
飛鳥時代を前・後期に区分するとき、その境界をいつにするかはテーマによって必ずしも一致しない。ただし仏教美術、なかでも仏像の様式を中心に考えるとき、それは7世紀後半、天智朝の時代を画期と考えることが妥当である。
美術史的には「白鳳時代」とも画期されるこの時代は、朝鮮半島の政治的緊迫を反映し、大陸や半島との交流が活発になった時期である。
天智2年(663年)、大和政権は百済の要請を受けて朝鮮半島に派兵、唐・新羅軍に大敗する。この白村江(はくすきのえ)の戦いで滅亡を迎えた百済王朝は、4、5000人ともされる規模で王族、貴族たちが日本に亡命する。この際、仏教寺院の造営や造像の文化や技術が、技術者の移住という形で列島にもたらされたと考えられる。
天智8年(668年)の高句麗滅亡に際しても、同様の大量亡命が起きたと考えられている。 さらにこの時期、大和朝廷は遣唐使を6回派遣(653年―669年)、唐使の来朝もあって、かつてない密度で大陸との直接交流が行われた。こうした交流を通じ、飛鳥時代後期には多くの初唐様式がもたらされた。
この時代の代表的仏像を列記すれば、法輪寺「薬師如来坐像」、法隆寺「百済観音」、興福寺(山田寺)「仏塔」、当麻寺「弥勒物坐像」などが挙げられる。さらには藤原京の時代となっての中宮寺「菩薩半跏像」、法隆寺「夢違観音」、法隆寺「薬師如来坐像」などへつつながっていく。
その作風を俯瞰すると、法輪寺「薬師如来坐像」のように止利様式の正面観照性を色濃く残していたものが、百済観音となると伸びやかな身体のポーズがとられるようになり、やがて山田寺・仏頭や当麻寺の諸仏に見られるような、瑞々しい表情や肉付けが仏像表現の主流となった。
これらは中国の唐の初期に始まる新様式で、その様式が人的交流によってもたらされ、日本で定着して行ったことを物語っている。造像技法としては、木彫や金銅仏とともに脱活乾漆(だっかつかんしつ)造りが開始されたことが特筆される。
これらの変遷は、近年の吉備池廃寺の発掘調査や、飛鳥の川原寺や山田寺跡の調査によって研究が進められている。なかでも桜井市の吉備池廃寺は、実態が不明であった大官大寺であることが確認され、飛鳥時代の前記と後期を繋ぐ仏教定着・興隆期の実態解明が進んでいる。「国家」の形成が完成期を迎えた時期の、仏教美術が明らかにされつつある。
美術史的には「白鳳時代」とも画期されるこの時代は、朝鮮半島の政治的緊迫を反映し、大陸や半島との交流が活発になった時期である。
天智2年(663年)、大和政権は百済の要請を受けて朝鮮半島に派兵、唐・新羅軍に大敗する。この白村江(はくすきのえ)の戦いで滅亡を迎えた百済王朝は、4、5000人ともされる規模で王族、貴族たちが日本に亡命する。この際、仏教寺院の造営や造像の文化や技術が、技術者の移住という形で列島にもたらされたと考えられる。
天智8年(668年)の高句麗滅亡に際しても、同様の大量亡命が起きたと考えられている。 さらにこの時期、大和朝廷は遣唐使を6回派遣(653年―669年)、唐使の来朝もあって、かつてない密度で大陸との直接交流が行われた。こうした交流を通じ、飛鳥時代後期には多くの初唐様式がもたらされた。
この時代の代表的仏像を列記すれば、法輪寺「薬師如来坐像」、法隆寺「百済観音」、興福寺(山田寺)「仏塔」、当麻寺「弥勒物坐像」などが挙げられる。さらには藤原京の時代となっての中宮寺「菩薩半跏像」、法隆寺「夢違観音」、法隆寺「薬師如来坐像」などへつつながっていく。
その作風を俯瞰すると、法輪寺「薬師如来坐像」のように止利様式の正面観照性を色濃く残していたものが、百済観音となると伸びやかな身体のポーズがとられるようになり、やがて山田寺・仏頭や当麻寺の諸仏に見られるような、瑞々しい表情や肉付けが仏像表現の主流となった。
これらは中国の唐の初期に始まる新様式で、その様式が人的交流によってもたらされ、日本で定着して行ったことを物語っている。造像技法としては、木彫や金銅仏とともに脱活乾漆(だっかつかんしつ)造りが開始されたことが特筆される。
これらの変遷は、近年の吉備池廃寺の発掘調査や、飛鳥の川原寺や山田寺跡の調査によって研究が進められている。なかでも桜井市の吉備池廃寺は、実態が不明であった大官大寺であることが確認され、飛鳥時代の前記と後期を繋ぐ仏教定着・興隆期の実態解明が進んでいる。「国家」の形成が完成期を迎えた時期の、仏教美術が明らかにされつつある。