goo blog サービス終了のお知らせ 

YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

駅で盥回しにされる~ニューデリーの旅

2022-02-08 14:26:18 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月6日(木)晴れ(駅で盥回しにされる)
 明日、私とロンはAgra(アグラ)見物してからBombay(ボンベイ)へ行く事にしたので、私一人で切符2枚を買いにロンと私の旅客運賃学生割引証を持ってニューデリー駅へ行った。
 インドは州や地域が違うと言葉も人種も違い(多言語、多民族国家)、言語は15以上、方言は100以上あると言う。その様な理由で駅の案内板には、英語やヒンディー語の他、5~6の言語で書かれていた。しかし私の知りたい情報・案内は見当たらなかった。従ってボンベイまでの乗車券を買うのに、何処の窓口へ並べば良いのか分らなかった。駅員(インドの鉄道員は制服を着ていないので、駅員と一般人との見分けが分らない。)に聞きたいが、窓口以外見当たらないので、困惑状態であった。とりあえず1階の適当な窓口に並んだ。各窓口には、大勢の人が並んでいた。
 やっとの思いで自分の番が来た。「明日乗るのですが、アグラ経由ボンベイまでの学生割引3等乗車券2枚下さい」と私。
「2階へ行って下さい。」と窓口係員。
「2階の何番の窓口ですか。」と私。
「私には分かりません。」と係員。
 とにかく2階へ行った。2階にも幾つも窓口があった。ある窓口で、「明日乗るのですが、学生割引のアグラ経由のボンベイまでの3等乗車券2枚下さい。」と私。
「その乗車券の発売は1階です。」と係員。
「下の窓口で聞いたら、2階だと言われました。」と私。
「下の係りの者が2階だと、如何して言ったのか分りません。」と係員。
「それでは下の何番の窓口へ行けば良いのですか。」と私。
「分りません。下で聞いてください。You are wasting time. Next person。」と係員。
「人を困らせておいて、時間を無駄にしているだと、それはそっちだろう。You are troubling me , fuck off.」と私。
 それにしてもインド人の案内、態度のふてぶてしさには、本当に頭に来た。しかし彼等としても、毎日大勢の訳の分らない3等切符利用の貧乏人乗客相手で、まともに話してられない、と言った感じであったが、私は到底彼等に同情する気になれなかった。仕方なく再び1階へ下り、最初に行った窓口の隣の窓口へ、大勢の列の最後に並んだ。やっと順番が来て聞いたら、次の窓口と言われた。次の窓口に行ったら、又次の窓口だと言う。私の頭にヤカンを乗せたら、お湯が沸く程であったかもしれません。それ程、頭に来ていた。   
「ボンベイまでの切符は、何処で買えるのだ。ネクスト、ネクストと言って何処の窓口のネクストだ。」と私は怒った口調で係員に言った。
「Next is next counter. You are able to buy the tickets. So, no problem.」と係員。
「コノヤロー。人を盥回(たらいまわし)しにして、何が問題ないだ。大いに問題があるではないか。忌々しいインド人だ。」と私は爆発寸前であった。
そして終に、最後の窓口に来てしまった。「明日乗るのですが、アグラ経由ボンベイまでの学生割引3等乗車券2枚下さい。」と私。
「3時に来て下さい。」と係員。
「如何して。」と私。
「2時から3時まで私のランチ・タイムです。私はお腹が空いています。案内の通り2時から3時まで閉めます。」と係員。
「誰か他の人は居ないの。」と私。
「ノー」と言って、その窓口係員は、窓口を閉め、立ち去って行った。本当に忌々しい糞インド駅員達だ。それにしても日本や外国に於いて、こんなにも盥回しにされた事は、過って無かった。
 どうする事も出来ず仕方がなく、1時間ばかり駅周辺をうろつき、3時に再びあの窓口へ行った。例の係員は、「旅客運賃学生割引証にミスター・スチュワート(ロンの事)のサインが無いので1枚しか売れない。」と言うのであった。私は気が付かなかったが、駅員の案内・態度はいいかげんであるのに、旅客の書類関係はルール通りであった。インド人にバカにされ、盥回しにされ、時間を費やし、そして結局は買えなかった。「チキショウ、インド人のクソッタレ!!」と1人わめく私であった。
  一旦ドミトリーに戻り、ロンと後で再び駅へ行った。しかし、「今日はもう売らない。当日買えるので、ノープロブレム.」と、同じ窓口の係員(前の人だったかは分らなかった。)に言われ、やはり買えなかった。それでは如何して最初に言ってくれないのか、本当に悔しかった。「チキショウ!インド人のバカヤロウ!!」とさんざん悪態を言う私とロンであった。
 駅から帰った後、夕食に私とロンは、Mikado(「ミカド」と言って、コンノート広場近くの日本食レストラン)へ食べに行った。10ルピー(約490円)払った。10ルピーと言っても、低所得者の3日~4日分の収入を1回の食事で使ってしまった。でも、時にはこの様な食事を取らないと身が持たない、と言った感じであった。久し振りに美味しい食事をした。
 その後、我々はアメリカ女性と街で知り合い、チャイを飲んで過ごした。私とロンは明日早く起きて、アグラへ行く事になっていた。私は寝不足に弱いので、ロンを残して私だけ午後11時頃、ドミトリーに戻った。



