今、日本の神道はとてもゆがんでしまっています。
神社によっては、神社の名前さえ間違い、
祭る神様の名前さえ間違い、
そもそも祭っている神様さえ間違っているところがあるくらいです。
……というよりも、神様の歴史を正しく受け継いで、
正しく祭っているところのほうが少ないと
言ってしまったほうが早いでしょう。
そんなことはない、神道には詳しいし、
日本の神道がそんなに狂っているわけがない!
――と言える人がいるのならば、
ぜひ『八百万の神』について説明してみてください。
神道についての理解をはかるには、
この『八百万の神』についての話を聞くのが
もっとも手っ取り早いのです。
『八百万の神』とは、日本のすべての神様をあらわす言葉で、
日本には800万ともいわれるほどのたくさんの神様がいて、
人々を見守り、信仰を集めているんだ――
……なんて説明をする人は、完全な誤り。
残念ながら、神道について何にもわかっていません。
現在は、神道関係者でさえ、簡単に『八百万の神』なんて言葉を口にします。
しかもその言葉に、『日本のすべての神さま』、
『日本のもろもろの神様』という意味をこめている始末です。
でも、その言葉、その概念の根拠はどこにあるのでしょう。
神道のなにかの文献、何かの資料に、
『八百万の神』という言葉は『日本のすべての神さま』や
『日本のもろもろの神様』をあらわすのだと
述べるものがあるでしょうか?
そんなものは、ありません。
それは、伝説を見たって明らかです。
たとえば、とある伝説では。
とある月に『八百万の神様』が日本の特定地域に集まると言います。
『八百万の神様』が
『日本のすべての神さま』『日本のもろもろの神様』であるならば
そのときには日本中すべての神様がその特定地域に集合するはずです。
……が。伝説自体、そんなことは言いません。
ほぼ確実に、えびすさまは行かないことになっていることでしょう。
これがなぜか、説明できるでしょうか?
人によってはこのことに対し、
えびすさまはそういうときは留守を守るのが役目だとか
なんとか言うかもしれません。
……でも、その説明の根拠も、どこにもないはずです。
おそらく、
伝説ではえびすさまは『八百万の神様』のつどいには行かない
↓
行かないのは、行かないことが役目になっているから『だろう』
というようなことから勝手に作り出したこじつけでしょう。
なぜそう言えるのかといえば、
本来の神道文書、本来の神道の話には
そんなことは書いていないことによります。
逆に、本来の神道文書、本来の神道の話をきちんと読めば、
えびすさまが、なぜ『八百万の神様』のつどいがあっても
そこに行かないかの理由がのべられています。
それは、
えびすさまが『八百万の神様』ではないから
です。
たとえ『八百万の神様』の神様が集まる会があっても、
えびすさまは『八百万の神様』ではないから、そこには行かない。
とてもシンプルな話です。
えびすさまが『八百万の神様』に含まれないとはどういうことか。
えびすさまは『日本のすべての神さま』や
『日本のもろもろの神様』に含まれないような存在なのか。
……と言えば、これも説明は簡単です。
神道用語における『八百万の神様』には、
『日本のすべての神さま』『日本のもろもろの神様』
なんて意味は一切ないのです。
ここで、視点を変えるために、アイヌ民族を見て考えてみましょう。
アイヌ民族も多神教で、いろんな神様がいます。
たとえば、アペの神様、俗に言う『フチ・アペ』も『アイヌの神様』です。
フチアペを含めたほかのアイヌの神様のことを
まとめてなんというか、と言えば。
『アイヌ万の神様』です。
これは、『アイヌ よろづのかみさま』と発音します。
『アイヌ万(アイヌまん)』なんていう単位もなければ、
何かの具体的な数字をあらわしているわけでもありません。
これをふまえて、『八百万の神様』です。
先ほどのアイヌの話と同様に、『八百万の神様』の分け方は
『八百 万の神様』で、『やお よろづのかみさま』と発音します。
『八百万』という単位でもなければ、数字でもありません。
