城犬のおいど

城巡りと、各地で出会った食事を個人的な感想を添えてお城巡りを紹介しています。

越後国春日山城(新潟県)

2024-06-12 15:43:11 | 城館
越後国春日山城 [カスガヤマジョウ]
別称蜂ヶ峰城
城郭構造連郭式山城
築城年南北朝時代年
廃城年1607年
指定史跡国指定
住所上越市中屋敷字春日山 [MAP]
スタンプ設置場所春日山城跡ものがたり館
城印販売場所上越市埋蔵文化財センター受付

概要
上杉謙信公の居城として知られる春日山城は、
今から約600年程前の南北朝時代に築かれ、
越後府中を守る拠点であった。
その後、謙信公の父為景公・謙信公・景勝公の3代にわたり普請に努め、
現在見られるような大城郭になったと考えられている。
春日山城の特徴は山頂の本丸跡から山裾まで連続する屋敷跡群と、
裾野に巡らされた総延長1200mの総構え(通称監物堀)である。
関東管領として、関東・北陸に覇を唱えた戦国大名の居城にふさわしい
大城郭といえる。 
※現地案内板より




大手道


謙信公銅像

昭和44年に滝川美一によって制作された謙信公の銅像。
この辺りは馬場になる。




千貫門


竪堀址
千貫門の内側に連続する二本の堀が造られており、
門の位置からは道のように見える。
空堀は通常尾根を分断するように造られるが、
ここでは堀の形に見せながらも、門から侵入した敵を
沢に落とすように巧妙に仕組まれた道のように思われる。
※現地案内板より

直江山城守宅址
上杉家の重臣直江家の屋敷跡と伝えられ、お花畑から千貫門までの間に
上下三段の郭が造られている。
現在は遊歩道があって使われなくなっているが、郭と郭をつなぐ
古道も残っている。
直江家は上杉謙信公の父為景の代から重臣として仕え、
山城守兼続は謙信公の跡目を継いだ景勝の家老として活躍したことが
よく知られている。
景勝が会津へ国替えになった時に同行し、米沢藩三十万石の城主に
なったことでもその活躍が偲ばれる。
※現地案内板より



御花畑址

毘沙門堂
この御堂には謙信公の信仰された毘沙門天の尊像(青銅製、約五〇センチメートル)が安置されている。
尊像は景勝公のとき会津を経て米沢に移ったが、嘉永二年(一八四九年)の火災で被害を受けた。
昭和三年(一九二八年)に東京美術学校に修理を依頼し、名匠高村光雲氏が修理した。
そのさい、ご分身が作られ、尊像の欠け損じたのをその体内に収め同五年三月に完成し、その後当市(当時春日村)に寄進され、ました。この祠堂に奉安した。
毘沙門天は悪魔を降す神であり、謙信公は自らの軍を降魔の軍とみなし、『毘』の旗を陣頭にかざし、また事あるときはこの堂前で諸将に誓を立てさせた。
毘沙門天は四天王のうち、北方を守る多聞天でもある。
この尊像は多聞天のお姿であり、城の北方を守る意気をもっていたものと思われる。
※現地案内板より



謙信公が出陣前に籠ったことはよく知られているが、
護摩を焚いて戦勝や息災を祈祷したのがこの護摩堂である。
護摩の修法は、毘沙門天の信仰とともに謙信公が真言密教を
深く信仰していたことを如実に物語っている。
※現地案内板より

諏訪堂と護摩堂



天守台
天守台と呼ばれる郭だが、天守があったという記録はない。

本丸
南隣の天守台とともに春日山城の「お天上」と呼ばれたところ。
標高一八〇メートルの本丸からは、かつての越後府中(直江津)と
周辺の山々の支城跡や日本海が一望できる。
関川右岸に広がる、林に囲まれた村落が点在する風景は、
慶長二年(一五九七年)の「越後国絵図」に描かれた中世の景色と
ほとんど変わらない。
※現地案内板より


眺望
越後府中を一望できる。
直江津の海まで望むことが出来る。

井戸丸址
廃城後四〇〇年の星霜を経て、今なお水をたたえる大井戸は、
春日山城が山城として最適の地に造られていることを教えてくれる。
城の古絵図にもここだけが井と、井戸があることを示しており、
古くから注目されていたことが分かる。
どのようにして、水が湧く地点を調べたか定かではないが、城跡の基盤は、
能生谷層と呼ばれる泥岩や砂岩から構成されており、春日山山頂周辺の
雨や雪が地下水として砂岩に浸透し、大井戸を潤していると考えられる。
※現地案内板より

油流
滑りやすい急斜面

鐘楼址

上杉景勝屋敷
「御館の乱」で勝利をおさめ、謙信公の跡目を相続した景勝公の屋敷と
伝えられている。
景勝公は謙信公の姉仙洞院の子で、直江山城守兼続という知将を得て、
豊臣秀吉の五大老の一人までになった。
景勝屋敷跡とその周辺の屋敷跡は、総じて大規模で、
尾根を巧みに利用して段を削出し、数段で一つの屋敷が形成されている。

春日山神社から谷愛宕にかけての屋敷跡群が雛壇状に並んで
造られているのとは対象的である。
景勝屋敷を中心とする屋敷跡群が地形に逆らわず定型化していないのは、
春日山城の古い段階での普請を示しているといえる。
※現地案内板より

御成街道

時の関白近衛前嗣が通ったことから御成街道と呼ばれている。
謙信は二度の上洛を通じて、前嗣と親交を暖めた。
お互いに年も近く、酒好きだったといわれている。
謙信が、後奈良天皇・正親町天皇と拝謁できたのも
前嗣の力添えによるものであった。
前嗣は、永禄三年(1560年)謙信を頼って越後府中(直江津)に下向し、
三年間滞在した。

当時、京都に次ぐ大都市といわれ、繁栄の極みにあった越後府中文化は、
前嗣の来訪によりさらに、洗練されていった。
※現地案内板より

柿崎和泉屋敷址

上杉謙信の重臣柿崎景家の屋敷跡と伝えられる
春日山城で最も大きな郭の一つ。
また、城内の山地で唯一ハンノキが自生する場所で、
植生から水分を多量に含む土地であり、ここに池もしくは
水堀があったことが考えられる。
池であったとすれば、春日山城で唯一庭園を合わせもった郭の景観が
想像される。

屋敷へは、大手道から木橋をかけた南側の空堀を渡って入るように
古絵図に描かれている。
また、郭の東側を通り景勝屋敷へ続く古道も残っている。
※現地案内板より

旧大手道

二の丸址

本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る実城と呼ばれる郭群の東裾を
取り巻くように造られた郭で、実城とともに春日山城の中心地区を
成している。
本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、
まさに本丸の警護として造作されたことを示すものと考えられている。
古絵図には、「御二階」「台所」と記されたものもあり、
現在も笹井戸といわれる井戸跡が残ってることも、当時の二の丸における
生活を知る手掛かりとなっている。
※現地案内板より

米蔵址
土塁が残っている。

三の丸

上杉三郎宅址

甘粕近江守宅址




蓮池堀
堀氏の時代に築かれた監物堀。
土塁と堀の総構えが設けられていた。

令和6年5月訪問


 
 


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