弥生時代の倭人社会に、祭祀具として「銅鐸」を用いる風習と、「銅剣・銅矛」といった武具を用いる習慣があった。それらは列島各地の発掘調査により、村単位で数百年にわたり続けられたと考えられている。その出土地を地図上に記すと、その出土密度は大きく二つに分けられることが分かった。それは本州中央域を中心とした銅鐸出土地域と、九州北部を中心とした西日本の銅剣銅矛出土地域である。
こうした事実は、明治期以来の発 . . . 本文を読む
「渡り職人」という表現は、弥生時代の青銅器製造技術者を指す表現として、はたして学問的に市民権を得ているのだろうか。テキストとしている『集英社版日本の歴史②倭人争乱』では、確かに「一時的に滞在し、鋳造が終われば立ち去った」のであろう遍歴する鋳物職人=渡り職人の存在を前提に当時の青銅器製造を考えている。しかしだからといって設題集に「渡り職人について記せ」という設問を掲げるとは、なんとも乱暴なことである . . . 本文を読む
「銅鐸」は紀元前後の数世紀、すなわち「弥生時代」と呼ばれるころの日本列島で、主体的に集落を営んでいた「倭人」たちが製造し、遺した青銅器である。現在では「銅鐸(どうたく)」という呼び方が定まり、祭祀に用いられたとの考え方が主流となっているものの、いまだそのすべてについて解明されたとはいえない。
この青銅器は、土中に埋められているという特色から、七世紀の寺院建設工事で発掘されたころには、人々の記憶か . . . 本文を読む
弥生時代を通じ、最も多く用いられた生活資材は木、土、石である。中でも「石」は、包丁、鎌、斧といった生活用具はもちろん、剣、鏃などの武器としても幅広く利用された。石は放棄された後も長く状態を留め、また銅や鉄などの金属器のように溶かして再利用することもできないから、埋蔵遺物として数多く出土し、比較検討することができる。その材質、加工技術などを分析することによって、それが用いられた時代の生活状態や物資の . . . 本文を読む
「国」といえる体制が形成される以前の弥生時代、前2世紀ころから後3世紀ころにかけて、列島各地ではそれぞれの倭人集団が、異なった発展段階の集落を形成していた。本州においても、中央部に当たる近畿と東部の関東地域でははっきりと差異が認められる。
このころの近畿における一般的な村の様相を示していると考えられる遺跡として、大阪平野の低地地帯で発掘された瓜生堂遺跡がある。集落跡とともに、多くの埋葬施設が見つ . . . 本文を読む
1784年(天明4年)、現在の福岡市東区志賀島の農地から、5つの文字が刻まれた金製の「印」が発掘された。文字は「漢委奴国王」と読める。現在、国宝に指定されている「金印」である。方2.35cmの小さな「印」は、日本古代史における貴重な文字資料である。しかしいまだ解明できないいくつもの問題を含んでいる。それは①いつどこで製造されたものか②なぜ九州の地にもたらされ、博多湾に浮かぶ小さな島に埋まっていたか . . . 本文を読む
埋葬施設=墓は、どの時代どの地域においても、そのエリアの社会状況、人々の精神構造を知る最適な遺構である。弥生時代となると、倭人と呼ばれる稲作民たちは、集落の周辺に血縁者たちの以外を埋葬するようになる。墓地の出現である。
本州地域では、多くが木棺に納められて埋葬したと考えられ、すでに痕跡が失われていることが多い。これに対し九州地域は、大きな甕を組み合わせた中に埋葬する風習があったことから、埋葬状況 . . . 本文を読む
設問で言う「倭人」とは何か。テキストの『倭人争乱』(田中琢著)によれば「九州島北部から本州島西端部にかけて朝鮮半島から人々が渡来し、その地で縄文人と交渉を持つ中で弥生社会が形成され、そこで生成した倭人、あるいは渡来人の一部も含めて、彼らが本州島に進出し、各地で縄文人と接触、混交していった、とみてよい」という。
「みてよい」という根拠は、人類学に考古学の研究成果をあわせて考えてみると、ということら . . . 本文を読む
漢人が日本列島の住人を「倭人」と呼んだ時代、つまり紀元前後の弥生時代に、列島の人々は集団武装の傾向を強めて行った。それは農業の普及が集団間の対立を深め、耕作地を巡る争いが先鋭化していったからだと考えられる。
その事実は環濠集落、あるいは高地性集落と呼ばれる集落跡の発掘から明らかにされるが、出土する武器・武具によっても裏付けられる。集落の防御施設が時代を追ってより強固になっていったように、武器 . . . 本文を読む
「弥生時代」とはいつの時代か。それはこの列島で営まれる社会構造が、「縄文時代」と呼ばれる時代を通じ狩猟採集的生活を続けてきた人々に取って代わり、稲作を中心に定住生活を行う人々が中心となった時代のことである。そして中央集権的国家が誕生し、巨大な墳墓の築造によって王権が継承されていく「古墳時代」へと社会が成熟していくまでの間、西暦で表せば紀元前4世紀ころから紀元後3世紀ころのおよそ600年ほどにわた . . . 本文を読む