オーストラリアの査証を取得~ニューデリーの旅

2022-02-08 14:00:51 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月5日(水)晴れ(オーストラリアの査証を取得)
 午前中、査証が出来ていると思い、オーストラリア大使館へ行ったが、館員は午後2時半頃に出来ると言うので一旦戻った。
 インデア・コーヒ・ハウスでチャイを飲みながら時間を潰し、2時半頃に再び行った。しかし査証は出来ておらず、1時間30分も大使館で待たねばならなかった。そして午後4時、やっと出来た。査証はビジター、滞在期間1ヶ月間、3月19日まで入国、取得料金7ルピーであった。ロンは日本大使館で査証を20分か30分程で取れたのに、オーストラリアは日数・時間が随分掛かった。ロンは2,000ドル以上持っていたが、私は120ドルと少々しか持ってなかった。国別の大使館、所有のドル額、或は人によって随分違いがあった。
 ニューデリー滞在中でも一般的な食事は、やはりチャイとチャパティ(イランやパキスタンではナンと言う)であった。チャイは水分補給としての大事な飲み物であった。インドは〝衛生観念の低い国民〟(こんな言い方は失礼かも知れないが、事実であるから仕方ない。)なので、コレラを始め赤痢等色々な伝染病が流行っても仕方がない。インドでそれらの病気に冒されたらそれこそ大変なので、少なくても生水だけは決して飲まない様に細心の注意を払っていた。そんな訳で水分補給としてのチャイは、私にとって大事な飲み物であった。
  生水と言えば日本を出国以来、注意して来た。特にイスラエルを発ってからイランやパキスタンでは、水分不足である事は分っていた。その影響がもろに出たのが1月29日のラホールでのウンコの状態であったのだ。しかしあれから尻の状態は、特に問題無さそうなので、ひとまず安心した。


