伊予国湯築城 [ユヅキジョウ] | ||
別称 | なし | |
城郭構造 | 梯郭式平山城 | |
築城年 | 不明 | |
廃城年 | 1587年 | |
指定史跡 | 国指定 | |
住所 | 松山市道後町 [MAP] | |
スタンプ設置場所 | 湯築城資料館内 | |
御城印販売場所 | 湯築城資料館内 |
概要
湯築城跡は、室町時代伊予国守護であった河野氏の城跡で、当時伊予国の政治の中心でした。
河野氏は、風早郡河野郷(松山市北部)を本拠とした豪族で、12世紀末の源平合戦で源氏方として活躍し、鎌倉時代には伊予国で最も有力な武士になりました。河野氏が湯築城に本拠を移したのは、14世紀前半河野通盛の時といわれています。当時の道後は、道後温泉に古くから天皇が来湯するなど人々の往来が多く、伊予国内では経済的、文化的な要地でした。その後、河野氏の歴代当主が伊予国守護に任命されるようになると、この地は政治的な中心としても栄えるようになりました。河野氏は水軍としても知られ、海賊衆として有名な来島村上氏もその配下でした。湯築城は、はじめはいざという時に丘陵を城として利用するだけでしたが、16世紀半ばに河野道直が、外堀を掘り、その土で土塁を築いて、現在のような大規模な城となりました。戦国時代に平地の岡を二重の堀と土塁で囲った城は、全国でも大変珍しいものでした。1585年に全国統一を目指す豊臣秀吉に攻められ、河野氏はまもなく廃城になったといわれています。江戸時代は松山藩が管理し、一般の人が立ち入ることは制限されていました。明治時代に入り、1888年に「道後公園」という名で広く一般に開放されるようになりました。
※現地案内板より
湯築城資料館
武家屋敷
武家屋敷は、発掘された礎石の配置から当時の資料をもとに復元されました。
土塁
内堀
湯築城には二重の堀があります。松山市立子規記念博物館は外堀の跡に建てられていて、この付近で外堀と内堀の間が最も狭くなっています。
発掘調査では、グラウンドの南側では内堀を確認していますが、グラウンドの西側では内堀は見つからず、幅1.2mの浅い溝が確認されています。グラウンドの南側でみつかった内堀は、幅はわかっていませんが、深さは1.5m以上あったことがわかっています。
※現地案内板より
2015/12訪問