かなり端折るけど、私の備忘録として、母の最後のときを記します。
一昨年、救急車で運ばれて入院(3回!)して、ナンダカンダで、
認知症になっていることが分かってから
デイサービス利用の生活が始まりました。
昨年一年間は、週3→週4のデイサービスに通う日々。
今年の1月15日、病院へ行ったらそのまま入院。
脳の中にでっかい腫瘍がありました。
頭蓋骨を切って、開けて、部位を採取して調べたら
膠芽腫(こうがしゅ)という脳腫瘍末期でした。
余命半年ないかも
それはすぐ・・・かもしれない
夏は迎えられないかも
と、お笑いの空気階段の細い方みたいな
患者も付き添いの人間の顔を全く見ず、パソコンの画面しか見ない医者に言われました。
一ヶ月程の入院。
入院するその日の朝まで、話すことは出来ていたのに、
入院した途端にほとんど話をすることが出来なくなり、
こっちの言うことは分かるので、
海外ドラマで見たイエスかノーを瞬きで答えさせるということをしてました。
まだその頃は、支えがあれば起き上がれて
左手は全く動かせなかったけど、
動く右手を使って、1人でスプーンを口に運ぶことが出来ました。
認知症に高齢ということもあり、延命治療はしないと決めました。
そのままずっと最期のときまで入院生活も可能だったけど、
最後に家で生活することを(私が)選び、
2月18日に退院して、それからは自宅にヘルパーさんや訪問看護の方に毎日来て頂き、
週2でデイサービスにも通いつつ(車椅子で)
がっつりサポートしてもらい、猫たちと家で過ごすことが出来ました。
徐々に食べられる量も減っていき、
もう自力で食べることは出来なくなってしまったので、
私の介助で、ニョロニョロべにょべにょご飯を食べてました。
後半は、もう猫たちを撫でることも出来なくなってました。
***
話が逸れてしまうけど、昨年11月くらいから弱ってきてたしろさん。
しろさんには、なにも治療しなかった。
しろさんもそれでいいと思ってくれてたと思う。思いたい。
痩せてきたのでお洋服着せてた。
徐々に弱まってきてたしろさん。
様子がおかしいから早目に病院へ行ったほうがいいですよと言われて、
母がデイケアから帰って来た1月14日。
私、明日から忙しくなるんだろうなーって思いながらあちこちに電話してた夕方。
しろさん逝っちゃった。
あっという間に逝ってしまった。
しろさんのその日は近いと覚悟はしていたけど・・・。
静かな最期だった。
私の勝手な考えだけど、私に手間を掛けさせないように
気を遣って逝ってくれたんだと思う。
そんなしろさんには、感謝しかない。
***
5月2日朝
熱もありいつもとは様子が違うとヘルパーさんと話し、
訪問看護の方に来て頂いたら
ちょっと危険かも。もう入院しましょう!と。
退院するときに、
そうなったときの流れは全て決まっていたのですが、奇しくもコロナ禍。
救急車を呼ぶにも先に保健所に連絡をしなければならず、
一分一秒を・・・ってときなのに、待ち・・・待ち・・・待ち・・・で、気をもみました。
緩和病棟へ入院。
病院は家から車で5分程へ行けるところなんです。
なので、朝と夕方前(猫たちのごはんタイムがあるからね。)の一日二回、病室へ通いました。
職場へは何も話さず、コロナから年寄りを守る為に休ませてと言ってあって、
ほとんど出勤していなかったので、大変ではありませんでした。
担当医は変わっていました。
ちゃんと私の目を見て、しっかり話してくれるまともな先生で安心しました。
5月、6月、7月と、
容態の上がり下がりはありましたが、なんとか乗り切りました。
延命治療はしないので、ほぼ点滴のみ。
よくがんばりました。
夏は迎えられないかもと言われていたのに、夏を迎えられたね~と。
8月に入ってから悪いながらも安定していたように見えたけど、
数字的には徐々に悪いほうへ。
コロナ禍で、面会は禁止になっていたのだけど、緩和だけは許され、
お泊りも自由でした。
申請なしで、好きなときに行ってよかったのです。
8月に入ってからも
今日はちょっと怪しいかも・・・なときに、何度かお泊りしました。
8月8日、午前中に行ったときはいつもの感じだったけど、
午後に行くと、またしても血圧が測れないと。
夜、また泊まりに来ますと7時頃行くと、息づかいが荒くなってました。
いつものように、手を握ったり、体をさすったり、
隣りで寝ながら起きるとさする・・・を繰り返した夜でした。
でも母親は、一晩中、目は見開いたままでした。
それでも少し落ち着いていたので、
猫たちのごはんの朝活の為、5時半頃家へ。
諸々終わって汗だくなので、シャワーを浴びようとしているところへ
7:20病院からTEL。
そのとき雨が降り始めました。
病室へ着いたときには、朝、あんなにぱっかり開いてた目は閉じ掛かっていて、
息もしてるかしてないかな状態になってました。
7:33静かに逝きました。
ありがとうをいっぱい言いました。
窓の外を見たら
最近よく虹を見ていたのだけど、
こんなに大きな虹。
あーもう母は虹に乗ってるんだな~と。
そこからはみなさんご存じのバタバタでして・・・。
nana*bataひとりでがんばりましたー!
