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風小路四万歩の『記憶を遡行する旅』

ある場所に刻まれた記憶の痕跡を求めて、国内、海外の聖地、歴史のある町並み、古道、古跡、事件、デキゴトなどを訪ねる

津山事件-闇に渦巻く怨念-

2011-08-01 11:19:46 | 人文
 
紅葉の季節には少し間がある十月のある日の昼下がり、因美線の美作加茂駅で下車する。いかにもローカル色あふれる小駅は、降りる人の数もわずかである。改札を出て、さっそく目的地までバスに乗ろうと時刻表をのぞくと、つぎのバスの発時刻は一時間も先であった。
駅前の食堂で少し早い昼食をとってから、貝尾方面行きのバスに乗る。バスはのどかな田園風景のなかをしばらく走ると、やがて山峽の山道をぬうように進んでいく。秋晴れの光に満ちた沿道のたたずまいは、あくまで明るく穏やかだ。かつて、このあたりで起きた忌まわしい事件のことなど信じられないほどである。
その事件が起きたのは、昭和十三年五月二十一日の未明のことである。岡山県苫田郡西加茂村、現在の加茂町貝尾集落で、一時間半ほどのうちに三十人もの村人が殺されるという、日本の犯罪史上でも類を見ない一大事件が発生したのだ。
中国山脈の麓にある、平和な山峽の村落で突然起こったその出来事は、のちになって、平和な村落共同体に息づく人間の欲望や複雑にからまった男女関係をあぶり出すことになった。
西加茂村は津山市から北へ二四キロほど入った、戸数三百八十、人口二千あまりの村で、事件の起きた貝尾集落には当時二十二戸、百十一人の住民が住んでいた。
そこは防風林にかこまれた茅葺き屋根の切妻づくりの家屋が、谷間に切りひらかれた村道にそって点々と立ち並ぶといった寂しい山村である。 
この大量殺人を実行した犯人は、貝尾集落に住む都井睦雄という、当時まだ二十一歳の肺病もちの男だった。男は犯行後、みずからの心臓を猟銃で撃ち抜いて自殺した。日ごろ盗みとてない平和な村で起こった事件だけに、その猟奇なできごとに世人は重大関心を注いだのである。
当時の新聞はこの事件を「深夜の悪魔と化した狂へる若者がモーゼル九連発銃と日本刀を提げ、返り血も物凄く村民三十名(うち一名重傷後死亡)を射殺即死させ、一名に軽傷を負はせて自殺した希有の惨劇がぼっ発した」(大阪毎日新聞)とセンセーショナルに報じた。のちに推理小説作家の横溝正史も、『八墓村』のなかで、この事件を素材に使っている。
事件の顛末は次のようなものであった。
その日は肌寒い夜であったという。ときおり月が顔を出すことはあったが、空は雲におおわれ、小雨さえ降っていた。
日頃、村人の間ではとかく噂のあった若者が、何を思ったか、深夜、床をぬけ出て、村人を殺傷しながら村を駆けめぐったのである。その時の男の装いが尋常でなかった。詰め襟の学生服を着て、脚にはゲートルを巻き、地下足袋を履いた姿は、あたかも兵隊の制服を思わせた。そのうえ、頭に懐中電灯をくくりつけ、胸にもうひとつナショナル電灯をぶらさげていた。懐中電灯を頭にくくりつける格好は、昔からこの地方の人たちが夜釣りの時にするスタイルであった。
男は凶器となった日本刀と匕首二口を腰にさし、手に九連発のブローニング銃をたずさえていた。散弾入りの雑嚢は肩にかけていた。銃弾は猛獣狩用の強力なものだった。
男は祖母とふたり住まいだった。男の両親は、すでに本人が幼い頃、結核で亡くなっていた。そのためもあってか祖母は男を盲愛して育ててきた。
男の家には三反ほどの谷間の耕地があったが、それを祖母がひとりで細々と耕して、生計を立てていた。男は生来身体が弱いこともあって畑仕事はしなかった。ほとんど家にいて、ぶらぶらと過ごす毎日であった。それが男の生活を放縦にさせたともいえた。
* * *
 男の犯行の手はじめは、同居していた祖母の殺害だった。寝ている祖母の頚に斧をふり下ろしたのである。首は胴体から離れて、近くの障子にまで飛んでいたという。
じつは、この家で事件が起きたのはこれで二度目のことだった。以前、この家の持ち主が、他家の人妻と無理心中を図ろうとした果てに割腹自殺したことがあった。この家には忌まわしい過去が刻まれていたのである。