あえて数字にこだわりたいなら、『八百』です。
これならぎりぎり正解の範囲に入ります。
アイヌ民族の万(よろづ)、すべての神様のことを『アイヌ万』と言うように
『八百万』は、八百のすべての神様のことを言います。
えびすさまは、その『八百』に入らないので、
『八百万の神』が集まるところには行きません。
……こんな内容は、神道の基礎の基礎です。
神道ではずっと語り継いできた内容であり、
神道の古文をきちんと読めば、今でさえ読み取れる程度のものです。
なのに、神道に関わってお金をもらっている人でさえ、
学ばず、確かめもせず、根拠をとりもせず、誤ったまま
何も考えず適当に口にできるほど、神道はゆがんでしまっているのです。
本来、神社が大切にしてきたのは、
・祭っている神様の元の名前はなにか、
・出身や本拠地はどこか、
・神社の名前の由来はなにか、
・鳥居の形はなにか、
・どうしてそれなのか
といったこと。
なのに、今の神社は、どの神が『八百』グループに入るのかさえ考えもせず、
すべての神様を八百扱いした上で、
・この神様は何のご利益がある、
・なになにに通じる神様だ、
・この神社はいつから建っている、
・この神社の様式はなんだ、
といった、本来の神道ではどうでもいいようなことばかりを気にかけます。
これは、神道の『道』から外れた邪道です。
このようなものは、明治期にゆがめられた、
いわゆる『明治神道』の神社にありがちです。
明治神道やその前の神道は、古い神様の名前を奪い、
形を変え、呪いのようなもので神様を縛りました。
本来の神道ではなく、邪道に走ったのです。
でも、明治神道を盲信する人は、そのことすら知りません。
そもそも自分が古来の神道ではなく、
『明治神道を信じている』ということにさえ気づきません。
神道関係者は、きちんと神道を研究してほしいと思います。
そうすれば、
祭っている神様の元の名前はなにか、
出身や本拠地はどこか、
神社の名前の由来はなにか、
鳥居の形はなにかどうしてそれなのか、
程度は説明できるはずです。
……とは言え、いまや、神道古文どころか、
物語文ていどの古文解釈の方法さえ失われつつある状況です。
せめてもの抗いとして、神道関連文書などの古文を読める程度の、
初歩の古文の解釈法をまとめて残しておきますので、
興味のある人に見えもらえたらと思います。
●古文書の意味を知るための、基礎の基礎の方法
古文を読む際に重要なことは『根拠をとること』です。
今の一般的な人間は、たとえ大学教授だろうと教師だろうと神道研究者だろうと、
古文を自分の気分だけで訳し、その文章内、他の文献内から
根拠をとるということをしません。
だから、訳や解釈が狂っているのです。
このことや例は上の本でも述べました。
それから、これは上では述べていませんが、
上のものを読んだのちに、神道文書を解読する人がいたときのために。
神道に関わる文字を読むときには、
今ある名前は基本的に間違っている、と思っておくべきです。
Aという文字で書かれる神様と
Bという文字で書かれる神様は、実は同じ神様だったりします。
それは、根拠をとって読んでいけばわかります。
でも、わかること自体にはたいした意味はありません。
むしろ、重要なのは、なぜ名前を変えてあるのか、
なぜ名前を変える際にそのロジックを使ったのか、です。
その理由を、思い込みでなく、
ちゃんと根拠をとりながらたぐっていくことができれば、
おそらく読みきれるはずだと思います。
うちの神様、わたしの神様も、神道のゆがみに巻き込まれ、
名前を奪われ、存在を変えられてしまいました。
その神様に導かれて、神道の研究をしていた気がしていましたが……。
わたしは神様から与えられた役目を果たせたのでしょうか。
それとも神様に役目を与えられたと思うことが誤りだったのでしょうか。
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古い神道関連のおまけ話
・牛鬼
今は妖怪のようにみなされている牛鬼ですが、本来は古い神道の神様でした。
後に氏子らが争いに負けたことで、その神も貶められ、