ストリートボーイとブラックマーケットの話~ニューデリーの旅

2022-02-08 13:47:07 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・ストリートボーイとブラックマーケットの話
 「ストリートボーイ」とは、我々旅行者がインドの都市の何処でも街を歩いていると呼び掛け、主に闇両替、或は時計、カメラ、万年筆等の高級品からシャツやジーパンまでの売り買いを元締めに斡旋してくれる「両替・売買仲介人」の事である。彼等は、仲介料を元締めから貰って生活しているのだ。したがってストリートボーイを通さないで、元締めと直接交渉した方が高く買い取ってくれる場合があった。一方列車やその他の所で知り合ったインド人と直接に取引した方が有利であった。
 2月4日の夜、関が「時計を売りに行きたい」と言うので、彼に付き合った。彼は国境で時計6個を没収されたはずなのに、まだ4個位持っていたのだ。彼も中々の食わせ者(?)であった。
 我々はそのストリートボーイを介して交渉したが、交渉は成立せず結局良い値で売れなかった。こちらから売りたい場合は足元を見られ、買い叩かれる場合があるので、ジックリ攻める(時間をかけて交渉する、交渉相手を変える等)事がインドでは大切、攻め急ぎは禁物であった。
 「ブラックマーケット」とは、「闇両替商」の事であり、我々旅行者の持っている米ドルをインドのお金と非合法で交換する「連中」の事である。
ルピーは海外からの持ち込み、或は海外への持ち出しが禁止になっていた。銀行で両替しないで非合法で両替した方が交換レートは高かった。しかしブラックマーケットで両替した時は、両替証明書を発行してくれないので、インドを出国する際、公式な場所で他の国のお金と両替する事が出来ない。例えインド・ルピーを持ち出しても、国際的に価値が低く信用度も無いので、果たして交換してくれるか疑問であった。従って余ったルピーは、無駄になる前に全部使ってしまう事が大事なのであった。
 2月4日の昼間、こんな事があった。私のルピーが終りそうになって来たので、関を連れてルピーを闇で買おうといつもの闇両替屋の所へ行った。その闇商人とは顔見知りになったので信用して、先に10ドルを渡したら90ルピーしか渡してくれなかった。いつも1ドル9.25ルピーの率で交換してくれるので、10ドルだから92.50ルピーが正当なのだ。我々は猛然と抗議して2ルピー取り返したが、向こうはさすが強(したたか)な両替屋、どうしても50パイサを取り戻す事が出来なかった。
 この様に何回か会ったからと言って信用しても、取引は先に品物(ドル)を渡しては駄目だ。必ず相手の品物(ルピー)を貰ってからお金(ドル)を渡す。この順序を間違えると向こうの思う壺になった。ニューデリーへ到着した日、ストリートボーイが1ドル12ルピーで交換してくれる、と言う話があった。余りレートが高すぎる話は眉唾物で信用しなかった。
  そして今日の教訓は、何度か会って、信用出来ると思っても、先にドルを渡しては駄目と知るべし。順序を間違えると損をする。騙されても警察には訴えられない。闇両替・闇取引は慎重さが要求された。                          

