山中城 [ヤマナカジョウ] | ||
別名 | なし | ![]() |
城郭構造 | 連郭式山城 | |
築城者 | 北条氏康 | |
築城年 | 1558年(永禄1年) | |
廃城年 | 1590年(天正18年) | |
指定史跡 | 国の史跡 | |
場所 | 静岡県三島市 地図 | |
スタンプ設置場所 | 山中城跡売店 | |
御城印販売場所 | 山中城跡売店 |
概要
山中城は、小田原に本拠地を置いた後北条氏が、永禄年間である1560年代に小田原防備の為に創築した
城郭となる。1589年の豊臣秀吉の小田原征伐に備えて、急ぎ西之丸や出丸等の増築が始まり、
翌1590年3月に豊臣軍に包囲され、約17倍の人数にわずか半日で落城した。この時の後北条方
の守将松田康長、副守将間宮康俊の墓は今も三の丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。
※現地案内板より
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三の丸堀
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三の丸の曲輪の西側を出丸まで南北に走るこの堀は
大切な防御のための堀である。
城内の各曲輪を囲む堀は、城の縄張りに従って掘り割ったり、
畝を掘り残したりして自然地形を加工していたのに対し、
三の丸は自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて二重堀としている。
中央の畝を境に、東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの
排水を処理し、西側の堀は空堀として活用していたものである。
この堀の長さは約180m、最大幅約30m、深さは約8mを測る。
※現地案内看板より
田尻の池
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東側の箱井戸と田尻の池とは、一面の湿地帯であったが、
山中城築城時、盛土(土塁)によって区切られたものである。
山城では、水を貯える施設が城の生命であるところから、
この池も貴重な溜池の一つであったと考えられる。
しかも、西側は「馬舎」と伝承されているところから、
この地は馬の飲料水・その他に用いられたものと推定される。
築城時の池の面積は約148平方メートルであり、あふれた水は
三の丸堀に流れ出ていたようである。
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二の丸
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西木戸口
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左の高台が元西櫓。
ここには木橋が架かっていたことが発掘調査で解かっています。
西の丸
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西の丸は3400㎡の広大な面積をもつ曲輪で、
山中城の西方防備の拠点である。
西端の高い見張台はすべて盛土をつみあげたもので、
ここを中心に曲輪の三方をコの字型に土塁を築き、内部は尾根の稜線を
削平し、見張台に近いところから南側は盛土して平坦にならしている。
曲輪は全体に東へ傾斜して、東側にある溜池には連絡用通路を排水口として
雨水等が集められるしくみである。
自然の地形と人知とを一体化した築城術に、
北条流の一端をみることができる。
※現地案内看板より
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西の丸畝堀
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西の丸内部に敵が進入することを防ぐため完全に曲輪の周囲を
堀によってとりまいている。
山中城では場所によって水のない堀と、水のある堀、
やわらかい泥土のある堀とに分けられる。
この堀の中は、五本の畝によって区画されている。
畝の高さは堀底から約二メートル、更に西の丸の曲輪へ入るには
九メートル近くもよじ登らなくてはならない。
遺構を保護するため、現在は芝生や樹木を植栽してあるが、
当時はすべりやすいローム層が露出しているものである。
※現地案内看板より
障子堀
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後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を掘り残す、
いわゆる「障子堀」という独特の堀が掘られている。
西の丸と西櫓の間の堀は、中央に太く長い畝を置き、
そこから交互に両側の曲輪にまかって畝を出し、
障子の桟のように区画されている。
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また、中央の区画には水が湧き出しており、
溜まった水は南北の堀へ排水される仕組みになっている。
このように水堀と用水池を兼ねた堀が山城に作られることは非常に珍しく、
後北条氏の城の中でも特異な構造である。
※現地案内看板より
西櫓
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城址碑
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西の丸堀
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西の丸堀は、山中城の西方防備の拠点である西の丸にふさわしく、
広く深く築城の妙味を発揮しており、堀の末端は谷に連なっている。
西櫓と西の丸の間は、中央に太い畝を置き、交互に両曲輪にむかって
畝を出しているが、西の丸の北側では東西に畝をのばして堀内を
より複雑にしている。
このように複雑な堀の構造は、世に伝えられる「北条流堀障子」の
変形であり、学術上の価値も高いものである。
※現地案内看板より
溜池
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本丸堀
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北の丸
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標高583m、天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置し、面積も1920㎡と
りっぱな曲輪である。
一般に曲輪の重要度は、他の曲輪よりも天守櫓により近く、より高い位置、
つまり天守櫓との距離と高さに比例するといわれている。
この点からも北の丸の重要さがしのばれる。
調査の結果、この曲輪は堀を掘った土を尾根の上に盛土して平坦面を作り、
本丸側を除く、三方を土塁で囲んでいたことが判明した。
また、本丸との間には木製の橋を架けて往来していたことが
明らかになったので、木製の橋を復元整備した。
※現地案内看板より
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天守櫓跡
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標高586m、天守櫓の名にふさわしく、山中城第一の高地に位置している。
天守は独自の基壇の上に建てられており、この基壇を天守台という。
基壇は一辺7.5mのほぼ方形となり、盛土によって50~70cmの
高さに構築され、その四周には、幅の狭い帯曲輪のような通路が
一段低く設けられている。
天守台には、井楼、高櫓が建てられていたものと推定されるが、
櫓の柱穴は植樹により攪乱されていたため、発掘調査では確認できなかった。
本丸から櫓台への昇降路は基壇より南へ延びる土塁上に、
1m位の幅で作られていたものと推定される。
※現地案内看板より
本丸跡
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兵糧庫跡
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兵糧庫跡の柱穴と大きな穴
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駒形諏訪神社
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史蹟山中城の本丸に守護神として祀られた。
建御名方命は、大国主命の御子神で、父神の国譲りに抗議して、
追われて信濃の諏訪に着き、これより出ずと御柱を立つ。
後、転じて日本第一武神と仰がれる。
日本武命は景行天皇の命を奉じ、九州熊襲や、東国を征した。
弟橘姫の荒海鎮静の入海は此の時である。
山中城の落城(1590)後、人々移住し箱根山の往還の宿場として栄えた。
※現地案内看板より
芝切地蔵尊
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