牛鬼に変えられてしまったのです。
キリスト教でいうなら、別の宗教の神『バアル・ゼブル』が
キリスト教に蹂躙され、悪魔でハエの『ベルゼブブ』に貶められた、
みたいな概念です。
日本の伝説では牛鬼を退治した有名人、というのがぼちぼちいますが、
それらは単なる絵空事の話ではありません。
牛鬼につながる一族の、本物の人間を、
「こいつは人間じゃない。牛鬼の氏子だから、牛鬼という化け物なんだ!」
といってぶちころしたという、人殺しの話です。
・浦島太郎
今はおとぎばなしとされている、浦島太郎の話ですが、
本来は古い神道の話です。
そもそも、浦島太郎の名前は浦島太郎ではありません。
古代神道を知らない人には、
『何が言いたいのかわからない』、
『あれは時間の流れが違うというSFの話だ』
などと言う人もいるようですが、話の意味はとても簡単です。
実は、浦島太郎の話はもともと、古代神道では有名な、
神様のエピソードなのです。
それを述べた内容がすこしずらされて御伽噺にされただけなので、
SFとは一切なにも関係ありません。
いくつか種類のあるオチも、神道の常識さえあれば、
本来はどれかというのもわかります。
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追記:
古代神道について、研究をまとめはじめてみました。
ただ古い神様や神社の話だけ述べていてもつまらないと思い、
邪馬台国や卑弥呼などとからめて述べていくシリーズです。
邪馬台国で有名な卑弥呼は、古代神道では神として祭られています。
そして卑弥呼であるその神は、現代でも神として祭られているのです。
さて、その神名は――……?
といったところに興味があれば、ぜひお読みください。
・古代神道が語る邪馬台国 第01巻
↑古代神道を理解するのに必要な知識を、
指宿の由来について解説しながら語ります。
・古代神道が語る邪馬台国 第02巻
↑古代神道の常識・重要な点をすこしと、
指宿に名を残したyivの民が実在したこと、
yivの神についてのこと、
生という漢字の揺らぎについてのこと、
女性器の語源についてのことなどを説明します。
神社によっては、神社の名前さえ間違い、
祭る神様の名前さえ間違い、
そもそも祭っている神様さえ間違っているところがあるくらいです。
……というよりも、神様の歴史を正しく受け継いで、
正しく祭っているところのほうが少ないと
言ってしまったほうが早いでしょう。
そんなことはない、神道には詳しいし、
日本の神道がそんなに狂っているわけがない!
――と言える人がいるのならば、
ぜひ『八百万の神』について説明してみてください。
神道についての理解をはかるには、
この『八百万の神』についての話を聞くのが
もっとも手っ取り早いのです。
『八百万の神』とは、日本のすべての神様をあらわす言葉で、
日本には800万ともいわれるほどのたくさんの神様がいて、
人々を見守り、信仰を集めているんだ――
……なんて説明をする人は、完全な誤り。
残念ながら、神道について何にもわかっていません。
現在は、神道関係者でさえ、簡単に『八百万の神』なんて言葉を口にします。
しかもその言葉に、『日本のすべての神さま』、
『日本のもろもろの神様』という意味をこめている始末です。
でも、その言葉、その概念の根拠はどこにあるのでしょう。
神道のなにかの文献、何かの資料に、
『八百万の神』という言葉は『日本のすべての神さま』や
『日本のもろもろの神様』をあらわすのだと
述べるものがあるでしょうか?
そんなものは、ありません。
それは、伝説を見たって明らかです。
たとえば、とある伝説では。
とある月に『八百万の神様』が日本の特定地域に集まると言います。
『八百万の神様』が
『日本のすべての神さま』『日本のもろもろの神様』であるならば
そのときには日本中すべての神様がその特定地域に集合するはずです。
……が。伝説自体、そんなことは言いません。
ほぼ確実に、えびすさまは行かないことになっていることでしょう。
これがなぜか、説明できるでしょうか?