大使館員を怒鳴りつける~ニューデリーの旅

2022-02-07 09:55:44 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月4日(火)晴れ(大使館員を怒鳴りつける)
 毎日、良い天気が続く。炎天下は暑いが、日陰に入ると涼しかった。微熱の方も完全に良くなった。今日早速、日本大使館へ行った。
 大使館に雇われている案内係のインド人職員に来館目的を告げた。彼は立ち去り、そして直ぐに戻って来て、ある日本人大使館員の所へ私を案内した。そこはつい立で仕切られていたが、個室ではなかった。インド人職員を含めて、周りで働いている何人かの日本人職員の姿も見えた。
〝40~45歳位のその大使館員〟(以下「T氏」と言う)は、両手を後ろに回して枕代わりにして、イスに踏ん反り返り、しかも靴を履いたままテーブルの上に足を投げ出して私を迎えた。多分インド人職員は、「ヒッピー紛いの貧乏旅行者が来た」とT氏に告げたのであろう。T氏は、『若者の貧乏旅行者が又、金か何かで困り果て、助けを求めて来たのであろう。軽くあしらってやれ』と思ってか、彼にその様な態度を取らせたのであろう。
 確かに今、私はヒッピー紛いの格好で旅をしているが、S会社で日本の国民として真っ当に働き、その義務も果たして来たのだ。私がT氏にこんな態度で扱われる謂れは何もなかった。それにしても日本人の貧乏旅行者に対し、彼はいつもこんな態度を取っているのか。俄然、私は頭に来た。
「オイ、アンタ!テーブルの上に足を投げ出し、踏ん反り返ったその態度は何事だ。それが人を迎える態度なのか。昨日オーストラリア大使館へ行ったら、あちらの大使館高官は握手を持って快く私を迎えてくれたぞ。」と私。
「オーストラリア大使館は、貴方をお客さんとして迎えたのでしょう。」とT氏。
「日本人旅行者が日本大使館へ用事があって来る場合はお客さんではないのか。アンタ達は誰から飯(おまんま)を食わせて貰っているのだ。それにな、外務省高官が親戚に居るのだ。私は帰国したらアンタに屈辱な扱いを受けた事を報告するからな。それでアンタの名前は何と言うのだ。」と私はビシッと言い放った。
「・・・・・」  
「別に教えて貰わなくても構わないよ。他の人に聞くから。」 
その途端、彼の態度は豹変した。彼は立ち上がり、「すいませんでした。この通りお詫びいたします。外務省には内密にして下さい。」と彼は平謝りになった。
「・・・・・」私。
「どうぞお掛け下さい。」と言って彼はソファに腰掛けるよう私を促した。
「私は長い間旅をしていて、数ヶ月振りに同胞に会ったのだ。懐かしいその同胞からこんな態度で迎えられるとは、私は悲しいよ。」とソファに坐って話した。
「イャー本当に申し訳ありませんでした。・・・・(又彼は頭を下げて謝罪。少しの間、沈黙)。所で、長い間旅をしているとの事ですが、どちらを回って来られたのですか。」と話を反らす。
この件(彼の無礼な態度)を突き詰める気は毛頭なかった。彼の話しに乗って、簡単に私の旅の話をした。それから世間話になった。T氏の家は、「東京の池袋」と言う事で少し親密になり、池袋やS沿線の事、日本の事で話は盛りあがった。勿論、若者が大使館へ来た時の対応方に注意する様に、と彼に言っておく事も忘れなかった。
 私の来館目的は、旅券の渡航先にオーストラリアを記入して貰う事であったが、アメリカは勿論、カナダ、メキシコにも出来れば行って見たい、と私の夢は広がりついでにそれらの国もお願いした。最後の別れ際、T氏は「どうか御無事で旅をして下さい」と言って、大使館の出入口まで見送ってくれた。それにしても彼の豹変振りには呆れる思いであった。