身内は誰も助けてくれませんでしたー!
お通夜を終えた夜、誰も母の話はせず、楽しそうでした。
そもそもで母の顔も見てくれてなかったけどね。ぼそっ。
母には可哀想な最期の夜でした。
翌朝。
告別式の朝。
またいつものように朝活の為、一度、帰宅。
朝ごはん隊のところへ向かうのに玄関を出ると
母は虹に乗り、私を見守ってくれているんだなーと勝手に確信。笑
我が家の屋根の上にダブルレインボー。
左側もダブルレインボー。
両側ダブルレインボー、初めて見ました。
朝活を終え、葬儀場に戻り、告別式。
棺の中には、手紙、私や母とじーちゃんのツーショットなどの写真を数枚。
熊本の病院に入院していたときに、いとこに買ってもらったくまモンのぬいぐるみ。
いつも握っていたハンカチ。
昔、シリーズ揃えて読んでいた平岩弓枝の本。
病院でもずっと使っていた
マブちゃんに、うちの猫にってもらってたヒツジさんのクッション。
母親の旦那さんの遺影。
そして母が大好きだったバタ。
って、もちろんバタは一緒には入れられないので、最後までどうしようと悩んだけど、
やはり母をひとりで行かせるのは可哀想なので、
大好きな大切なあみバーくんをお供に添えました。
前日、あみバーくんを持って行こうのタイミングで、
寝ていたバタくんに乗せて、最後の記念撮影。
Pさん せっかく作って頂いたのに、ごめんなさい。もしかして77号だったっけ?違ったか?
あみバーくんの手を母の顔に添えました。
1月に入院したとき、最初の頃はバタの名前は言えて、バタのことを気にしてました。
動画をいつも見せてました。
しろさんのことも始めの数日は聞いてきたけど、寝てるとだけ答えてたら
もう聞かなくなりました。
しろさんのことを忘れてしまったのか、なんとなく分かったのか・・・。
どうだったのかな。
ドライアイスでキンキンに冷えてる母の
毎日撫でていたおでこを何度も何度も撫で、最後にキスをしました。
生きてるときは、一度もしなかったのにー。笑
前日、母の小学生からの友達が持ってきてくれた、母の大好きだったタバコとビール。
最後にビールをハンカチにつけて飲ませてあげました。
火葬場へ。
お経が終わって、病室でいつも聴かせてた石原裕次郎の曲の中から
“我が人生に悔いなし”をスマホから流しました。
棺が奥に入って、ボタンを押してくださいのタイミングで曲が終わりました。
えいっ!と言いながら押しました。
あっけないものですね。
前の日の朝には生きてた母が、翌日のお昼には、もうお骨になっちゃってるんだもんね~
でも全て母の取り計らいだと思います。
記憶力のない私に、忘れないように長崎原爆の日を選び、
それも日曜と翌日は山の日の祝日。
叔母たち家族に仕事を休ませないようにして、
めんどくさガーリーの私だから
さっさっととっとと済ませられるように。
10日の1時半には、もう家に帰って来てました。
日常がほぼ戻ってます。
前回、年初のご挨拶をしたのが5月1日。
その翌日から入院になったので、タイミング的にバッチリだったな。(ありがとー!←誰に?笑)
猫たちがいてくれてよかった。
本当によかった。
これからは猫たちの為に生きますっ!
