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還暦学生、「奈良学」に取り組む記

リタイアを機に「通信大学生」になった60歳。「趣味」の古代史を「学問」に近づけようと奮闘中。

考古学概論 7 弥生時代の環濠集落について

2006年07月12日 | 考古学概論
弥生時代の暦年代はかなりの幅を持って論争が続いているが、前時代(縄文時代)との画期となる文化については、農耕社会の確立、青銅器・鉄器の導入とともに、環濠集落の出現があげられる。中でも環濠集落は、縄文時代には見られなかった生活様式で、次の時代(古墳時代)には消滅しているという、弥生時代の特質を際立たせる集落形式である。

ここで言う環濠集落は、集落の周囲に水濠あるいは空濠をめぐらせ、外部との空間を分割して集落への出入りに制限を設けた形態である。主に平地では水濠をめぐらし、高地では空濠が掘られている。深さや幅は数メートルに及び、規模としては1ヘクタール未満のものから、数十ヘクタール超える例など多様である。こうした集落形態は中国や朝鮮半島でも見られ、日本列島には稲作技術とともにその文化も持ち込まれたと考えられる。

環濠を敷設した目的は、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)のように、濠の内部には逆茂木など障害物が仕掛けられた例が多く見られることから、外敵の侵入を防ぐという防御目的で敷設されたと考えることが一般的である。集団間の戦闘は、農業の開始によって始まったことは人類史共通の事実であり、弥生時代もその幕開けとともに、農耕定住集団間で戦闘が繰り返されたことは、多くの遺跡、遺構、人骨などで証明されている。

しかし水濠は、防御機能だけではなく水運、用水管理、木器生産、廃棄物処理、洪水対策など、生活の利便のための効用も果たしていたと考えるべきである。弥生時代は稲作文化を持った人々が、大陸や半島から大量に渡来したことによって始まったわけで、水運技術は前時代に比べ飛躍的に発展したと考えられる。環濠は軍事目的だけではなく、民生用としての利用も考えられた施設だった。

環濠集落は弥生時代後期になると急速に衰退していく。集落間の争いはやがて権威の継承を生み、集団の統合につながっていった。戦闘の頻度が薄まるとともに権威とその従属集団のすみわけが始まり、環濠内部には権威者の小集団が残り、それに従う大多数は環濠の外に生活の場を移して行った。そうやって環濠集落は消滅し、権威の象徴としてやがて巨大な古墳が出現するのである。