 所で、白人国家の日本大使館員は、白人雇用者に対して横柄な態度・言葉使いをしていなかった。私の知っている範囲内では皆、仲良くやっている様に見うけられた。しかし、ここの日本大使館員はインド人雇用者を横柄な言葉・態度でバカにした様に扱使(こきつか)っていた。考えさせる光景であった。オーストラリアの大使館員は、インド人に対してもう少し紳士的に扱っていた。
 大使館員の慇懃無礼、横柄な態度・言葉使いを経験したのがロンドンの大使館であった。それ以来、私は日本大使館嫌いになった。そして今回、その大使館員の本質が態度になって如実に表れた、その一例であったのだ。彼等日本大使館員は、政治家や地位の高い人には諂い(へつらい)、一般国民、ましてやジャンバーやジーパンスタイルの我々貧乏旅行者は、『ゴミ、若しくは厄介者、又は日本人の恥さらし者』と思っているようであった。その事が端的に現れたのが彼の態度、言葉であったが逆に、『大使館員は、人間として屑』であったのでした。大使館員は相手によってコロット変わる、変われる役人だったのだ。保身の為であったら如何様な事もするのが彼等であった。
 私は日本大使館を出て、その足でオーストラリア大使館へ行った。しかし、「今日、ボスは病気で休んでいます。明日来て下さい」と言われ、査証は取れなかった。
 インドの後、タイへ行くのであるからタイの査証も取っておこうと行ったら、「18ルピーかかる」と言われ、持ち合わせがないので帰って来てしまった。因みに、オーストラリアの査証代は6ルピーであった。国によって、随分違うものだ。
 大使館への往復はいつもIndia Gate(「インド門」と言って、1921年に建てられ、第一次世界大戦で戦死したインド兵を記念する為のアーチで、パリの凱旋門に似ていた。)辺りから乗降していた。バスはRaji Path(ラジ・パット)通りを走るが、この通りの両脇は広い公園になっていて、公園の中を走っている感じがした。そしてこの通りの突き当たりが、大統領官邸になっていた。ニューデリーは、郊外へスラム化したバラックの家が延々と広がる都市、市内の通りを路上生活者、乞食、そして一般の人々で溢れている都市であった。そんな都市で、これほど広々とした道路とそれに沿って延々と続く公園があるとは、驚きであった。それにサリーしか着ないインド人女性が、この公園で格好良い乗馬服を着て、乗馬を楽しんでいた。このアンバランスは奇妙に感じるが、インドであれば納得するのであった。バスはいつも満員状態、そして車内は変な臭いで充満していた。そんなバスの車内から外を眺めていると、数組の乗馬している上流階級と思われる娘さん達の乗馬姿が良く見えたのであった。
  バスに乗ると男の車掌が人を掻き分け乗車券を売りに来た。私が、「オーライ、オーライ」と言うと、彼はポカーンと呆気に取られ、切符を買うのを免れた。降りる時、「サンキュウ」と言って堂々と降りた。正直言って私は、往復無賃乗車をした。運賃はたかが10パイサ(約4~5円)から20パイサ。払えば良かったのであるが、ロンが「オーライと言うと、タダで乗れる」と言うので私も試してみようと、今日やってしまった。僅かばかりのお金をケチって無賃乗車したが、後味が悪かった。
しかしどうして車掌が許してくれたのか、その理由が分らなかった。外国人だからか、言葉が通じ合わない所為か、それとも彼は私を乞食と思い、黙認してくれたのか。いずれにせよ反省し、以後払って乗車した。
  夕方、私は関と共に和田と寺島に会いにYMCAへ行った。彼等を含め日本人5人で街へ散策に出掛けた。彼等と散策していると面白いし、又我々はチャイを飲みながら、思いっきり色んな話をして楽しんだ。「思いっきり」と言うのは、何しろ昨年の12月12日、長倉や青山と別れて以来、約2ヶ月間(イギリス滞在中は2ヵ月半)日本語を話していなかったので、日本語に飢えていた。ニューデリーに来る道中、途中から竹谷、ラホール国境から関が我々に加わって旅して来たが、ロンやフランス人3人もいたので、彼等に気遣い、我々日本人だけで思いっきり話をする、と言う事はなかった。