写真を見返してたら8日も虹を見ていた。
もう虹に登りかかってたのかなー。
なんてな。
【きょうのぽつり】
今日は終戦記念日。
空を見上げて手を合わせよう。
渡さんも逝っちゃったね。。。
一昨年、救急車で運ばれて入院(3回!)して、ナンダカンダで、
認知症になっていることが分かってから
デイサービス利用の生活が始まりました。
昨年一年間は、週3→週4のデイサービスに通う日々。
今年の1月15日、病院へ行ったらそのまま入院。
脳の中にでっかい腫瘍がありました。
頭蓋骨を切って、開けて、部位を採取して調べたら
膠芽腫(こうがしゅ)という脳腫瘍末期でした。
余命半年ないかも
それはすぐ・・・かもしれない
夏は迎えられないかも
と、お笑いの空気階段の細い方みたいな
患者も付き添いの人間の顔を全く見ず、パソコンの画面しか見ない医者に言われました。
一ヶ月程の入院。
入院するその日の朝まで、話すことは出来ていたのに、
入院した途端にほとんど話をすることが出来なくなり、
こっちの言うことは分かるので、
海外ドラマで見たイエスかノーを瞬きで答えさせるということをしてました。
まだその頃は、支えがあれば起き上がれて
左手は全く動かせなかったけど、
動く右手を使って、1人でスプーンを口に運ぶことが出来ました。
認知症に高齢ということもあり、延命治療はしないと決めました。
そのままずっと最期のときまで入院生活も可能だったけど、
最後に家で生活することを(私が)選び、
2月18日に退院して、それからは自宅にヘルパーさんや訪問看護の方に毎日来て頂き、
週2でデイサービスにも通いつつ(車椅子で)
がっつりサポートしてもらい、猫たちと家で過ごすことが出来ました。
徐々に食べられる量も減っていき、
もう自力で食べることは出来なくなってしまったので、
私の介助で、ニョロニョロべにょべにょご飯を食べてました。
後半は、もう猫たちを撫でることも出来なくなってました。
***
話が逸れてしまうけど、昨年11月くらいから弱ってきてたしろさん。
しろさんには、なにも治療しなかった。
しろさんもそれでいいと思ってくれてたと思う。思いたい。
痩せてきたのでお洋服着せてた。
徐々に弱まってきてたしろさん。
様子がおかしいから早目に病院へ行ったほうがいいですよと言われて、
母がデイケアから帰って来た1月14日。
私、明日から忙しくなるんだろうなーって思いながらあちこちに電話してた夕方。
しろさん逝っちゃった。
あっという間に逝ってしまった。
しろさんのその日は近いと覚悟はしていたけど・・・。
静かな最期だった。
私の勝手な考えだけど、私に手間を掛けさせないように
気を遣って逝ってくれたんだと思う。
そんなしろさんには、感謝しかない。
***
5月2日朝
熱もありいつもとは様子が違うとヘルパーさんと話し、
訪問看護の方に来て頂いたら
ちょっと危険かも。もう入院しましょう!と。
退院するときに、
そうなったときの流れは全て決まっていたのですが、奇しくもコロナ禍。
救急車を呼ぶにも先に保健所に連絡をしなければならず、
一分一秒を・・・ってときなのに、待ち・・・待ち・・・待ち・・・で、気をもみました。
緩和病棟へ入院。
病院は家から車で5分程へ行けるところなんです。
なので、朝と夕方前(猫たちのごはんタイムがあるからね。)の一日二回、病室へ通いました。
職場へは何も話さず、コロナから年寄りを守る為に休ませてと言ってあって、
ほとんど出勤していなかったので、大変ではありませんでした。
担当医は変わっていました。
ちゃんと私の目を見て、しっかり話してくれるまともな先生で安心しました。
5月、6月、7月と、
容態の上がり下がりはありましたが、なんとか乗り切りました。
延命治療はしないので、ほぼ点滴のみ。
よくがんばりました。
夏は迎えられないかもと言われていたのに、夏を迎えられたね~と。
8月に入ってから悪いながらも安定していたように見えたけど、
数字的には徐々に悪いほうへ。
コロナ禍で、面会は禁止になっていたのだけど、緩和だけは許され、
お泊りも自由でした。
申請なしで、好きなときに行ってよかったのです。
8月に入ってからも
今日はちょっと怪しいかも・・・なときに、何度かお泊りしました。
8月8日、午前中に行ったときはいつもの感じだったけど、
午後に行くと、またしても血圧が測れないと。
夜、また泊まりに来ますと7時頃行くと、息づかいが荒くなってました。
いつものように、手を握ったり、体をさすったり、
隣りで寝ながら起きるとさする・・・を繰り返した夜でした。
でも母親は、一晩中、目は見開いたままでした。
それでも少し落ち着いていたので、
猫たちのごはんの朝活の為、5時半頃家へ。
諸々終わって汗だくなので、シャワーを浴びようとしているところへ
7:20病院からTEL。
そのとき雨が降り始めました。
病室へ着いたときには、朝、あんなにぱっかり開いてた目は閉じ掛かっていて、
息もしてるかしてないかな状態になってました。
7:33静かに逝きました。
ありがとうをいっぱい言いました。
窓の外を見たら
最近よく虹を見ていたのだけど、
こんなに大きな虹。
あーもう母は虹に乗ってるんだな~と。
そこからはみなさんご存じのバタバタでして・・・。
nana*bataひとりでがんばりましたー!
