goo blog サービス終了のお知らせ 

学習指導

2010年06月14日 | ことば
学ぶことは、胸に誠実を刻むこと
教えることは、ともに希望を語ること
ルイ・アラゴン

啐啄同時

ゆずり葉

2009年10月14日 | ことば
       河合酔茗

子供たちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入り代わってふるい葉が落ちてしまうのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずって-。

子供たちよ
お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです。
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。

かがやける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受け取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど-。

世のお父さん、お母さんたちは
何一つもってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、
一生懸命に造っています。

今、お前たちは気がつかないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい、はなのように笑っている間に
気が付いてきます。

そしたら子供たちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見る時が来るでしょう。

法然

2009年09月14日 | ことば
何とも中途半端に東京新聞の小説「親鸞」が終わった。
五木寛之は、法然から親鸞に念仏の志が受け継がれた瞬間を描きたかったのだろう。
1年間新聞小説を読み切ったのは初めてだ。

NHK教育で月一回、町田宗鳳さんが法然を語っている。
風呂で見て、録音して電車の中で聞いている。
心に迫ってくのは、若き法然の絶叫の声だ。

かなしきかな、かなしきかな、いかがせん、いかがせん。
ここにわがごときは、すでに戒定慧の三学のうつは物にあらず、
この三学のほかにわが心に相応する法門ありや。
わが身にたへたる修行やあるやと、よろずの智者にもとめ、
もろもろの学者にとぶらふしに、おしふる人もなく、
しめすともがらもなし。

この心の叫びが法然と親鸞を出会わせたのだと思った。

華厳唯心偈

2009年08月22日 | ことば
心はたくみなる画師の如く
種々の五陰をえがき
一切世界の中に
法として造らざる無し。
心の如く仏も亦しかり
仏の如く衆生も然り
心と仏と及び衆生とは
是の三差別無し。
諸仏は悉く
一切は心より転ずと 了知したまう
若し能く是の如く解らば
彼の人は真の仏を見たてまつらん。
心も亦是の身に非ず
身も亦是の心に非ずして
一切の仏事を作し
自在なること未だ曾て有らず。
若し人もとめて
三世一切の仏を 知らんと欲せば
応当に是の如く観ずべし
心は諸の如来を造ると。

武井老師

2009年07月28日 | ことば
NHK教育・東京
こころの時代~宗教・人生 アーカイブス
「わが師を語る-武井老應師の教え-」
2009年6月28日(1991年12月放送)

「故人いわく、霧の中を行けば覚えざるに衣しめる」

ワンセグからICレコーダーに録音。


慈為与楽悲為抜苦

2009年06月21日 | ことば
長寿院住職
篠原鋭一

「同事行」
「この道は苦しいから、あなた勝手に行ってよ」ということではなくて、「私と一緒に行きましょう」という言葉。


どんなことにも原因がある。
「原因」の「因」ですね。
そして原因があるということは必ず結果が出ますね。
それを一般的に「因果」と言っていますね。
でも、その「因」と「果」の間に、真ん中に「縁」というのがあるんですね。
だから本来であれば、因・縁・果、というふうに受け止めるのが正しい。
原因があって結果が出るんですけれども、結果が出るためには、その間の「縁」、言葉を換えて言えば「条件」が、結果を生みだしていく。
原因はきっかけにはなっただろうけれども、条件によっては結果がうんと変わります。

「この今のあなたの苦しみはね、このままずうっと続くわけがないんですよ。すべて物事は移り変わってゆくんですから」と言う。
そうするとですね、「ああ、言われてみたらそうだな」という思いが湧いてくると、今までの一途に死を見つめていた心の中にふっとですね、違った思いが湧いてくる。

自死遺族の方々が願われることは、亡くなった人が帰ってくることですから。
とにかく時間をかけて何度もお会いをして。
一つまず言えることは、「どうでしょうか。生物的な意味での命と、もう一つは、その方が過ごされた20年或いは45年、その生きた時間も命ではないですか」と。
そうすると、「肉体という意味での命は変化をしてしまった。だけれどももう一つ、長年暮らした場所・時間・行動、そういう亡くなった方、自ら命を絶った、ご主人であったりお子さんであったり、と深いえにしに結ばれていた方との共有した行為というものはやはり命として今もお父さんやお母さん或いは奥様のそばにいつも一緒に輝いているんじゃないですか」。
そこまでなんですね。
私がお話しできるのはね。
やっぱり、思い出を語りましょうということで、ここでお茶を飲みながら「あんなことをした、こんなことをした」というお話しをずっとして頂く。
それで時々、僧侶ですから、ご命日の日にはそっと来て頂いて、何度もご一緒にお経を上げてご供養するという。
これは私が僧侶であるゆえに出来うる、亡き人への一つの手向ける行為なんですね。

私たちの命というのは、脈々とバトンタッチされてきた命の連鎖による命ですよね。
その命と命が常に関わり合って生きているということなんですから、「俺の命は勝手にしてもいいんだ」ということは決して言えない。
自分の命を愛おしく思うと同時に、他者の命をも愛おしく思う。
もし自分の命を絶ってしまうということは、他者の命も絶つことになるんだというふうなところまで受け止め方を深めていかないと、本当の意味での人間性・人間関係というものが出来上がらないんではなかろうか、と。

5/24

一条鉄

2009年05月11日 | ことば
有仏性の有、まさに脱落すべし。
脱落は一条鉄なり、一条鉄は鳥道なり。

☆☆☆☆☆

「一条鉄」とは「万里一条鉄」だが、このニュアンスを訳出できている本が見あたらない。
石井訳は
「混じりもののない悟り」としている。

一条鉄は疑いなく有だと見るのは錯覚である。
鳥道のように有とも無ともいえないものである。
有無を超えたものである。

見取

2009年05月03日 | ことば
人生はこういうものだと勝手に思い込んでいる、その思い込み。
見取の煩悩。
自分の見解にかたく執着するのを見取という。
自分の見解が真理だと思ってそれに執着する。
悪見という根本煩悩(薩伽耶見・辺執見・邪見・見取・戒禁取)の中の一つ。
(仏性<上>-260頁)

【観ずる】
①心を静めてありのままを正しくながめる。
 心静かに瞑想して悟る。
②あきらめる。観念する。
(大辞林)

自然法爾

2009年04月26日 | ことば
自然法爾の事。
「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾は、この御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。
弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、迎へんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。
ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。

『親鸞聖人御消息』14


アミターバ

2009年04月22日 | ことば
こころの時代
法然を語る①(4月19日)

月かげの 至らぬ里は なけれども
眺むるひとの 心にぞ住む


いけらば念仏の功つもり、しならば浄土へまいりなん。
とてもかくても此身には、思ひわづらふ事ぞなきと思ぬれば死生ともにわづらひなし。
 -つねに仰せられける御詞


たとい一形悪を造れども、ただよく意を繋けて、
専精に常によく念仏せば、一切の障、自然に消除して、定んで往生を得。
何ぞ思量せずして、都て去りゆく心なきや。
 -道綽禅師 安楽集