あの和田さんと寺島さんに再び巡り逢う~ニューデリーの旅

2022-02-07 09:14:35 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月3日(月)晴れ(あの和田さんと寺島さんに再び巡り逢う)
  私、ロン、竹谷の3人でInformation Office へ行き、その帰りにインデア・コーヒ・ハウス附近を歩いていたら、「?(はてな)どうも何処かで会った事のある日本人が向こうから歩いて来るではないか。誰だろう・・・」とチョッと訝った。近くに来たら、それは和田(アテネで会って、私のイスラエル行きを見送ってくれて、トニー・タニーに似ている人)と寺島(旅の途中、ユースで2~3度会っている。最後に逢ったのがアテネ)の2人ではないか。
「和田さんと寺島さんでしょう。」と私は呼び掛けた。
「ビックリした。そう言えば、貴方はYoshiさんではありませんか。再び会えて嬉しいなぁ。アテネ以来ですね。」と和田。
「Yoshiさんとはアテネの前に、何処か会っていますよね。」と寺島。
「フランス、イタリア、ギリシャのユースで3度会っています。でもここで2人に逢えるなんて偶然ですねえ。逢えて本当に嬉しいよ。」と私。
「ホント、偶然と言うのか、不思議だよなぁ。」2人。
「和田さん、あれから(アテネから)2ヶ月近く経っているのに、如何して此処(本当にインドを見て回ろうとすれば、1ヶ月や2ヶ月では回り切れないのであるが)に居るのですか。」私は聞いた。
「ニューデリーに来たら犬に噛まれ一時、私は歩ける事も出来なかったのです。」
「それは大変だったね。でも歩ける様になって良かったですねぇ。」
「最近、やっと歩ける様になって来たのですよ。」
「私は金を盗まれてしまったのです。送金して貰う様に親に頼み、金が来るのを待っているのです。」と寺島。その顔は金が無いと言いながら余裕さえあった。
「皆、色々な事に遭って大変だったねぇ。」
寺島の「送金して貰う」という言葉に違和感、そして送金して貰える彼が羨ましかった。実際、私なんて親父から「Yoshiが例え外国で死のうが、病気になろうが、金が無くなって困ろうが、俺には助けに行く金も無ければ、送金する金も無いからな。それで良ければ外国へ行っても構わない。」と言われた。それでも私は外国へ行きたく、日本を脱出して来たのだ。そして私はその言葉を、今でも忘れていなかった。本当に親父は金が無かったのだ。だからこそ私は『家には迷惑を掛けられない。迷惑を掛ける事はしてはいけない。』と言う、信念みたいな物があった。そんな訳で、彼の「送金して貰う」と簡単に言うその言葉に少し違和感、嫉妬感があった。そして盗難防止に私の場合は、腹巻の中に大事なお金、トラベラーズチェック、旅券、帰国用M&Mの引き換え証を常時入れて注意して、小銭しかポケットに入れなかった。
私はこれから行かねばならない所もあるし、仲間を待たせても悪いので、2人の宿泊所(YMCA)を聞き、一旦別れた。 
 この後、我々はアグラへ行く為、学生割引書を貰いに駅へ行ったり、公的機関や郵便局へ行ったりした。その後昼食をインデア・コーヒ・ハウスで取った。
 午後、私はオーストラリア大使館へ行く用事があったので、ロンと別行動した。バスに乗って大使館へ行き、着いたら直ぐに高官の部屋に案内された。私が部屋に入ると、
「ミスターYoshi○○ ○○○○、ユー・アー・ウェルカム。」と言って、ボスと呼ばれる貫禄が良い大使館高官が、私を握手で向かい入れてくれた。  
「Yoshi ○○です。はじめまして。」と私は自己紹介した。
「まじめまして。私の名前はウィ○○?(名前を聞き取れなかった)です。どうぞお掛け下さい。所で、貴方は3ヶ月間の査証を申請していますが、オーストラリアへどの様な方法で入国するのですか。」とボス。
「多分、シンガポールかバンコクから飛行機で行きます。」
「わが国訪問後、何処へ行きますか。」
「アメリカへ行きます。」
「ベリーグッド。それではオーストラリアへ行く航空券、滞在費用、アメリカへ行く航空券等を宜しければ見せて下さい。」
私はこの様な質問される事を全く想定しておらず、まさか入出国手段の航空券等や滞在費用を見せてくれ、と聞かれるとは思ってもいなかった。実際、3ヵ月間の滞在費用、及びアメリカへ行く航空券・乗船券も持っていなかった。私は『困ったなぁ』と思った。と言って観光目的の査証では就労を認めていないので、働いて滞在費やアメリカへの渡航費用を稼ぐ、とも言えなかった。
そこで私は、「入国はこの航空券です。」と言って、M・M乗船券引き換え証を見せ(彼は厳しくチェックしなかった)、「そして滞在費用はこれだけです。」と言って、〝私の全財産〟(残り120ドル程のトラベラーズチェック、少しばかりの米ドル、一昨日妹から送られて来た3万円、そして僅かばかりのルピー)を見せた。そして「不足分の滞在費用、及びアメリカへ行く費用は、オーストラリアに着いたら日本から送って貰います。」と私は嘘も方便で言った。
「分りました。それでは・・・(彼は少しの間、考え)、現時点で1ヶ月間の滞在を許可しましょう。それで宜しいですね。もし滞在延長を希望するなら、本国のイミグレーション(移民局)で手続きして下さい。」とボス。
「分りました。」と言って私は承諾した。大事なのは、何ヶ月でも良いから取り敢えず査証を取得する事であった。滞在費用やアメリカへ行く航空券等の問題があるが、『行けば、後は何とか道が開ける。』と思った。
「それからミスターYoshi、貴方の旅券の渡航先にオーストラリアが記入されていません。先ず日本大使館へ行って、記入して貰って下さい。」とボス。
「分りました。色々有り難うございました。」と私。
「如何致しまして。」とボス。
私の様なヒッピー紛いの格好している貧乏旅行者にも拘らず、彼の言葉や態度は最後まで紳士的であった。
 それにしても、私は如何してこんなにもドジなのか。査証申請するのに旅券の渡航先にその国名が記入されているか否か、又もや確かめなかった。行き当たりばったりでのんきな者、自分ながら呆れてしまった。道中仲間の関も「オーストラリアへ行って旅費を稼ぎ、南米へ行きたい。」と言っていた。しかし彼は入国の為の航空券どころか、手持金も殆んど無い状態で査証が取れず、オーストラリア行きを諦めた経緯があった。
  私はその足で直ぐ日本大使館へ行った。しかし「本日の館業務は終了しました」と言われ、明日、又来る事にした。

