城犬のおいど

城巡りと、各地で出会った食事を個人的な感想を添えてお城巡りを紹介しています。

伊予国 湯築城

2024-08-06 09:01:59 | 城館
伊予国湯築城 [ユヅキジョウ]
別称なし
城郭構造梯郭式平山城
築城年不明
廃城年1587年
指定史跡国指定
住所松山市道後町 [MAP]
スタンプ設置場所湯築城資料館内
御城印販売場所湯築城資料館内

概要
湯築城跡は、室町時代伊予国守護であった河野氏の城跡で、当時伊予国の政治の中心でした。
河野氏は、風早郡河野郷(松山市北部)を本拠とした豪族で、12世紀末の源平合戦で源氏方として活躍し、鎌倉時代には伊予国で最も有力な武士になりました。河野氏が湯築城に本拠を移したのは、14世紀前半河野通盛の時といわれています。当時の道後は、道後温泉に古くから天皇が来湯するなど人々の往来が多く、伊予国内では経済的、文化的な要地でした。その後、河野氏の歴代当主が伊予国守護に任命されるようになると、この地は政治的な中心としても栄えるようになりました。河野氏は水軍としても知られ、海賊衆として有名な来島村上氏もその配下でした。湯築城は、はじめはいざという時に丘陵を城として利用するだけでしたが、16世紀半ばに河野道直が、外堀を掘り、その土で土塁を築いて、現在のような大規模な城となりました。戦国時代に平地の岡を二重の堀と土塁で囲った城は、全国でも大変珍しいものでした。1585年に全国統一を目指す豊臣秀吉に攻められ、河野氏はまもなく廃城になったといわれています。江戸時代は松山藩が管理し、一般の人が立ち入ることは制限されていました。明治時代に入り、1888年に「道後公園」という名で広く一般に開放されるようになりました。
※現地案内板より

湯築城資料館

武家屋敷
武家屋敷は、発掘された礎石の配置から当時の資料をもとに復元されました。

土塁

内堀
湯築城には二重の堀があります。松山市立子規記念博物館は外堀の跡に建てられていて、この付近で外堀と内堀の間が最も狭くなっています。
発掘調査では、グラウンドの南側では内堀を確認していますが、グラウンドの西側では内堀は見つからず、幅1.2mの浅い溝が確認されています。グラウンドの南側でみつかった内堀は、幅はわかっていませんが、深さは1.5m以上あったことがわかっています。
※現地案内板より



2015/12訪問


 
 

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