祖母を殺したのは、自分が事件を起こしたのちになって、不憫な思いをさせてはいけないと考えたからだと、男は遺書に書いている。祖母を殺すことで、これから実行する殺人行為へのためらいがふっ切れたといえた。男の狂気は、いっそう燃え上がって、このあと文字通り目くるめく行為がつづくのである。祖母の首をはねた男は、その勢いで、自分の家の北隣の家に飛びこんでいる。そこは川本ツギエの家であった。男は、以前からこの家の女が、自分の素行を悪しざまに言いふらしているのを憎んでいたのである。
狙ったのはツギエひとりであったが、その夜、一緒に寝ていた子供ふたりを同時に殺している。この時は日本刀を使った。
日本刀を使い、銃を使わなかったのは、次の目標が、男にとっては、今回の襲撃のもっとも核心部にあたるものだったからだ。銃を使うことで人が騒げば、目的が果たせないと考えたのである。
その目標とされたのは北山タマヨという、これもかつて、男といくどか情交をかわしたとされた女であった。その女が最近になって自分を遠ざけ、そればかりかあらぬ噂を流している、と男は思いこんで憎悪していた。
タマヨの殺害の仕方はそれだけにむごかった。その夜、タマヨは夫と娘、それにタマヨの妹と四人で寝ていたところを襲われたのである。腹部に撃ち込まれた銃弾が内蔵を破裂させた。同時に、タマヨと一緒にいたほかの三人も殺害している。時計の針は午前二時を指していた。
次に襲われたのは、北山タマヨの娘が嫁いでいる川本隆之の家だった。タマヨへの憎しみが、その娘の嫁いだ家にまで及んでいる。ここで男は、その家の夫婦とたまたま遊びに来ていた親類の青年を死亡させている。
男はさらに寺下大一の家に向かう。大一の娘は前から男との間に噂があった女であった。男はその日、女が里帰りしていることを知っていて、この家に押し入ったのである。 
 家の中には大一とその長男夫婦、目標になった娘とその娘の妹二人が寝ていた。ところが、皮肉なことに、狙われた娘は逃げて助かり、ほかの五人がすべて犠牲になった。
男は逃げた女を探して、大一の家のすぐ前方にあった寺下茂治の家に向かった。娘がその家に逃げこむのを目撃していたからである。大一の娘をかくまったその家は、銃声の音を聞きつけて、すでに入口の施錠をかけて息をひそめていた。男はそこを襲ったのである。この家では、結局、家の外から放たれた銃弾のために茂治の父親が射殺されている。 
 男はこんどは道を戻って、先ほど襲った寺下大一の家の南にある寺下トヨノの家を襲った。トヨノは寡婦であったが、この女も男にとっては因縁の濃い関係があったひとりだった。男はそこでトヨノとその長男を殺している。
 灯りという灯りが消えた各家は、深い木立に包まれているだけに、いっそう闇深く、不気味に静まりかえっていた。男は用意周到にも、数時間前に村の電線を切断していたのである。 
 男は自分の住まいの方向に転じて、寺下万吉の家を目指していた。この家には、二人の娘が養蚕仕事の手伝いにやって来ていた。ふたりの娘は男とは以前から知り合いであったが、最近少し疎遠になっていた。それを、男は二人が冷たくなったと思いこんだのである。
男が万吉の家に踏み入った時、ふたりの娘は養蚕室でぐっすり寝ていた。その二人をたてつづけに射殺したのである。ついでに万吉の息子の嫁を撃っている。
この時すでに男は二十二人を殺害していた。あらためて銃に弾をこめて、万吉のすぐ裏の家、南波丑一の家に姿を現した。じつは、丑一の母と男とは以前関係があった間柄であった。そして、その娘は今少し前、万吉の家で殺されていた。男は養蚕室で仕事をしていた丑一の母に重傷を負わせている(のちに死亡)。さらに、男は村の北のはずれにある池山一男の家に急いだ。急いだわけは、すでに、村人の誰かが駐在所に走ったと察知したからである。
池山の家は、寺下スミ子という三五歳の女の実家であった。スミ子は最初に殺された北山タマヨとともに、男に最も憎まれていた女であった。スミ子も男と情交があったとされる女である。スミ子はすでに嫁いで、村を離れていたにもかかわらず、憎悪はその女の実家にも及んだのである。
池山の家で犠牲になった者は、一男の妻とその子供、それに一男の両親の四人であった。一男はあやういところを逃れて駐在所に走った。男は犯行をかさねるごとにその憎悪をたぎらせていった。そして、その憎悪の対象を拡大していく
