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YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

キブツへ行く~ハッゼリム キブツ滞在

2021-12-13 08:53:06 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和43年12月12日(木)曇り後雨後曇り(キブツへ行く)
 長倉はハイファへ旅立った。青山は、2・3日後に何処かのキブツに入ると言う。私もキブツへ行く為、ベエルシェバへヒッチで行く事にした。
 ベエルシェバは、テルアビブから110キロ程行った所で、ハッゼリム キブツはその町からさらにネゲヴ砂漠へ10キロから20キロ位行った所であった。私の持っている道路地図には、「ハッゼリム」と言う地名は載っていなかった。 
 私は歩いて郊外へ出た。途中、基地へ行くのか、それとも軍服姿(多くは迷彩服)のまま職場へ行くのか、自動小銃を肩から提げている多くの男女の兵士を見掛けた。
  街の中央では見掛けなかったが、郊外へ出ると古い家並みが沢山あった。そこはアラブの雰囲気が感じられ、パレスチナ人達が住んでいた。町の片隅にひっそりと暮らしている彼等は、スッカリ立場が逆になってしまった様であった。「そうか、そうだったのか」。テルアビブはユダヤ人上陸地、入植地として、そしてイスラエル建国の新しい街作りとしてここを首都としたが、古くから街が現存していたのだ。新しく出来た地域はイスラエル人の為の居住地区、そして従来の地区は、パレスチナ人の居住区として分離されていたのだ。私は複雑な国家形態を見た。 
 私が郊外へ出てヒッチをしていると、中年男性が寄って来て、「何処まで行くのか」と聞かれた。私は、「ベエルシェバまでヒッチで行くのです」と言ったら、彼は1ポンド札(86円)を私に手渡し、「これで行け」と言って素早く立ち去って行った。私は呆気にとらわれてしまったが、何だか知らないが今回は貰っておく事にした。乗合タクシー(シェルート)で100キロを1ポンド払えばそこまで行けるのか。シェルートは勿論、バスでも行けそうもない感じがした。だが、後日キブツ滞在中のある日、死海へ行こうとベエルシェバの郊外でヒッチしていたら、近寄って来た男性から行き先を聞かれ、「それならこれで行け」と言って2ポンド渡された事があった。そうなのか、1ポンド2ポンドあればかなりの距離を乗合タクシーのシェルートで行けるらしい事が分った。そうするとイスラエルに初めて来た日、テルアビブ郊外からテルアビブまでシェルートに乗って5ポンド払ったのは、やはり『ぼられた』のだ。悔しい気分が新たに湧いて来た。しかし、イスラエル人はぼる人もいれば、向こうから近づいて来て、「これで行け」とお金を渡してくれる人もいる。私は単細胞なので差し引き、『イスラエル人は良い人』と言う印象を持った。
 テルアビブからヒッチは意外と簡単で、直ぐトラックが止まってくれた。何の変哲もない風景が続いた。ベエルシェバが近くになるにつれて、大地が乾いて来た(土漠、砂漠化)感じがして来た。ベエルシェバの町は、イスラエル人用に新しい団地群を遂次建設中であった。それに反して、レンガや泥で出来た貧弱な家々には、パレスチナ人が住んでいた。街の様相は、新旧はっきり分かれていた。ドライバーに、「ベエルシェバは新しい町ですね」と言ったら、彼は「新しい町ではない、20年も経っている」と言った。無理もないと思う。イスラエルが建国して既に20年経っているのである。20年の感覚の捉え方であった。
 トラックのドライバーとベエルシェバの郊外の交差点で別れた。ハッゼリム キブツ方面の道は真っ直ぐ伸びていたが、車は走っていなかった。周りの状況は草木も生えてない土獏の光景、そして何も聞こえない静寂な世界がそこにあった。トボトボ歩いていたら、向こうから車が停まってくれた。そして私が黙っていたにも拘らず、ドライバーはキブツ前で降ろしてくれた。彼は私がキブツに入所するのを知っていたかの様で、全く不思議であった。乗った時間は20分程度であったであろうか。ハッゼリム キブツはベエルシェバからそんなに遠くなかった。 
 ゲートを通ると直ぐ管理事務所があった。管理人達は快く私を向かい入れてくれた。入所手続きを済ませると、管理人1人が銃を担いで私を部屋まで案内してくれた。キブツ敷地内には幾つかの共用建物(食堂、集会所、娯楽室、図書室、生活用品ストック及び配給所等)と共に、多くのこぢんまりとした家(10畳から20畳程度の広さの家)が沢山あり、そこは我々ゲスト用やユダヤ人用の家族単位で住める住まいであった。そして敷地内は良く整っていて、庭園もあった。アスハルトの歩道を事務所から10分程歩いてやっと私の家に着いた。数ある家の中で私の家(時には「部屋」「ハウス」とも言う)は一番奥、ベッドが3つ備えられ、広さが10畳程であった。
  一番奥(奥付近のこの一帯はゲスト ハウス、所謂一時滞在者用専用の家)は、食堂を始め、幾つかある施設へ一番遠いのであった。一時的滞在者用では、仕方ないのであった。私の部屋には既に先客2人(北アイルランド人のフランク、ノルウェー人のピーター)が住んでいて、3人で住む事になった。部屋と言っても台所、トイレ、浴室は無かった。あるのは毛布1枚とベッドだけであった。毛布1枚では寒そうなので、管理人にもう1枚お願いしたら、「用意しますから明日、生活関連施設へ取りに行って下さい」と言ってくれた。他のハウスに住んでいるエンディ、バート、そして他のキブツ一時滞在者の仲間達からも快く私を迎え入れてくれた。
 無事に着いてホッとした。お休み!!

