創り手の責任や。幻覚とあんさんは何も関係あらへん。ぜんぶ見い。そんで、ぜんぶ偽もんやって言い。そんだけの勇気持ちや。これがわかったら、みーんな消えるわ。

文無しでも、殿さんでも、フーテンでも関係なしに、あんさんはいつも実在や。見かけと本質には何の関係もあらへん。どんな境遇であっても、みんなあの人や。

見えるもんははみーんな無知から来とる。知識は無知から生まれよるからや。誰が知ることなんてできる?知らなあかんもんなんて何もないねん。知識の彼方に実在はある。お前さんはそこにおるんや。

この世で気い煩わせるようなもんあらへんて、いっつも言うてるやろ。何でや思う?パチモンやからや!

みーんなこの世に価値を置いとる。悟ったやつ、この世の彼岸に達したやつは、ゼロだけに価値を置くねん。この世がパチモンで、みーんなゼロや言うことがわかったら、残ってるもんは実在だけや。

実在を知る唯一の方法…それはな、みーんな忘れえ。その瞬間、あんさんがあの人や、てもんや。お茶の子さいさいや。実在に言葉はあらへん。幻を気にせえへんかったら、あの人はおる。何でもしたらええ。せやけど、みんなパチモンや言い。そこが要や。

アホはいっつも、この世を本もんや思うとる。悟ったやつは、この世をパチモンや思うてる。それが違いや。

現世なんてただの長っがい夢や思うとき。

この世はうっさいことだらけかもしれんけど、わかったやつは乱されへん。

完全な暗闇と無知から、この世界は創られてん。なんで本もんやねん?ただの夢や。

頭ではわかっとるけど実践できへん。せやろ?なんでか言うたら、幻の世界をまだ愛してて、パチモンに執着してるからや。

この世にいとき。せやけど、この世のもんになったらあかんで。存在せえへんもんを集めるんやなくて、幻想のマスターになり。あんさんが実在や。他に何が要るん?

みんな体験を追っかけ回して、そんで結局死ぬねん。そこが重要ポイントや。生きてる間、この世にいながらこの世から出ぇ。せやから、いつも「俺は水ん中におるけど、水は俺に触れてへん。」言うねん。それ言う勇気持ちや!あんさんに触れることなんてできへんねん。

この世には一元だけで、二元なんてこれっぽっちもないねん。みーんなあの人やのに、なに悩んどんねん?

思考

2016-08-26 22:17:52 | ランジット・マハラジ
思考はみんな嘘つきなのですから、どこに真実があるでしょうか?

思考は、お客さんのように、やって来ては去っていきます。家の主人はいつもそのままです。

思考が偽物だと本当に気づけば、あなたは思考を超えた現実として残ります。

みんな神を拝んでいますが、神とは何かわかっていません。神はただの思考なんですよ。現実が既にいなかったら、どうして神が生まれるというのでしょう?

あなたが見たり感じたりするものは、あなたの内にあるのであって、外にあるのではありません。あなたは体ではないことを、当たり前にしてください。いかなる思考でも、心が掴み取って執着すれば、すべて以外のものに思えてしまうのですよ。

お金が幸せをもたらしてくれるという考えは、はっきり間違いです。あなたは自分の所有物では決して満たされずに、さらに多くのお金を手に入れようとして人生を過ごします。いったいどうして幸せでしょうか?

「私は存在する。」と言うとき、思考があなたを取り巻きます。

解脱も束縛も単なる思考、心の働きです。あなたはずっと自由だというのに、どうして悩むのですか?