piano 竹内直子

in other words, "I LOVE YOU".

プロットと、メロディアスな言語。

2013-02-24 | オンガク。

ピアノを弾いていると、メロディの、コード進行の、「屋台骨」「枠組み」「脈絡」のようなものが、とても気になる。
ことばに表すなら、曲の『プロット』がしっかりしていないと、特にピアノ一本で弾いているときは、空虚な気持ちになってしまう。
そこのところが心にストンと落ちる曲を、自然と選曲するようにしているのだと思う。

新しく出会った曲でも、奏でてみて、「わあ、すごいなあ。」と思ったりする。古い曲の素晴らしさを改めて弾いて味わうことも多い。

 

ここ数十年、日本で生み出された曲で、弾き継いでいきたいなあ、と思う、「プロットのしっかりした曲」は、なかなか探すのが難しくなってしまった。
それにはいろいろな要因があるのだと思うけれど、さみしいことだなあと思う。

 

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先月の半ばごろのこと、俳優の内野聖陽さん目当てでランダムに録画予約してあった、ひとつのドラマ。
偶然観たそのドラマのストーリーの『プロット』が、あまりにもしっかりしているので、うわわわとビックリ仰天した。
そんなドラマ、ここのところあったっけ・・・。

原作があるんだな、小説か、マンガか・・・。と思って調べたら、
重松清氏という作家の書いた小説がとても売れたということ、
ほんの少し前に、NHKでもドラマ化されていたのだということを知った。

柄本さんの海雲和尚も、麻生さんのたえ子さんも、あんまり素敵でため息が出てしまう。
初回の旭君は、ちょっと衝撃的で、何度か夢に出てきた。
音楽は、残念ながら、かなり残念だったけれど。

 



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『プロット』といえば、小説もミュージカルも、あまりにも世に知れ渡り過ぎた、

磐石のプロットから成る「レ・ミゼラブル」という作品について。
トム・フーパー監督によって2012年に改めて映画化され、現在もロングラン上映されている。
時間をこじあけて、終電ギリギリのレイトショーで、えいやっと観てきた。



フランス人の心の中に根付く小説を、イギリス人がミュージカル化し、アメリカ人がブロードウェイで大きくして、

2012年にまた新しい切り口で映画化された。

再演に次ぐ再演。創り手としては、こんなに荷が重い題材はないだろうと思う。
でも、深い愛情が感じられて、素晴らしかったなあ…。

俳優の見た目も、言葉も、歌も、どうしたってフランスの香りはしない。
パリの街が映し出される中、英語圏のひとたちの精神性と、端々に散りばめられたフランス語と、
一人だけ強烈にロックオペラテイストのジャベールと、もろもろにざらっとした感触があって、
違和感は最後まで拭えなかったけれど、でも、トータルできちんと抑制が効いて、
ひとつの空気が流れていて、ぐぐっと心に深く迫った。
エンドロールが終わっても、席を立てずにいた。

アンハサウェイの「夢やぶれて」も、ヒュー・ジャックマンの「One day more」も、
ガブローシュ達が歌う「民衆の歌」も、ほんとうに素敵だった。



・・・ふと、フランス人は、どう思って観たのだろう?・・・とも思う。

フランス語発信のフレンチミュージカルは少数ながら存在するけれど、
このミュージカルはもちろんイギリス製で、英語の言語の抑揚で作曲されている。

だって、未だに、オーストリア人に会うと、口々に「サウンドオブミュージック」にどれだけ閉口しているか、という話をされるのだ。
アメリカ人に「祖国の歌」のように詠じられる「エーデルワイス」に、えもいわれぬ嫌悪感を覚えるのだそうだ。
「日本人が、ハリウッド映画に出てくる忍者を見るのと同じくらいよ。」と。

他国のひとたちによって勝手に解釈されて、一人歩きしてゆく自国の文化。



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返す返すも、英語は、ほんとうにメロディアスな言語で、歌曲は英語のおかげで近現代とても豊かになったと思う。


“歌うように話す”ことば。

日本語はぜんぜんメロディアスではないので、やっぱり俳優が突然歌い出したら、だいぶ違和感を感じてしまう言語だと思う。
普段歌うようにしゃべっていないんだもの。
だから、日本語のミュージカルは、どうしても馴染めない。


そう思うと、言語や、地理や、政治や、
そんな一見ベクトルの違う要素が、文化を創るのだなあと、
当たり前かもしれないけれど、改めて思う。


そして、「プロット」がしっかりしていることのたいせつさに、改めて思いを馳せた。

鍛錬して、自分を豊かにして、弾き継いでいきたいなあと思います。

コメント
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