テルアビブの様子~テルアビブの旅

2021-12-12 08:31:39 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和43年12月11日(水)曇り(テルアビブの様子)
 昨日は私の誕生日、長倉とレストランでお喋りしたり、午後ボーリング場へ行って過ごしたりした。遊ぶ程の金がある訳ではなかったが、誕生日なので彼に付き合った。 
 今日キブツへ行く予定であったが、取り止めて明日にする事にした。長倉もHaifa(ハイファ)へ旅立予定であったが、明日行くことになった。
 テルアビブはイスラエルの首都であるが、イスラエル人の雰囲気として、或は心情として、Jerusalem(エルサレム)を首都にしたいらしい。テルアビブの建物は、建国してから建てたから、殆んど新しかった。個人の住宅は皆、高床式になっていたのが特徴的であった。6日戦争でテルアビブの街が攻撃させた様な痕は、ロッド空港を除いて私の見た範囲内で全く無かった。                                                                                                                                                                                                 
 イスラエルに入国した時の乗合タクシー(シェルート)運転手以外、イスラエルの人々は概ね親切、友好的であった。そしてテルアビブは明るく、住み良い感じがする街であった。それでは街の様子が全く平和そのもの、と言う訳ではなかった。街の至る所でやたらと銃を肩から提げ、迷彩服を着た兵士達の姿が目に付いた。彼等はレストランで食事中でも、ショッピング ストアで買物中でも、通りを歩いている時でも、乗用車を運転中でも、皆兵士は片時も銃を放していなかった。彼等は、一般生活をしながらいつでも臨戦態勢の状態であり、「平和になった」と言う状態ではなかった。
 しかも兵士は、何も男性だけでなかった。街の至る所で多くの女性兵士も目に付いた。綺麗な女性も迷彩服を着て、銃を肩から提げていた。女性が銃を担いだ姿を、「格好良い」と言うだけでは済まされない一面がこの国にはある、と思った。「自分達が戦い、独立を成し遂げたこの国を守らなければならない」と言う、彼らの強い意識を感じた。そして人口が少ないこの国は、女性も兵力として国防の一端を担わなければならなかった。そんな理由からであろうか、この国は、男女問わず皆、徴兵制であった。

