僕は、契約金なしの元プロ野球選手です

昨今、プロ野球選手の契約金問題が巷で話題になっています。契約金なしでプロ野球選手になった僕の人生を振り返ります。

昔のプロ野球選手の契約金額

2012-04-10 13:11:44 | 日記


最初に言い忘れたことがありました。僕が天国に来てから3カ月後の11月27日(平成10年)に、オリックスの編成部長だった三輪田さん(三輪田勝利スカウト)が、僕と村山がいる天国にやってきました。僕は、ドラフト会議があった直後だったので、天国にやってきた原因は、てっきり突発的な病気だったのかと思いました。


ところが、新聞報道でビルからの飛び降り自殺ということを知り、さらに驚きました。驚いたのは、亡くなり方が、僕と全く同じだったからです。もっとも、場所は、違うんですよ。僕は神戸市内の11階ビルから転落したのですが、三輪田さんは、沖縄市内の11階ビルから転落死しました。時刻は、僕も三輪田さんも、午後1時台という真っ昼間の時間帯です。僕は、バッグを持って、靴を履いて転落したのですが、三輪田さんは、11階に靴と免許証を置き、転落しました。

三輪田さんは、亡くなった後、那覇署が自分の身元をすぐにわかってくれるように考えたようですが、僕は、自分の身分証明書などが入っている財布を、阪神タイガースの事務所の自分の机の中の奥の方にしまってから、転落現場に行ったので、警察にすぐ身元をわかってもらうことができませんでした。そのため、「身元不明の変死体」として、警察は事件処理を進めたんです。



ところが、警察が身元の判明を急いでいる時に、ひょこっと、末永が(末永正昭チーフスカウト)が、生田警察に現れたのには、驚きました。「今、現れる場面ではない!それをするとおかしいよ」と僕は、天国から叫びましたが、聞こえないようでした。とにかく、何かにつけ、世話のやける部下なんです。

僕は、本来、役職は阪神タイガースの取締役編成部長なのですが、役職は後輩に譲っていたんです。僕は入団当初からの慣例で、1年毎に契約更新し、職員ではなかったけど、末永は、職員でしたから、役職があると、役職手当がついて、少しでも生活が楽なのではないかと思ったからです。もっとも、取締役編成部長の役職も、65歳になった時点で定年退職となりますので、なくなります。僕の場合は、大昔に、「体が続く限り阪神タイガースで仕事をさせる」という約束を取りつけていましたので、65歳になってからは、嘱託スカウトという立場で、阪神の新人選手発掘活動をしていました。そんなことで、実質は、末永は僕の部下なんです。

末永は、有能選手を見抜くというスカウト活動よりも、葬儀の段取りなどを進めるのが得意で、村山の葬儀の時も、率先して手伝いに行っていました。僕は、細々したことは、末永に任せっぱなしでした。末永は、本来、よく気がきく、いいやつなんです。村山の葬儀は、8月26日に、執り行われました。もちろん、僕も列席しました。その時に、懐かしい人達とひさしぶりに会い、昔の思い出を語りました。

そんなことで、偶然、同じ年に天国に来た僕たちは、偶然、3人とも現役時代、投手でした。村山とは監督とコーチという関係の時代もありました。三輪田さんとは、九州担当スカウトとして、関西よりも九州の市営球場などで頻繁に会ってました。一緒に球場から球場へ、駅弁を買って汽車で移動したりしたことは懐かしい思い出です。いろいろな意味で、思い出話は尽きません。


契約金の話に戻します。
僕は、テスト生だったので、契約金なしでプロ野球選手になりました。テスト生ではなく、スカウトされてプロ野球選手になった人は、昔でも契約金がありましたよ。僕のチームメイトの吉田義男さんは、スカウトされてプロ野球に入ったので、契約金がありました。

昭和27年秋から、阪神の青木一三スカウトが足しげく吉田さんのところに通ってきたそうです。吉田さんは、スカウトに口説かれて、立命館大学を中退して阪神に入団されたんです。有能な遊撃手でしたからね。その時の契約金は、50万円で月給は3万円と言ってました。僕とは大違いです。僕は、中学しか出ていませんので、そういう点でも契約金などに差が出るんです。でも、これは仕方がないことです。

昭和28年、鹿児島の鴨池球場でのキャンプで、練習を一緒にしました。僕が入団2年目、吉田さんが入団1年目の時です。全員練習が終わった後、僕と吉田さんだけで、球場に隣接する陸上グラウンドで、日が落ちるまでランニングに励みました。懐かしい思い出です。(文責:渡辺直子)

参考文献:「名スカウトはなぜ死んだか」(六車護)
     「牛若丸の履歴書」(吉田義男著)
      渡辺省三の日記




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