・昭和44年2月16日(日)晴れ(宿泊所についてとバイト代値上げ交渉)
ここのシーサイドホテル(安宿)は、『インドへの門』へ12~13分で行かれ、市の南端に位置していた。他の場所と比較したら割と清潔で静かな、そして路上生活者や乞食を余り見掛けらえない所であった。暑い所為か夜、外にベッドを出して寝ている多くの人々が居た。ホテルの名前は格好良いが、大部屋(ドミトリー)でベッドも部屋も汚く、いろんな臭いがした。そんな部屋にベッドが1階に15台程あった。私のベッドは2階へ上る階段脇にあり、2階にも部屋があった。1階は勿論、2階の話し声も直に聞こえて来た。インド人は寝るのが遅いし、ペチャペチャといつまでも話をしていた。大体、12時(0時)近くにならないと寝ないのだ。そして朝は遅くとも、7時頃に起きていた。いずれにしてもこの部屋は蒸し暑く、それに環境が悪いので、ここ何日か寝不足気味で眠いし、暑さで身体もだるかった。そんな訳で今日、私は座っているだけのバイトでも眠く身体もだるく、仕事が辛かった。
エキストラのバイトが終って帰ろうとしたら、送迎用のバスが故障して動かなかった。撮影所のスタッフによると、「タクシーが来るまで時間がかかる」と言う事であった。それでアメリカ人を中心に、「タクシーが来るその間に、バイト代が少ないから皆で交渉しよう。」と言う事になって、私も彼等の後に付いて行った。ある建物の会議室で撮影所側代表と我々20名程で話し合った。
その結果、「明日からタクシー代無しで、1人35ルピーから60ルピーにアップ。」と言う事で交渉は、意外に早く纏まった。映画会社は儲かっているのか、短い交渉時間で倍近くの賃上げになった。下層労働者の20日分の収入が1日で貰えるなんて、私には考えられなかった。我々はタクシーで分散して帰って来た。当然、今日のタクシー代金は払わなかった。勿論、運転手は請求しなかった。映画会社が払ったのだ。
夕食は又、あの中華レストランで炒飯を食べた。
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