日本の10大ニュースと長倉は強かった~テルアビブの旅

2021-12-11 14:21:13 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和43年12月9日(月)晴れ(日本の10大ニュースと長倉は強かった)
 昨日、キブツで働く所をテルアビブから余り離れてない所を希望していたが、キブツ事務所の係りの方から「そこは一杯で希望に添えませんでした。明日又、来て下さい」と言われ、今日再び事務所に立ち寄った。そうしたらHazzerim Kibbutz(ハッゼリム キブツ)に決定した。係りの方からそこの住所と行き方を教わった。そのハッゼリム キブツは、テルアビブから100キロ以上のBeersheba(ベエルシェバ)の町からさらに南下したNegev(ネゲヴ砂漠)の北端に位置する所であった。Sinai(シナイ半島)とDead Sea(死海)の中間地点で、まさに何にもない様な所であった。
 国境付近では現時点、休戦協定が成立している状態であるが、依然として小競り合いが起きているとの情報があるし又、所によって過激派によるキブツへのテロ攻撃もあるとも聞いていた。しかし本当の戦争やテロ攻撃の怖さ・恐ろしさを知らない私は、何処でも構わないと思った。
 キブツの滞在場所も決まり、長倉と街へ出掛けた。その後、地中海を望む海岸のベンチに腰掛け、彼と色々な事を語り、一時を過した。暖かな陽気で海は青く、首都に拘わらず誰もいない浜辺は美しかった。何処で戦争が起きているのか、まるで嘘の様に平和を感じた。そしてロンドンからのヒッチの旅は、寒く寂しい旅であったが、それも嘘の様に今は平穏であった。
 この後、我々は新聞を読みに日本大使館へ行った。相変わらず日本は、お粗末な事件が多かった。鉄道事故、学園紛争、火事、盗難、そして殺人事件等で三面記事は賑わっていた。面白かったのは、東大の文化祭ポスターに男の背中の肌に銀杏の葉が描かれ、そこに止めてくれるなおっかさん、背中のイチョウが鳴いている。男東大どこへ行く」と、こんな文句の歌(詩)が書かれていた。一寸ヤクザらしい台詞であるが大分、反響があったらしい。
 因みに、今年の10大ニュースとして挙がっているのは、
①日本初の心臓移植 ②川端氏のノーベル文学賞受賞 ③飛騨川バス転落事故 ④東大紛争 ⑤参議院選挙 ⑥十勝沖地震 ⑦メキシコ オリンピック参加 ⑧寸又峡ライフル魔(きんきろう)事件 ⑨3億円強奪事件 ⑩小笠原諸島返還であった。
  遅い昼食を取った後、私と長倉はユースに戻った。どちらが「相撲しよう」と言い出したのか分らないが、お互いに「君には負けないぞ」と言うのであった。私は高校2年の時、柔道部の連中と柔道場で相撲をした事があったが、決して彼等には負けなかった。又、小学5・6年の時はクラスでトップの方であったし、昔から相撲が好きだった。そんな事で、体格が同じぐらいの長倉と相撲しても、負けない自信があった。でも結果は6回やって私は2度しか勝てなかった。彼は強かった。強い理由を聞くと、彼は高校時代レスリング部に所属し、選手として国体を含む色んな大会に参加し、実績の持主であった。服を脱いだ彼の身体は、筋肉モリモリの体付きをしていた。それに反して私は、数ヶ月間、栄養不足とカロリー不足で力が出ず、負けるのは当然であった。

