先日、お通夜に参列してまいりました。
あまりに若くして、突然の事故でお亡くなりになった故人を想うと
近しく親しく言葉を交わしたわけではないわたくしでも
悲しみと悔しさがこみ上げてきて、涙が止まりませんでした。
最愛の伴侶を失った絶望。
我が子の葬儀を上げなければならない悲しみ。
困難な状況を、ともに乗り越え、深い絆で結ばれた友人の喪失感。
傍で過ごした多くの方々の、様々な想いが
一つの大きな塊となって、祭壇を照らしていたようでした。
ひとつだけ救われたこと。
キリスト教式の葬儀に参列して想う事は
人の”死”のなかに『救い』があるのだという考え方に、
残された人はすがる事が出来る。
儚くなることを『帰天』と表現するのですが
また、神の元に帰り、今度は神の愛に包まれて過ごせるのだという
ある意味、喜ばしい変化という考え方。
今は、実態として、触れたり語り合ったりすること出来ないけれど
また、自分が帰天したときには再会できるのだ、という未来の展望。
先日のお通夜でも、
悲しみの中にも故人のエピソードを偲んで笑みがこぼれるシーンが
何度となくありました。
どこかに、救いを感じることが出来るからこその笑み。
そして、笑顔の後には、やはり”そんなあなたが何故ですか”という想いにとらわれます。
日揮の事件の際にも感じたのですが、
死の意味に、救いは求めても
死ぬことに価値ある意味を見つけることは難しいです。
不慮の事故、主義主張のためのテロ、無差別殺人、勇気ある冒険の末の死、戦争。
「生きていること」
「無事に帰ること」
「明日も共に過ごせること」
愛する人にも
親しい人にも
嫌いな人にも
見ず知らずの人にも
そんな、当たり前の日常が、当たり前に続いていきますように。
人生は、夢みたいなものかも知れません。
しかし・・・、漢字の表現力ってすごいですね