人によってはこのことに対し、
えびすさまはそういうときは留守を守るのが役目だとか
なんとか言うかもしれません。
……でも、その説明の根拠も、どこにもないはずです。
おそらく、
伝説ではえびすさまは『八百万の神様』のつどいには行かない
↓
行かないのは、行かないことが役目になっているから『だろう』
というようなことから勝手に作り出したこじつけでしょう。
なぜそう言えるのかといえば、
本来の神道文書、本来の神道の話には
そんなことは書いていないことによります。
逆に、本来の神道文書、本来の神道の話をきちんと読めば、
えびすさまが、なぜ『八百万の神様』のつどいがあっても
そこに行かないかの理由がのべられています。
それは、
えびすさまが『八百万の神様』ではないから
です。
たとえ『八百万の神様』の神様が集まる会があっても、
えびすさまは『八百万の神様』ではないから、そこには行かない。
とてもシンプルな話です。
えびすさまが『八百万の神様』に含まれないとはどういうことか。
えびすさまは『日本のすべての神さま』や
『日本のもろもろの神様』に含まれないような存在なのか。
……と言えば、これも説明は簡単です。
神道用語における『八百万の神様』には、
『日本のすべての神さま』『日本のもろもろの神様』
なんて意味は一切ないのです。
ここで、視点を変えるために、アイヌ民族を見て考えてみましょう。
アイヌ民族も多神教で、いろんな神様がいます。
たとえば、アペの神様、俗に言う『フチ・アペ』も『アイヌの神様』です。
フチアペを含めたほかのアイヌの神様のことを
まとめてなんというか、と言えば。
『アイヌ万の神様』です。
これは、『アイヌ よろづのかみさま』と発音します。
『アイヌ万(アイヌまん)』なんていう単位もなければ、
何かの具体的な数字をあらわしているわけでもありません。
これをふまえて、『八百万の神様』です。
先ほどのアイヌの話と同様に、『八百万の神様』の分け方は
『八百 万の神様』で、『やお よろづのかみさま』と発音します。
『八百万』という単位でもなければ、数字でもありません。
あえて数字にこだわりたいなら、『八百』です。
これならぎりぎり正解の範囲に入ります。
アイヌ民族の万(よろづ)、すべての神様のことを『アイヌ万』と言うように
『八百万』は、八百のすべての神様のことを言います。
えびすさまは、その『八百』に入らないので、
『八百万の神』が集まるところには行きません。
……こんな内容は、神道の基礎の基礎です。
神道ではずっと語り継いできた内容であり、
神道の古文をきちんと読めば、今でさえ読み取れる程度のものです。
なのに、神道に関わってお金をもらっている人でさえ、
学ばず、確かめもせず、根拠をとりもせず、誤ったまま
何も考えず適当に口にできるほど、神道はゆがんでしまっているのです。
本来、神社が大切にしてきたのは、
・祭っている神様の元の名前はなにか、
・出身や本拠地はどこか、
・神社の名前の由来はなにか、
・鳥居の形はなにか、
・どうしてそれなのか
といったこと。
なのに、今の神社は、どの神が『八百』グループに入るのかさえ考えもせず、
すべての神様を八百扱いした上で、
・この神様は何のご利益がある、
・なになにに通じる神様だ、
・この神社はいつから建っている、
・この神社の様式はなんだ、
といった、本来の神道ではどうでもいいようなことばかりを気にかけます。
これは、神道の『道』から外れた邪道です。
このようなものは、明治期にゆがめられた、
いわゆる『明治神道』の神社にありがちです。
明治神道やその前の神道は、古い神様の名前を奪い、
形を変え、呪いのようなもので神様を縛りました。
本来の神道ではなく、邪道に走ったのです。
でも、明治神道を盲信する人は、そのことすら知りません。
そもそも自分が古来の神道ではなく、
『明治神道を信じている』ということにさえ気づきません。
神道関係者は、きちんと神道を研究してほしいと思います。
そうすれば、
祭っている神様の元の名前はなにか、
出身や本拠地はどこか、
神社の名前の由来はなにか、