キブツ探し、そして長倉君との再会~テルアビブの旅

2021-12-10 08:42:48 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和43年12月8日(日)晴れ(キブツ探し、そして長倉君との再会)
 今日未明、雷を伴った凄い雨が降り、目が覚めた。今朝方もヒョウ交じりの物凄い雨が降った。朝食を取ってから主人に、「キブツに入所したいのだが、如何したら良いのか」と尋ねたら、キブツ事務所の場所を教えてくれた。
  朝食後、そのキブツ事務所へ行った。その事務所(Ichud Hakvutzot Vehakibbutzim)の方は、私が「キブツへ入所したい」と言ったら、友好的に迎い入れてくれた。入所申込用紙に名前等必要事項を記入したが、この時点ではまだ何処のキブツになるのか、決まらなかった。キブツはたくさんある様で、自分が『何処のキブツへ行きたい』ではなく、事務所側の『何処のキブツで人が足りないので、そちらへ行って下さい』と言う様な関係であった。
 暫らくすると、日本人1人が事務所に入って来た。名前を聞くと、青山さん(仮称、以後敬称省略)と言う方であった。私はアテネで長倉から青山の事を聞いていたので、青山に「私はアテネで長倉に会いましたが、彼も貴方に会いたがっていましたよ。彼もテルアビブへ一両日中に来ると思います」と言った。私は青山と直ぐに親しくなった。
 青山と事務所を出た。テルアビブの街を歩きながら彼に、「今夜からユースに泊まりたい」と言ったら、彼は私をユースに案内してくれた。ユースのベッドで休んでいると、隣のベッドのアメリカ人と仲良くなった。彼から実践・実用的な英語(卑猥、下品な言葉)を教えて貰った。不思議なものでこの様な英語は直ぐ覚えられたし又、忘れなかった。                                                    
 夕方、私がロビーでくつろいでいたら Gabriel Sassoon(ガブリエル)と言うイラン人と知り合った。彼からイラン事情(経済停滞、教育の不確立、不民主的、不親切、騙し等)を入手した。その後、フランス人とイギリス人が何か話をしていた。暫らくすると、第二次世界大戦中の事で大いに激論になって来た。イギリス人が、「ダンケルクの戦いで一番初めに逃げ出したのはフランス兵だし、ノルマンディー上陸作戦に於いても、フランス兵はドン尻でイギリスやアメリカ兵の後に付いて来ただけだ。フランス兵は軟弱だ!」とそのフランス人に言っているのであった。フランス人はこれについて一生懸命に弁明、反論していた。ユース宿泊で彼等がこんな激論を聞いたのは、初めてであった。
 夜10時頃、ロビーで青山と雑談していたらアテネで親しくしていた長倉が、イスタンブールから戻って来た。彼は「Yoshiさんと青山さんに会いたかった」と言ったが、私も彼に会えて本当に嬉しかった。その後、3人で長倉のイスタンブールの事で話に花が咲いた。
 今日は有意義で、面白い1日であった。お休みなさい。


 

イスラエルの簡単な歴史の話~テルアビブの旅

2021-12-09 14:06:04 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
             △オマール イスラム寺院