男がつぎに向かったのは、寺下某という資産家の家だった。寺下は金にまかせて近隣の女たちと関係をもっていた人物のように言われていた。男はそういう寺下を憎んだ。それは決して義侠心からではなく、いわば、妬みからのものだった。
 この家ではその女房が犠牲(十二時間後に死亡)になった。寺下は二階に逃げ、窓から大声で助けを求めた。彼の家は高台にあったために、恐怖におののいた叫び声が村々にこだましたという。  
 男は思い出したかのように、こんどは、そこから二キロも離れている隣村の西端にある岡本カメヨの家を襲った。カメヨは前に男と関係があったが、今は男を遠ざけていた。それが狙われた理由だった。カメヨの家では彼女とその夫が災難に遭っている。
男の殺戮行動は、ここでようやく終息した。午前三時少し前であった。それにしても息づまるような犯行内容である。燃えたぎった憎悪が、とどまることをせずに拡散した感がある。
すべての犯行を終えた男は、犯行現場になった集落の下にあたる、隣村の楢井集落のとある家に現れ、そこで紙と鉛筆を所望してから立ち去って行った。それは、明らかに遺書をしたためる行為のように思われた。
 凶行ののち、男は、その家から南方に行ったところにある荒坂峠をめざした。
 その峠は、かつて、農民一揆の結集地としてしばしば利用された場所であった。江戸時代、津山藩の治世下にあったこの地方には、農民一揆が絶えなかった。そのため、この一帯は強訴谷とも呼ばれていたのである。
 検事報告書は描写している。「深々とした夜の静寂、冷然たる夜気、ひたひたと這い寄る木の精の呼吸、点滅する星屑、その中を全身返り血を浴びて悪鬼の如く、自らの冥路へ急いだ犯人の全霊を把えたものは何であろうか」と。
 男は峠をこえた仙の城山と呼ばれる山の頂きにたどりついた。そこからは男が卒業した小学校の校舎が見える。男が過ごしてきた貝尾の集落も一望である。   
 男の表情は、その時すでに穏やかだった。今の今までおこなってきた、みずからの行為がまるで嘘のように思えた。静かな気持ちで、来し方をふりかえり、遺書をしたためることができるような気がしていた。
 一方、急を知らされた西加茂村駐在所では、ただちに津山警察署と隣村の駐在所に応援を求め、あわせて消防団の手配をした。その結果、一市十一カ村から千五百七十数名におよぶ捜査陣が集まり、警戒網が敷かれた。
捜査をしているさなか、犯人が紙と鉛筆を所望した家から少し行った路上で、一通の遺書が発見された。さらに、周辺に残された足跡をたどって行くと、仙の城山の広い草原がひろがる山頂に出た    
 捜索隊はそこで、シャツ姿のひとりの男が、血の海のなかで仰向けになって死んでいるのを見つけた。男は足の指で銃の引き金を引いて、みずからの心臓を撃ち抜いていたのである。午前十時半頃のことであった。
   * * *
 この異常な犯行の真の動機はいったい何であったのだろうか。
 たったひとりの身内であった姉に宛てた遺書の中で、男は犯行の動機について「自分も強く正しく生きて行かねばならぬとは考えていましたけれども、不治と思われる結核を病み、大きな恥辱を受けて、加うるに近隣の冷酷圧迫に泣き、ついに生きて行く希望を失ってしまいました。・・・僕もよほど一人で何事もせずに死のうかと考えましたけれど、取るに取れぬ恨みもあり、周囲の者のあまりのしうちに、ついに殺害を決意しました」と述べている。男にはそのころ縁談話がもちあがってもいた。
 ここに書かれている「取るに取れぬ恨み」とか「周囲の者のあまりのしうち」の実態は、実は、集落内の限られた女たちとのかかわりのなかで生じた事柄を言ったもののように思える。
 遺書の中で具体名をあげられた女もいた。犯行の向けられた対象が、そうした女性たちであり、その女性たちとかかわりがあると思われた者たちが襲われたのである
せまい村落共同体における人間関係がきわめて閉鎖的であるのは、この村に限ったことではない。閉鎖的であるがゆえに起こるさまざまな問題が、ある場合には陰惨に現れることすらある。 
 共同体が異質分子を、いわば、村八分的に扱うことで排除するということが、しばしば日常的に行われていた時代である。