鳥居の形はなにかどうしてそれなのか、
程度は説明できるはずです。
……とは言え、いまや、神道古文どころか、
物語文ていどの古文解釈の方法さえ失われつつある状況です。
せめてもの抗いとして、神道関連文書などの古文を読める程度の、
初歩の古文の解釈法をまとめて残しておきますので、
興味のある人に見えもらえたらと思います。
●古文書の意味を知るための、基礎の基礎の方法
古文を読む際に重要なことは『根拠をとること』です。
今の一般的な人間は、たとえ大学教授だろうと教師だろうと神道研究者だろうと、
古文を自分の気分だけで訳し、その文章内、他の文献内から
根拠をとるということをしません。
だから、訳や解釈が狂っているのです。
このことや例は上の本でも述べました。
それから、これは上では述べていませんが、
上のものを読んだのちに、神道文書を解読する人がいたときのために。
神道に関わる文字を読むときには、
今ある名前は基本的に間違っている、と思っておくべきです。
Aという文字で書かれる神様と
Bという文字で書かれる神様は、実は同じ神様だったりします。
それは、根拠をとって読んでいけばわかります。
でも、わかること自体にはたいした意味はありません。
むしろ、重要なのは、なぜ名前を変えてあるのか、
なぜ名前を変える際にそのロジックを使ったのか、です。
その理由を、思い込みでなく、
ちゃんと根拠をとりながらたぐっていくことができれば、
おそらく読みきれるはずだと思います。
うちの神様、わたしの神様も、神道のゆがみに巻き込まれ、
名前を奪われ、存在を変えられてしまいました。
その神様に導かれて、神道の研究をしていた気がしていましたが……。
わたしは神様から与えられた役目を果たせたのでしょうか。
それとも神様に役目を与えられたと思うことが誤りだったのでしょうか。
----
古い神道関連のおまけ話
・牛鬼
今は妖怪のようにみなされている牛鬼ですが、本来は古い神道の神様でした。
後に氏子らが争いに負けたことで、その神も貶められ、
牛鬼に変えられてしまったのです。
キリスト教でいうなら、別の宗教の神『バアル・ゼブル』が
キリスト教に蹂躙され、悪魔でハエの『ベルゼブブ』に貶められた、
みたいな概念です。
日本の伝説では牛鬼を退治した有名人、というのがぼちぼちいますが、
それらは単なる絵空事の話ではありません。
牛鬼につながる一族の、本物の人間を、
「こいつは人間じゃない。牛鬼の氏子だから、牛鬼という化け物なんだ!」
といってぶちころしたという、人殺しの話です。
・浦島太郎
今はおとぎばなしとされている、浦島太郎の話ですが、
本来は古い神道の話です。
そもそも、浦島太郎の名前は浦島太郎ではありません。
古代神道を知らない人には、
『何が言いたいのかわからない』、
『あれは時間の流れが違うというSFの話だ』
などと言う人もいるようですが、話の意味はとても簡単です。
実は、浦島太郎の話はもともと、古代神道では有名な、
神様のエピソードなのです。
それを述べた内容がすこしずらされて御伽噺にされただけなので、
SFとは一切なにも関係ありません。
いくつか種類のあるオチも、神道の常識さえあれば、
本来はどれかというのもわかります。
----
追記:
古代神道について、研究をまとめはじめてみました。
ただ古い神様や神社の話だけ述べていてもつまらないと思い、
邪馬台国や卑弥呼などとからめて述べていくシリーズです。
邪馬台国で有名な卑弥呼は、古代神道では神として祭られています。
そして卑弥呼であるその神は、現代でも神として祭られているのです。
さて、その神名は――……?
といったところに興味があれば、ぜひお読みください。
・古代神道が語る邪馬台国 第01巻
↑古代神道を理解するのに必要な知識を、
指宿の由来について解説しながら語ります。
・古代神道が語る邪馬台国 第02巻
↑古代神道の常識・重要な点をすこしと、
指宿に名を残したyivの民が実在したこと、
yivの神についてのこと、
生という漢字の揺らぎについてのこと、
女性器の語源についてのことなどを説明します。