城犬のおいど

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甲斐国谷戸城(山梨県)

2024-06-18 16:23:02 | 城館
谷戸城 [ヤトジョウ]
別名逸見城・茶臼山城
城郭構造円郭式山城
築城者逸見氏
築城年平安時代年
廃城年不明年
指定史跡国の史跡
場所山梨県北杜市 地図
スタンプ設置場所なし
御城印販売場所なし

概要
史跡谷戸城は、平安時代末期に逸見清光(1110~1168)が
築城したと伝えられている。
逸見の地を本拠とした清光は多くの男子に恵まれ、その子らが
甲斐国内で勢力を扶植したことから、次の代では甲斐国の広い範囲を
甲斐源氏が支配することとなった。
なかでも武田信義は平家討伐に功を上げ、後に戦国大名となる
武田家の基礎を築いた。
城は、流れ山とよばれる小山を利用して築かれており、
北に巡らせた横堀と西側を流れる西衣川で区画している。
城内は山頂部の一の郭を中心に、二の郭から五の郭までを同心円状に配し、
西側の山裾には館が置かれていたと想定される六の郭が広がる。
各郭の出入口は喰い違い虎口が多用され、空堀は等高線に沿うように掘る
横堀が発達している。
発掘調査による出土品は14~15世紀のものが中心を占め、
現代に伝わらなかった歴史をもつ城跡であることがわかってきている。
※現地案内板より

城跡碑


北杜市考古資料館




横堀

谷戸城の北側を区画する空堀で、南へ緩く傾斜する尾根と山を分断して、
城のある流れ山を独立した地形にしている。
堀を渡るため一部を高く掘り残した部分がみつかったことから、
城への出入口の位置が確定した。
途中から南へ分岐させており、六の郭の一部を囲んで独立した
平場とすることで、城の出入り口の防御を強化していたと考えられる。
当初は断面がV字形の薬研堀として掘られたが、
分岐したほうだけ断面が逆台形の箱堀に直されていた。
※現地案内板より



四の郭


帯郭



二の郭

三の郭とつながる土塁と空堀によって囲まれる。
空堀は南から北に底幅が広くなり、薬研堀から箱堀へと形が変化していく。
堀は途中で埋められており、廃城時に土塁を崩して埋めたものと考えられる。
郭内はほぼ中央を境に北側が平坦、南側がやや傾斜しており、
北側は土を敷き均した造成が顕著であった。


また、北側からは細長い形の建物跡が3棟と1間×1間の
正方形の建物跡が確認された。
礎石はなく、柱穴の中心の距離は南北140cm、東西170cmと
共通していることから、近い時期に建てられたものと考えられる。
※現地案内板より


一の郭虎口

谷戸城では、虎口のほとんどに「喰い違い虎口」の形状が用いられているが、
一の郭の虎口に面する土塁には喰い違いがない。
両側を高い土塁に挟まれた構造から、土塁に接して柱を立てた門を
設置していたと想定される。
しかし、発掘調査では礎石のような石は出土したものの、
確実な門の痕跡は発見されなかった。
虎口の前と土塁の下からは、土塁を築く前に掘られた、
浅い堀のような遺構が見つかっている。
谷戸城が改修を受けたことを示す重要な発見である。
※現地案内板より

一の郭

一の郭は谷戸城の中心となる郭で、最も高い位置にある。
周囲は高さの違う土塁に囲まれ、土塁を切る形で虎口が東と北西に
1ヶ所ずつ設けられている。
北西側は喰い違い虎口で、低い土塁を若干ずらすことで
直線的な通行を妨げている。


郭の北側に集中して、直径20cmほどの小さい穴が
30基近く発見されたが、建物跡を復元できる配列にはならなかった。
柵のようなものが設置されていたと考えられる。
※現地案内板より

三の郭

二の郭とともに一の郭を囲む郭で、外縁に土塁と外堀が巡る。
土塁の内側に空堀が掘られているのが大きな特徴である。
郭といえる平坦部は狭く、一の郭西側の帯郭といった性格が強い。
この郭の土塁が低いのは、西帯郭一との高低差が大きいためと考えられる。
一の郭と三の郭の間の斜面には階段状の造成がなされており、
一の郭西側の虎口を厳重に守っている。
ここからは一の郭から投げ捨てられたと考えられる
土器類が多く出土した。 ※現地案内看板より

二の郭・三の郭の南虎口

虎口の形は喰い違い虎口で、直線的に通れないため、
敵兵の攻めかかる勢いを削ぎ、郭の中を見せない構造となっている。

南帯郭



令和6年3月訪問





 
 
 

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