チャイの話~ニューデリーの旅

2022-02-06 08:38:54 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・チャイの話
 〝チャイ〟(インドの紅茶)について記しておく事にする。インドでは街の至る所に〝チャイハナ〟(茶店)があり、チャイが気楽に1杯20パイサから30パイサ(約10円~15円。この様な所は立飲みのお店)で飲めた。イギリス人も顔負けする程インド人はチャイを好んで飲んでいた。イギリスのティーとインドのチャイは如何違うのか、私の知っている範囲内で纏めてみた。
 イギリスのティーは、ティーポットから紅茶をティーカップに注ぎ、好みに応じてミルク(牛乳)と砂糖を加え、上品に飲むのがイギリス流だ。これにケーキやクッキーが添えてあれば、最高の持て成しとなるのだ。勿論、場所、雰囲気、紅茶の種類・品質、上等なティーカップ等で持て成しの度合いは違って来る。
 インドのチャイハナのチャイは、紅茶にミルクと砂糖をタップリ加え、グツグツ煮込むのだ。このチャイをカップになみなみと注ぎ、こぼれて受け皿にも溢れるほど入れてくれる。インド人はチャイがこの受け皿に溢れるほど入っていないと文句が出る。
 飲む時、インド人は受け皿に溢れ落ちたチャイから飲んでいた。それからカップに注がれたチャイを又、受け皿に注いで飲んでいた。如何してそんな事をするのか分らないが、これがインド流チャイの飲み方であった。多分、カップのチャイはまだ熱いので、チャイを移し変えて飲むとその分少し冷めるので、そうして飲んでいるのかも知れません。〝薄汚れた受け皿〟(当然カップも欠けて薄汚れていて、非衛生な感じがした)のチャイは、余り好きでなかった。 
 イギリスのティーと違ってインドのチャイは個人の好みではなく、最初からミルクや砂糖がタップリ入っていて、非常に甘ったるい感じがしたが、これがケッコウ旨かった。インドでは、ミルクや砂糖無しのチャイはチャイでなかった。
 貧しいインド人にとって又、我々の様な貧乏旅行者にとってチャイは、重要な栄養源であった。ミルクは大切な蛋白源として、砂糖はカロリー源として、そして水分の補給として、チャイは『大事な飲み物』であった。

 

洋服を買おうと思ったが~ニューデリーの旅

2022-02-06 08:27:29 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月2日(日)晴れ(洋服を買おうと思ったが)
  午前中、頭が痛く気分も良くなかったが、午後少し良くなった。ニューデリーにある〝India Coffee House〟(インデア・コーヒ・ハウス。所謂チャイハナ、インドの大衆喫茶店)は各国の貧乏旅行者の溜まり場になっていた。ここの春巻きの様な物が割りと美味しく、私はチャイを飲みながら食事替わりにした。ほとんどの客は店の前で立ち飲みをしていた。  
 今日、私はこの喫茶店で寛いだり、その周辺を散策したりして過ごした。入場料1.8ルピー(約54円)で『007のドクターノー』を上映しているので、入場しようと思ったら、満員で入れなかった。インドは映画が人気であった。
  夜、私、ロン、ロス、そして関の4人でオールド・デリーの方へ散策に出掛けた。通りは大勢の乞食や路上生活者が寝ていて、歩行するのも注意が必要であった。そうでないと彼等を踏んずけてしまったり、蹴飛ばしてしまったりしてしまうからだ。
怪しげな〝洋服?〟(1~2ルピー)を売っている場所へ行ってみた。しかし彼女等は余りにも不衛生、薄汚い感じがし、私を含めて皆も買う気が無かった。

体調悪し~ニューデリーの旅

2022-02-06 08:13:10 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年(1969年)2月1日(土)晴れ(体調悪し)                           
 一昨夜の夜行列車は寒かった。昨夜も寒いので、ジーパンを履きジャンバーを着たまま毛布1枚掛けて寝たが、それでも寒かった。お陰で今朝、微熱がある感じがして、頭も重たかった。少し風邪を引いたのか体調は良くなく、一日中、憂鬱であった。本当に病気になって寝込んでは大変なので、今夜は1ルピー余計に払って、もう1枚毛布を借りて寝る事にした。