・イスラエルの簡単な歴史の話
 イスラエルに滞在するにあたって、この国の歴史について少し記して置く事にした。
そもそもこの国は、4,000年の歴史があり、紀元前(BC)のソロモン時代、既に最盛期を迎えた。
[その基礎を作ったのが、BC1,020年頃の初代の王・サウルであり、その跡を引継いだのがダビデ王であった。ダビデは王国をより徹底して統治する為、BC997年、エルサレムに都を移した。又その息子ソロモンによって〝エルサレム神殿〟(「第一神殿」と言われ、今ではその跡に黄金のオマール イスラム寺院が聳え建っていた。)が築造され、その中に十戒石板を入れた契約の箱が収められた。その事によって聖都として、エルサレムの地位が確立した。
 ダビデは、バビロニアによるエルサレム滅亡(BC586年)までのイスラエルの王国史の中で、名君中の名君と称された。神からもイスラエルの民からも最も愛され、その治政はイスラエルの黄金時代とされる]。([ ]内は、河谷龍彦書の『イエス・キリスト』より) 
 その後の王国は、イスラエル王国とユダヤ王国に分裂し、バビロニアによって亡ぼされた。その後もペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国等の支配を受けるが、後にローマ帝国の保護の下にユダヤ王国が再建された。しかしAC135年、ユダヤ王国はローマ帝国に対し反乱を起こし、失敗してしまった。以来、ユダヤ人は故国を追われ全世界に分散し、1800年の長い間、世界各地で差別・迫害を受けての放浪の民になってしまった。この間19~20世紀までイスラエルの歴史は、空白状態になってしまった。
 エルサレムは、その後キリスト教が公認されると聖都として、キリスト教徒の町となった。しかし7世紀になるとイスラム教徒が占領、10世紀にはキリスト迫害から十字軍の遠征があり、その後も幾度か支配者を変えた。そしてエルサレムは13世紀頃からアラビア人の手に移り、16世紀にオスマントルコに征服された。
 19世紀に入りキリスト教の影響力が強くなると、その世紀半ばからユダヤ人の間で、「パレスチナへ集まろう(帰ろう)」と言う、『シオニズム運動』が起こった。1917年、イギリスはユダヤ人がパレスチナに祖国を建設する事を認め(バルフォア宣言)、この地はイギリスの委任統治領となった。特に第二次世界大戦前から戦後に掛けて、パレスチナの地へ多くのユダヤ人が入植する様になった。1948年、国連はイギリスの委任統治が終了した事を決定、同時にユダヤ人はイスラエル国家として一方的に独立を宣言した。
 パレスチナの地には、ユダヤ人と共に古くから多くのパレスチナ人が住んでいた。私が滞在していたキブツの幹部の話しによると、「パレスチナ戦争以前は、ユダヤ人もパレスチナ人も仲良く、そして隣人同士として助け合い、この地に住んでいた」と言っていた。それにも拘らず、ユダヤ人は一方的にイスラエル国家の独立を宣言したので、パレスチナ人のみならず周辺のアラブ諸国が一斉に反発、ここにパレスチナ戦争(第1次中東戦争)が勃発した。イスラエルはこの戦争で勝利し、パレスチナの大半を占領、現在のイスラエル領の基礎になった。翌年の1949年、国連に加盟(アラブ諸国はイスラエルを国家として未承認)するも、その後の1956年5月、スエズ動乱(第2次中東戦争)が勃発、又もイスラエルが勝利した。
 そして、昨年(1967年)6月、3度目のアラブ諸国と六日戦争(第3次中東戦争)が勃発した。アラブ連合共和国(エジプト)は、シナイ半島からイスラエルへ向けて戦車部隊を投入し、進撃を開始した。戦いはシナイ半島のみならず、対シリアとゴラン高原国境付近、対ヨルダンとヨルダン川西岸地域、対レバノンと国境地帯で行なわれた。この戦いにはイラクも参戦し、又モロッコ、イラン、パキスタン等のイスラム諸国も何らかの形で後方支援した。しかし戦いは6日間で四面楚歌のイスラエルに大勝利をもたらし、シリアからゴラン高原、ヨルダンからエルサレムの旧市街を含むヨルダン川西岸地域、アラブ連合共和国からシナイ半島全域を占領し、現在(1968年)に至っている。
 小さな国・イスラエルは、ヨルダンより広い国になってしまった。それにしても僅か人口250万人程度(現在は888万人)の、しかも新興国イスラエルが歴史も古く大国のアラブ連合共和国(エジプト)を始め、回りを反イスラエル諸国に取り囲まれているにも拘らず、3度戦って3度とも勝利をしたのだ。如何してイスラエルはこんなにも強いのであろうか。如何してアラブ(イスラム)諸国は、有利な条件がありながら戦争に勝てないのか。逆に言えば、アラブ諸国は如何してこんなに戦争が下手なのであろうか。『首都・テルアビブまでは、最短でヨルダン国境から25~30キロ程度、戦闘機を伴って戦車、機甲部隊で一気に攻め込めば、数時間内でアラブ諸国はイスラエルの首都を落とせるのではないか』と私は思った。アラブ諸国がイスラエルに負けたその疑問、原因が分ったのは、イスラエルを去ってからの事であった。
 現在、イスラエルとアラブ諸国の本格的な戦争は休戦状態(この時点から、幾つかの過激派テロ組織が結成)で双方、国としての面目を保っている。しかし、イスラエルによってパレスチナの地を追われたパレスチナ人の事は、何ら問題が解決されず、その立場が逆になってしまっただけであった。 
 いずれにしても、私はイスラエルの強さ、ユダヤ人の故郷であるパレスチナ、そしてユダヤ教、イスラム教、キリスト教の聖地のエルサレムに大いに興味を持った。又、旅の途中、クリスマスや新年をゆっくりキブツで過ごしたく、このイスラエルの地に足を踏み入れたのでした。
  所でユダヤ人を語る時、我々が忘れてならないのは、第2次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人迫害であり、その虐殺は目を覆うものであった。強制収容所での虐殺の責任者であった元ナチス親衛隊大佐アドルフ アイヒマンは、アルゼンチンで愛人と密かに暮らしていたが、1960年イスラエル秘密警察によって逮捕された。イスラエルの刑法に『死刑』の判決はないらしいが、特例で彼が処刑されたのは、つい2・3年前の話でした。そのセンセイショナルなニュースは、私の脳裏に今も焼きついている。

