piano 竹内直子

in other words, "I LOVE YOU".

談志師匠を、偲ぶ。

2011-11-25 | オモシロイ。

同時期に活躍されていた、故志ん朝師匠と、
いろいろな意味で双璧と言われていた。

どちらも、つやつやして、信じられないくらい鋭くて、眩い華があって、
観客すべての空気を、大きな何かで グッとつかんで揺り動かす。
まさに「LIVE」の人であった。
その人間ご自身が、ほんとうに魅力的で面白い。

1983年に、落語協会を離れられた経緯も、私には詳しくわからない。
一般的に報じられている説ではないと感じている。
お弟子さんを、そして志ん朝師匠をかばった形で、
彼のダンディズムを通した結果だったように思う。

それからの家元の高座は、所謂 落語協会公認の寄席で見ることは出来なくなり、
私が談志師匠の高座を拝見したのは、ほとんどが「独演会」だ。
一時期は、常連組と顔なじみになってしまうほど通った。

今 思い出せる演目を並べてみた。
「松曳き」
「夢金」
「紺屋高尾」
「疝気の蟲」
「鉄拐」
「らくだ」
「短命」
「野ざらし」

一般的に代表作品とされている、「芝浜」も見たかなぁ・・・ 映像の記憶かもしれない。
私にとっては、「らくだ」と「芝浜」は、勘三郎丈の歌舞伎の方が印象が深い。

一番印象に残っているのは、
「疝気の蟲」。
怖いくらい、
ありありと浮かぶ、毒々しい虫を、今もはっきり思い出す。
噺家によって様々なサゲのある
「紺屋高尾」も、細かいところまで覚えている。
ほんとうに大好きだった。



私は、「受け手によって、それぞれの風景、それぞれのビジュアルが思い浮かぶような文化」が好きだ。
文学も、読み手の数だけ「異本」があるから面白いと思っている。

情報過多により益々難しくなる現状、この「のりしろ」の部分、想像、創造の部分が少ない所以だと思う。
過剰な映像も効果音も、果てはメイキングや種明かしまで知らされたくない。
受け手それぞれのイマジネーションの力が、演者の力と拮抗するから、いい舞台が生まれるのだと思う。
どちらが欠けても成立しない。
どんなところで、どんな文化であっても、それはすべて、きっとそう。



「マクラ」で印象に残っている言葉もたくさんある。
仔細にことばを覚えていないのが残念なのだけれど、ざっくり記憶している内容。

  落語というものについて、自分が落語をやっていることについて。
  自分が他の噺家より優れていると思っている理由について。
  「パーソナリティがきちんとしてれば、あとは大丈夫」だと思っている。
  他の噺家は「落語」という作品をやっている、
  自分は「落語」を通して「自分」というものを出している。


音楽も、ほんとうに然り。

キリがないので、すこしずつ考えよう。
大好きだったので、なんだかさみし過ぎて、まだ真っ直ぐに受け止められない。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。