 当時の西加茂村は、農村地帯とはいえ、山峽にわずかに切り開いた、地味の悪い耕地で農業と養蚕を主な生業にしていた。ために、村民の生活は決して豊かなものではなかった。加えて、孤立した地理的環境は、村落に昔ながらの因習をはびこらせることにる。たとえば、この事件に影を投げかけている性の放縦という問題も、そのひとつである。
犯人都井睦雄も、そうした村の因習に、若者なりのかかわりをしていたのである。ところが、それが、やがて近隣との関係に破綻をきたすことになり、ついには、殺人行為へと飛躍していった。 同じような因習的行為をしていた者がほかにいなかったわけではなかった。にもかかわらず、ひとり都井睦雄の場合に限って、このような事件にまで発展してしまった理由は、いったい、どこにあったのだろうか。
彼が結核という病をかかえていたのが最大の理由だったかも知れない。結核は伝染するために、その恐怖心から偏見にちかい反応が村人の間に生まれたことは否定できない。 そうした村人の態度が、猜疑心の強い彼の性向をいっそう被害妄想にかりたて、関係者への憎悪が研ぎすまされ、犯行に跳梁したといえないだろうか。 
 当時、この事件を担当した検事の報告書も「かくの如くに彼は自己の肺患をその実相以上に重患と妄想し、人生の希望のすべてを失って自暴自棄に陥った一面、肺患の独居は彼の情欲を不自然に昂進せしめて、無闇やたらに近隣の婦女子に手を出しはじめた。しかし、その情欲は到底容れられるべくもなくしてほとんど全部相手方の拒絶に遭い、徒らに村民の軽蔑と嘲笑を買うのみであったが、それは本来極端に我の強い彼にとっては堪えられない苦痛であった」と述べている。 
 ここでは男が自己顕示欲の強い性格であったこと、また、病気が性欲を昂進させた(男は二年前の同じ月に起きた阿部定事件に異常な関心を示していたという)ことにも触れて、犯行の理由にあてている。いずれにしても、娯楽のひとつもない閉鎖的な村の生活のなかでおこなわれていた夜ばい的風習が、この事件によって、あらためてあぶり出されたのである。
   * * *
 言われるように共同体は、制度以前にすでにあった地縁組織であり、いわば生産を共同で行うためのシステムである。その目的は相互扶助であり、それゆえに、「その内部で個人の析出を許さず、決断主体の明確化や利害の露な対立を回避する情緒的=結合態である」(丸山真男)ことを特徴とする。
 問題が起こっても、それを表に現さない。まるくおさめる。たとえ、それが近代的なものの見方からみて、淫靡な旧習であっても、共同体のお互いが認め合うことによって容認されてゆく。
 こうした村落共同体における人間関係は、それが情緒的であるがゆえに、非合理な様相を呈する場合があるものである。そうした場での人間関係をうまく乗り切るためには、みずからを相手に預ける態度がもっとも有効だとされる。 
 そこでは人のかかわり方が無限に近くなり、密着したものになる。粘ついた関係がつくられる。その前提には、互いに気心の知れた、信頼関係がつくられていなければならない。そこにあるのは身内意識である。  
 ところが、この無限に近しいかかわり方も、ひとたび、それが崩れると、無限の遠さに変容する。それは素っ気なさであり、知って知らぬ顔、触らぬ神にたたりなし、という態度となって現れる。都井睦雄が近隣の村人から投げかけられたまなざしは、まさにそれであった。  
 相手と一体であろうとする、こうした共同体的かかわり方は、結局、甘えの構図をかたちづくることになる。都井睦雄の心理に見え隠れする甘えは、祖母に、姉に、さらに憎悪の対象であった女たちにまで拡散している。 甘えは、自分が甘えるその相手を独占しようとする態度に出る。それが拒まれると、逆に強い嫉妬心がわきおこり、彼はその障害物を取り除こうとする。都井睦雄にとって、かかわりをもった女の夫や親までが邪魔者と映ったのである。
 一方、甘える当人にとっても、相手が意のままにならないがために、その心はいたく傷つくことになる。やがて、それはある限度を超えることによって被害妄想に近い状態になる。日頃から近隣の者たちから疎まれていればなおさらである。
 さらに、都井睦雄の生来の執着気質が、いっそう、それに拍車をかけたといえる。都井睦雄の狂気は、言ってみれば、彼の生まれ育った土地の風土性と何らかの形でつらなっていたのかも知れないのである。