不愉快なイスラエルの初日~テルアビブの旅

2021-12-08 09:13:47 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和43年12月7日(1968年)(土)曇り後晴れ後雨(シーラおばさんと出逢う)
*参考=イスラエルの1ポンドは約86円、1アゴロは約86銭 
 アテネを去る日が来た。出発まで私は和田、そしてインテリの日本人と共にアラブ大使館(現エジプト)へ行ったり、行き付けでない食堂で昼食を取ったりして過ごした。いつも20ドラクマ(200円)以内で食事を済ませていたが、アテネ最後の食事なので2人に合わせ、普段より奢ってしまった。食事後、1人45ドラクマを請求されビックリした。他の2人も一応、『高い』と認識し、店主に抗議した。しかし言葉が通用せず、埒(らち)が開かなかった。この様な状況下、4ヶ国語も5ヶ国語も知っているインテリも所詮、私と同じであった。そこで和田が主人の見ている前で店の名前をメモした。店を出る際、私は100ドラクマ紙幣で清算すると、お釣りは55ドラクマであるのに6ドラクマ多くお釣が帰って来た。他の2人もそうであった。お店の主人は不当に値段を釣り上げてぼろうとしたが、和田が店の名前を書いたので、店の信用を落とす事に心が引っ掛かったのか、主人は値段を改めたのだ。いつもふざけてヒョウキンな和田だが、中々頭が良いと感心した。
 その後インテリ―と別れ、イスラエルへ旅立つ為、和田と共にエール・フランスの営業所まで行った。和田が付いて来てくれた事は、未知への旅立ちに不安を抱いている私にとって心強く、有り難かった。和田も「キブツへ行きたい」と言っていた。彼とキブツで会う約束をし、握手してバスに乗り込んだ。バスが出発し、見えなくなるまで彼は手を振って見送ってくれた。つい2日前に彼とユースで知り合い、親しく話した。彼はトニー タニーに似て、ひょうきんに振舞って人を笑わせていた、そんな彼との別れは寂しかった。友達を又、失った感じであった。彼は私の後を追ってキブツに来ると言うが、この時点で私が何処のキブツに入れるのか、まだ分らなかった。
 バスには乗客5~6人しか乗っていなかった。間もなくしてバスはアテネ郊外に出て、海岸通りを走った。車窓から夕日が沈むエーゲ海の光景は、旅情溢れる美しさであった。私はその光景を考え深い想いで見惚れていた。気の合った旅人との出会い、彼等と楽しかった束の間のアテネの滞在、別れの寂しさ、そして新たな旅立ちへの不安と期待を抱きながら一路空港へバスは走った。  
 ベングリオン国際空港に到着し周りの乗客を見ると、私の様なリックを背負い、ジャンバーにジーパンスタイルは誰もおらず、場違いの感があった。私のフライトナンバーは、Trans World Airlines(TWA)の840便、フライト予定時刻は午後4時50分であった。
 そうこうしている内にTWA840便の案内放送があった。私の乗る飛行機は遅延の理由は分らなかったが、1時間30分遅れである事が分った。暫らくたってから再び、出国手続きや搭乗手続きの案内放送があった。私はその案内に従って行動した。待合室へ戻ると隣の席のおばさんに「何か飲むか」と言われ、喉が渇いていたので、おばさんの行為を有り難く受け取り、コーラをご馳走になった。おばさんの年齢は45歳を過ぎた位で、名前は「Sheila Franker」と言って驚いた事に、私の文通友達のシーラと同じであった。名前の通り彼女は英米系の顔であった。彼女はJerusalem(エルサレム)に住んでいて、ギリシャに観光に来て、イスラエルへ帰ると言うのであった。おばさんに私のシーラの事を話したら、彼女もビックリした様子であった。私はおばさんにスッカリ親近感を覚えた。彼女は私に「エルサレムに来た時は、私の家に立ち寄って下さい」と住所と電話番号を書いたメモを渡してくれた。
 そうこうしている内にTWA840便の搭乗案内があった。私は彼女と共に所定のゲートを通り、そして搭乗バスに乗った。それで飛行機の所へ行き、タラップを昇って機内へ入った。おばさんの席は、私の席より前の方であった。