・乞食の話~ニューデリーの旅

2022-02-05 16:25:35 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・乞食の話
 インドを訪れた途端、あらゆる面で旅行者はカルチャーショックを受けるであろう。特に日本や欧米から直接インドに来て、群れをなすその乞食の数を見ると、その悲惨さに身震いし、驚愕しない人は居ないであろう。だが日が経つにしたがって、その悲惨さに慣れて来るのか、インドはこれが現実なのだと認識し、あたりまえの光景になっていた。私はイギリス、フランスから中東の経済的に発展してない国へと旅をして来たので、身震いや驚愕はしなかったが、それでもカルチャーショックを受け、驚いたのは確かであった。
 私がニューデリーに着いたその日に、ある体験に出くわしてしまった。1人の子供が「バクシーシ(お恵みを)、バクシーシ」と五月蝿(うるさい)いので、10パイサ(5円)を恵んだら、いつの間にか20~30人以上の大人や子供の乞食に取り囲まれ、「バクシーシ、ババ、バクシーシ。テン・パイサ、10パイサ。」とバクシーシの合唱になってしまった。その乞食の多さ、囲まれた怖さでその場から一目散に逃げた。そして以後、乞食にはやらない事にした。実際、彼等に幾らあげてもきりがないし、インドの何処の街を歩いていても、「バクシーシ、ババ、バクシーシ」と言われるので、彼等と顔を合わせない、無視(目線を合わせない)して通る事にした。  
 その乞食の数も然る事ながら、彼等の中に手や足が無い乞食(「ハンセン氏病(ライ病)」から来る現象らしい)も大勢見掛けた。そんな中でも両手両足の無い、まるで芋虫の様に這いずり回っている乞食もいた。又、栄養失調で足は私の腕位、腕は針金の様に細くなっていて、自分の体重を支えられないので、四つん這いになって移動する乞食もいた。そう言う光景、彼等の姿を見るとショックを受けた。その様な乞食に、「バクシーシ、バクシーシ」と悲しそうに言われると、私も本当に辛いし、悲しくなった。その様な姿を見ていると本当に悲惨で、耳をふさぎ無視して通るのがやっとの思いであった。
 生存競争の厳しいインド社会で、しかも芋虫の様に手足が無い乞食が、如何して生きて行っているのであろうか、考えただけで恐ろしくなる。逆説的に、大勢いる乞食の中で、『如何に哀れさを出し、悲惨的な乞食を演出するか』が返って『バクシーシ』を受けられ、生きて行けるのかもしれなかった。いずれにしても私は貧乏旅行者、哀れさや同情の気持は、インド滞在中は禁物であると悟った。裏返せば哀れさや同情心では、何の解決策にもならないからであった。
  それとも、もう1つの仏教の教えから来る考え方として、乞食にお金を与える事(施し)はお布施であり、お布施をする事によって乞食から功徳を受け自身の心を満たす(功徳を積む)、その様な捉え方もある。インドでは『お金持ちが乞食に施しをするのは、当然である』と思われている様であった。そんな訳で、インドでも最後に訪れたカルカッタの乞食は、数から言っても最高だが、恐ろしい事(不思議な事)に、彼等のそんな光景を見ても何にも感じなくなっていた自分は、もっと怖い、もっと恐ろしい人間になってしまっていたのかもしれなかった。

オーストラリアへの想いの話~ニューデリーの旅

2022-02-05 16:04:23 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・オーストラリアへの想いの話
 最近になって私は、今後の旅について悩んでいた。Madras(マドラス)から船でPinang(マレーシアのペナン)へ渡り、Singapore(シンガポール)、若しくはBangkok(タイのバンコク)からM&Mフランス商船で帰国すべきか。或いはオーストラリアへ行き、そこで旅費を稼いでアメリカへ行くべきかと。自分の気持としては折角退職してフリーの身になったので、もっと旅をしたい。アメリカへも行って見たい、と言う希望があった。しかしその反面、既に足掛け8ヶ月間旅をしているので、旅の初め頃と違って、外国に対する新鮮味や旅に対する想いも薄れて来ていた。そして私の旅は、放浪の旅の様に感じられる、今日この頃でもあった。
  こんな状態では、私の旅の意義も薄れるし、放浪の旅を続けていたら今後の人生に於ける生活基盤がいつになっても築けない、これで良いのであろうか。そんな遣る瀬ない(やるせない)想いもあった。しかも旅をしているのも疲れるし、望郷の念を抱く様になって来たのも確かであった。
したがって、折角だから北米や南米へも行きたい、と言う想いもあった。そしてオーストラリアへ行った場合、仕事が簡単に見つかるか等の不安や悩み、そして帰国しなければ、と言う現実的な想いの葛藤があった。 
  帰国したい。帰国しなければ、と言う想いを打ち消し、折角フリーの身になったのだから、或は後から、あの時もっと旅をしておけば良かった、と言う後悔をしない様にすべきではないか、と言う想いが強くなって来ていた。旅人の話によると、「オーストラリアは結構稼げる。」と言う話を聞いていた。それならオーストラリアへ行って旅費を稼ぎ又、新たな気持で旅をしよう。行けば何とかなると思う様になった。その反面、オーストラリアの白豪主義と対日感情の悪さの話も聞いていたので、その点を考えると躊躇する所もあった。
 いずれにしても私はすぐ心変わりし、行き先変更する事が多いので、取り敢えず査証を収得しておいて、インドを旅しながらゆっくり考える事にした。