城犬のおいど

城巡りと、各地で出会った食事を個人的な感想を添えてお城巡りを紹介しています。

陸奥国 仙台城

2024-07-17 04:46:00 | 城館
陸奥国仙台城 [センダイジョウ]
別称青葉城・五城楼
城郭構造連郭式平山城
築城年1601年
廃城年1871年
指定史跡国指定
住所仙台市青葉区川内 [MAP]
スタンプ設置場所仙台城見聞館 9時~17時
御城印販売場所
青葉城本丸会館

概要
伊達政宗によって築かれた伊達氏の居城跡です。建設地の青葉山はかつて霊場であった場所で、そこに自然地形を活かし、高い石垣をもつ城郭を築きました。関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)12月に城の縄張が行われ、翌年1月から普請に着工。工事は慶長7年(1602年)には一応の完成をみたとされています。二の丸は2代藩主忠宗によって造営され、以降藩政の中心となりました。
※現地看板より

五色沼

明治中期、外国人たちがこの場所でスケートを始め、明治42年(1909)頃に第二高等学校生がドイツ語教師ウィルヘルからフィギュアスケートの指導を受けたという。後に彼等や後輩たちが全国各地で普及に努めたことから、五色沼は日本フィギュアスケート発祥の地と言われている。
※現地看板より

大手門跡
仙台城大手門は素木造・二階建、屋根は入母屋造・瓦葺である。桁行が65尺(約19.7m)、側面の梁間が22尺3寸(約6.8m)、高さは約12.5mと全国的にも最大級の城門であった。正面冠木に菊と桐の金箔押の飾金具をあしらい、棟に鯱を頂いていた。脇櫓とともに国宝に指定されていたが、昭和20年(1945)7月9日の仙台空襲により焼失した。

門の北東の石垣上には「多聞塀」と称される桟瓦葺、漆喰塗の土塀が配されている。この土塀は空襲で焼け残ったもので、仙台城内に現存する唯一の建築物である。
※現地看板より

大手門脇櫓

脇櫓は大手門の南側に配置され、一階がL字形となり、角の部分に二階をのせている。建物は壁や柱を白漆喰で塗り込める、総白壁造であった。屋根は入母屋造・瓦葺である。一階の東西方向の桁行が54尺1寸(約16.4m)南北方向39尺(約12m)、高さ約11.5mで、大手門に比べてやや規模が小さい感があり、建築年代なども不明である。昭和20年(1945)7月9日の仙台空襲により、大手門とともに焼失した。現在の建物は、昭和42年(1967)に木造モルタル漆喰仕上げで再建されたものである。
※現地看板より

中門跡

中門は、大手門から本丸に至る道の途中に設けられていた二階門で、寅門とも称された。江戸時代に作られた姿絵図には妻切造で、桁行は6間、梁間3間に描かれている。大正9年(1920)に老朽化のため解体された。解体の際に作成された平面図には、一階正面の桁行46尺4寸余(約14.1m)、側面の梁間が18尺(約5.5m)であったことがわかる。門をはさんで両側には石垣が築かれている。平成15年(2003)5月の地震で南側の石垣の一部が崩れ、解体修理工事が行われた際、多数の金箔瓦が出土している。
※現地看板より

本丸北壁石垣






本丸詰門

仙台城本丸は、東側が広瀬川に臨む断崖であり、西側を青葉山(御裏林)、南側を竜ノ口峡谷が囲むという天険の要害となっている。この北側には石垣が築かれ、登城口が設けられていた。詰門はこの入口に建てられた門で、正保の城絵図(「奥州仙台城絵図」(1645年))によると二階建・瓦葺で、棟の両端に鯱がのっていた。左右の石垣間の距離は約19.5m(65尺)で、大手門と同じ幅を持つ。門の左右(東西)には三重の脇櫓(東脇櫓・西脇櫓)が築かれていた。
※現地看板より

本丸


仙台城見聞館

仙台城本丸大広間模型

鳳凰図屏風






懸造跡
懸造は、仙台城本丸東辺の艮櫓と巽櫓の間に位置している。およそ、現在の土井晩翠歌碑の南東付近と推定される。崖に突き出した数寄屋風書院造りの建物で、「仙台城及び江戸上屋敷主要建物姿絵図」でその様子を知ることができる。構造は京都の清水寺本堂の舞台に類似している。初代藩主伊達政宗の頃より記録にある建物で、眺望を活かして賓客の接待などにも使われた。安永4年(1775年)の記録によれば、長さ9間半(約19m)、横3間(約6m)の規模であった。懸造は伊達氏の建物に特徴的で、戦国時代に伊達氏の居城があった米沢城の庭園にも「御かけつくり」と称する建物が存在したと伝えられている。
※現地看板より

眺望

土井晩翠歌碑



伊達政宗騎馬像
甲冑姿で馬に乗る伊達政宗の銅像が、仙台城本丸に建つ。宮城県出身の彫刻家、小室透(こむろとおる1899-1953)の作。当初は、政宗の三百回忌を記念して昭和10年(1935)に作られたが、第二次世界大戦の際に金属供出のために撤去された。戦後、保存されていた型を用いて昭和39年(1964)に復元されたのが、現在の銅像である。
※現地看板より

沢門跡

清水門跡

     
造酒屋敷跡
この地は、慶長13年(1608)に大和国(奈良県)から伊達政宗が招いた又右衛門(1562~1659)が酒蔵と屋敷を与えられ、酒造りを行った場所と伝えられる。江戸時代を通じて酒蔵が置かれていた。又右衛門は藩用の酒の醸造を行い、榧森(かやのもり)の苗字を与えられ、帯刀も許されていたという。酒造りには、この付近にある「清水門」の名前の由来となっている湧き水が用いられた。寛永5年(1628)に政宗が若林城(現在の宮城刑務所)に移ると、又右衛門もそれに従い、若林でも酒造を続けた。榧森家は、初代又右衛門から幕末・明治期の12代孝蔵にいたるまで、江戸時代を通じて仙台藩の御用酒屋をつとめ、ぶどう酒、みかん酒、びわ酒、みりん酒なども造ったと伝えられている。
※現地看板より

巽門跡

藩政時代初期の絵図には「蔵屋敷」と記されている三の丸(東丸)には二ヶ所に門があった。北側出入口が子門で、南東側が巽門である。巽門は大手門や脇櫓とともに仙台空襲(1945)の前まで残っていた数少ない建造物のひとつである。昭和59年(1984)に実施された発掘調査で建物の礎石14固や雨落溝などが検出され、翌年その成果をもとに門跡の復元整備が行われた。
※現地看板より




2018/9訪問


 
 

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