  午後4時50分のフライト予定であったが、結局アテネを飛び立ったのは7時頃であった。ハバロスクから乗った飛行機はプロペラ機であったが、今回はジェット機で、機内は静かであった。飛行機は墜落すると100%『死』であるし、私は慣れない所為もあり、機が揺れたり降下したりする度にビクビクしていた。テルアビブのロッド空港に着陸前、機は大きく揺れて降下した。墜落しているのではないかと、本当に怖かった。お茶やアルコール等のサービスがあったので、1時間30分の空の旅は、慣れる間もなくイスラエルに着いてしまった。
 何はともあれ無事に着陸し、ホッとした。私はシーラおばさんの手荷物を持ち、彼女と共にタラップを降りた。外は雨が降っていた。最近火事があったのか、空港待合室の天井は焼け落ちてポッカリと大きな穴が空き、空が見えた。彼女の話しによると、「昨年の六日戦争(第3次中東戦争)時、エジプト空軍の爆撃によるもの」と話してくれた。私は内心、『偉い所へ来てしまった』と思ったが、アラブ諸国とイスラエルはまだ戦争状態である事を承知していた。お世話になったシーラおばさんと、ここで別れなければならなかった。彼女はアテネ空港で私の航空券の事を心配してくれたり、コーラを奢ってくれたり、又彼女と話をしている内に不安が薄れ、搭乗時間が大幅に遅れていたが、待ち時間は苦にならなかった。彼女と一緒だったので、気を余り使わずに搭乗出来たし、イスラエルに入国する事が出来た。
外へ出ると空港利用者専用バス(?)が待っていた。私は、『これに乗ればテルアビブまで行ける』と思い、バスに乗った。市内へバスは移動していると思っていた。しかし暫らくするとバスは寂しい場所で止まり、全員降りた。バスは先に行かず、私にとっては降ろされた様なものであった。市内へ行く接続バスが無い場所、そして暗い場所で辺りがどうなっているのか、この場所がテルアビブからどの辺りなのか、全く分らなかった。
  市内へ如何して行けば良いのか、迷っていたらタクシードライバーが寄って来て、「4ポンド出せばNO5バス・ストップ(市内中央へ行ける停留所)まで乗せて行く」と言うので、仕方なくタクシーに乗った。このタクシーは乗合タクシーでこの時、乗り方を知らなかった。ヨーロッパや日本のタクシーより大きめで、車の中に他の乗客3人が乗っていた。乗車距離がどの位なのか分らないが、4ポンド(344円)は、どうも高い感じがした。他の人はいくら払ったのか、聞けば良かったが聞かなかった。ドライバーは他の乗客3人をそれぞれ異なった場所で下ろし、私が最後になった。一時止んでいた雨も再び降り出して来た。夜10時近く、雨の中を歩いてユース探しは大変なのでドライバーに、「ユースまで行って下さい」と言った。すると、「もう1ポンド払えば行く」とドライバー。不当な請求であるのか、そうでないのか、日本円に換算すれば大した額(?)ではないが、どうも『不慣れな旅行者を騙そう』としている気がしてならなかった。
 ドライバーは、私の希望に添うユースへ行かずホテルでもない、ある建物前に車を止めた。
「ここがユース ホステルです」と彼。
「ここはユース ホステルではない」と私。
「ここは、ユース ホステルです」と再度言った。
私は取り敢えず彼を信用して、建物の中へ入って見た。主人らしき人が現れた。ここは明らかにユースでもなければホテルでもない、ペンションである事が分った。しかし雨が降っているし、もう遅い(10時を過ぎていた)、ここに泊まる事にした。ドライバーに5ポンド札(約430円)を渡したが、色々言い訳をして結局、お釣りは無かった。それにしてもユースでないのに、如何して彼はユースと言ったのであろうか、理解出来なかった。このペンションの主人も凄く調子が良く、返って薄気味が悪く、過剰請求をされるのではないか、と思うほどであった。ペンション代7ポンド(602円)で朝食付きと言うが、何かごまかされている感じがした。とにかく不愉快なイスラエルの初日であった。    
寝たのは11時であった。

*後で分ったのであるが、やっぱり乗合タクシー(シェルート)の料金は、もっと安い様であった。私はここの国に遣って来たばかりの不慣れな旅人、弱みに付け込まれてしまったのだ。『ごまかされた』と気が付いても、後の祭りであった。