ゴッホ展@東京国立近代美術館。
これまでゴッホに焦点をあてた展覧会は3回ほど見てきた。
・クレラー・ミュラー美術館所蔵ゴッホ展@Bunkamura(1999-2000)
・ゴッホ展-兄フィンセントと弟テオの物語-@兵庫県立美術館(2002)
・ゴッホと花-ひまわりをめぐって-@損保ジャパン東郷青児美術館(2003)
別にゴッホだけを選んで出掛けているつもりはない。
日本ではかなりの頻度でゴッホに関する展覧会が開かれているということだ。
たぶん、ゴッホの絵よりもゴッホその人に対する関心のほうが強いんじゃないだろうか。
というわけで、今回はじめてみる絵はそれほど多くはなかったように思う。
しかしそのぶん余裕を持って絵そのものを見ることができた。
モネ、ゴーギャン、浮世絵、ミレーなど、いろんなものから影響を受けたゴッホだが、黄色と藍色の鮮やかな対比が強烈な印象を与える独特の画風が花開いたのは、アルルの療養所に入ってからのようだ。
それまでは他の画家の画風や画法を必死でまねようとしていたようだ。
最近の新聞に「ゴッホの絵は売れなかったのではなく、彼自身が売らなかったのだ」という記事が載っていた。
そういえば、かつて西洋の伝統的な画家は売れる絵を描こうと腕を競っていた。
そこに殴り込みをかけたのが印象派だ。
いまでいうライブドアだ。
ライブドアは旧勢力に真正面から挑戦をしかけたため、嫌われながらも一部で喝采を浴びている。
印象派もそんなようなものだ。
(たぶん)
しかしゴッホはもともと神父をめざしていたことからわかるように、価値観や考え方においてはむしろ古い時代を引きずっているタイプの人物だったように思う。
それなのに、芸術についてはライブドア的なものにあこがれ、それを必死でおいかけた。
ここに彼自身の自己矛盾がある。
彼はそうとう迷い悩みながら描きつづけたのではないだろうか。
妄想がふくらんできたので話を変えよう。
昔、ある心理学の先生が「ゴッホが心を病んでいたのは絵を見れば一目瞭然」というようなことを言っていた。
心理学的にどう解釈できるのかは知らないが、確かに晩年の絵には、生きるか死ぬかの瀬戸際にいる切迫感のようなものが感じられる。
しかし、自然や風景のなかに心休まる空間を求めていたようでもある。
もっともそれが感じられる絵は「糸杉と星の見える風景」だ。
ポスターを買おうかどうか迷ったが、買わなかった。
いま思えば、買えばよかったかも。