身内は誰も助けてくれませんでしたー!
お通夜を終えた夜、誰も母の話はせず、楽しそうでした。
そもそもで母の顔も見てくれてなかったけどね。ぼそっ。
母には可哀想な最期の夜でした。
翌朝。
告別式の朝。
またいつものように朝活の為、一度、帰宅。
朝ごはん隊のところへ向かうのに玄関を出ると
母は虹に乗り、私を見守ってくれているんだなーと勝手に確信。笑
我が家の屋根の上にダブルレインボー。
左側もダブルレインボー。
両側ダブルレインボー、初めて見ました。
朝活を終え、葬儀場に戻り、告別式。
棺の中には、手紙、私や母とじーちゃんのツーショットなどの写真を数枚。
熊本の病院に入院していたときに、いとこに買ってもらったくまモンのぬいぐるみ。
いつも握っていたハンカチ。
昔、シリーズ揃えて読んでいた平岩弓枝の本。
病院でもずっと使っていた
マブちゃんに、うちの猫にってもらってたヒツジさんのクッション。
母親の旦那さんの遺影。
そして母が大好きだったバタ。
って、もちろんバタは一緒には入れられないので、最後までどうしようと悩んだけど、
やはり母をひとりで行かせるのは可哀想なので、
大好きな大切なあみバーくんをお供に添えました。
前日、あみバーくんを持って行こうのタイミングで、
寝ていたバタくんに乗せて、最後の記念撮影。
Pさん せっかく作って頂いたのに、ごめんなさい。もしかして77号だったっけ?違ったか?
あみバーくんの手を母の顔に添えました。
1月に入院したとき、最初の頃はバタの名前は言えて、バタのことを気にしてました。
動画をいつも見せてました。
しろさんのことも始めの数日は聞いてきたけど、寝てるとだけ答えてたら
もう聞かなくなりました。
しろさんのことを忘れてしまったのか、なんとなく分かったのか・・・。
どうだったのかな。
ドライアイスでキンキンに冷えてる母の
毎日撫でていたおでこを何度も何度も撫で、最後にキスをしました。
生きてるときは、一度もしなかったのにー。笑
前日、母の小学生からの友達が持ってきてくれた、母の大好きだったタバコとビール。
最後にビールをハンカチにつけて飲ませてあげました。
火葬場へ。
お経が終わって、病室でいつも聴かせてた石原裕次郎の曲の中から
“我が人生に悔いなし”をスマホから流しました。
棺が奥に入って、ボタンを押してくださいのタイミングで曲が終わりました。
えいっ!と言いながら押しました。
あっけないものですね。
前の日の朝には生きてた母が、翌日のお昼には、もうお骨になっちゃってるんだもんね~
でも全て母の取り計らいだと思います。
記憶力のない私に、忘れないように長崎原爆の日を選び、
それも日曜と翌日は山の日の祝日。
叔母たち家族に仕事を休ませないようにして、
めんどくさガーリーの私だから
さっさっととっとと済ませられるように。
10日の1時半には、もう家に帰って来てました。
日常がほぼ戻ってます。
前回、年初のご挨拶をしたのが5月1日。
その翌日から入院になったので、タイミング的にバッチリだったな。(ありがとー!←誰に?笑)
猫たちがいてくれてよかった。
本当によかった。
これからは猫たちの為に生きますっ!
写真を見返してたら8日も虹を見ていた。
もう虹に登りかかってたのかなー。
なんてな。
【きょうのぽつり】
今日は終戦記念日。
空を見上げて手を合わせよう。
渡さんも逝っちゃったね。。。