城犬のおいど

城巡りと、各地で出会った食事を個人的な感想を添えてお城巡りを紹介しています。

陸奥国 多賀城

2024-07-12 14:38:28 | 国府・柵
陸奥国多賀城 [タガジョウ]
別称多賀柵
城郭構造
築城年724年
廃城年不明
指定史跡特別史跡
住所多賀城市市川字城前 [MAP]
スタンプ設置場所
御城印販売場所

概要
今からおよそ1300年前、奈良時代前半に陸奥国の国府として創建された多賀城は、鎮守府としての役割も果たしていました。
多賀城は、周囲が塀(おもに築地土塀)をめぐらし、その痕跡は現在でも土手状の高まりとして残っています。
多賀城の平面形は、不正方形をなし、広さはほぼ方八町に相当します。
そのほぼ中央部に重要な政務や儀式が行われた政庁があります。
※現地看板より



外郭南門跡

総瓦葺の重層八脚門があったと推定されています。


多賀城碑

多賀城碑は、那須国造碑(栃木県大田原市)、多胡碑(群馬県高崎市)とともに、日本三古碑のひとつに数えられています。

西
多賀城
 去京一千五百里
 去蝦夷國界一百廿里
 去常陸國界四百十二里
 去下野國界二百七十四里
 去靺鞨國界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日
 
政庁南大路跡
多賀城の正門である外郭南門から、中枢部である政庁まで、
南北にまっすぐ通じる道路で、多賀城の中でも最も重要な道路です。

政庁復元模型

この模型は第2期(8世紀後半)の姿を推定復元したものです。
主要な建物である正殿、東・西脇殿、南門のほかに、東・西楼と後殿が
新たに建てられ、広場は石敷きになります。
南門の左右には翼廊が付き、築地塀には東・西殿や北殿などの装飾的な建物が
付け加えられています。
※現地看板より

南門跡

ここは、政庁の南正面の門がありました。
奈良時代後半の第2期は礎石式で、東西には門を飾るために翼廊が取り付いていました。
現在表示している建物北側の石組溝の石は当時の実物です。
※現地看板より

東南建物跡


西南建物跡


西脇殿跡

石敷広場


東楼跡


政庁正殿跡
政庁の中心となる建物の跡です。
礎石式の四面廂付建物で、その南は石敷の広場となっていました。
現在は建物の基壇のみを復元表示していますが、
礎石の一部は当時の実物です。
※現地看板より

西楼跡

後殿跡


多賀城神社

社殿は多賀城海軍工廠の奉安殿を移築したものです。 
即位前に陸奥の太守を務めた後村上天皇と、それに仕えた北畠親房・顕家父子らが祀られています。
 
六月坂地区

外郭東門ー西門間道路の屈曲点に位置する。
平安時代の役所建物跡や倉庫跡などが検出されている。
※現地標柱より

多賀神社

滋賀県にある多賀神社の分霊を勧請したと伝えられています。
延命長寿の神で、年の数だけ竹の箍をおさめて祈願するのが習わしです。
かつては、この場所の北東約50mの位置にありましたが、
多賀城跡の発掘調査や環境整備事業により、現在地に遷っています。
※現地看板より

外郭北東隅


東大垣跡

多賀城の外周りの東を画する奈良時代の塀跡である。
当時は大垣と呼ばれ高さ約4mで、瓦葺であった。
現在は上部が崩壊し基部のみ遺存している。
※現地看板より

外郭東門跡


大畑地区

作貫地区


2018/9訪問


 
 

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