中村如水随想録

身体論、体癖論、潜在意識、NLP、アレクサンダーテクニーク、インナーゲーム、引き寄せの法則、音楽。今、ここ。

118. DO NOT take it for granted!

2011年04月04日 16時08分04秒 | マイナス70点か、プラス30点か
少し前から絶え間なく、頭の中に響く言葉、それは Do NOT take it for granted! 何でも当たり前だと思うなよ! ということです。

東日本大震災の映像やニュースに触れた後では特にそうだすが、これは何にでも当てはまる、恐ろしく汎用性の高い言葉です 。

何か、不満があるとき、この言葉を思い出してみると、本当は大変なものなのに、当たり前だと思って軽く見ていたな、ということに気がついてほっとするとともにありがたい気持ちになります。

住むところがあるというのはありがたいことだな、食べるものがあるのはありがたいことだな、夜ぐっすり眠れるのはありがたい事だな、トイレで普通におしっこが出来るのはありがたいことだな、パソコンでネットが見れるのはありがたいことだな、このMacが格好いいのはスティーブ・ジョブズとその仲間ががんばっtてくれたおかげだな、 このインスントラーメンがおいしいのは日清の社員の誰かががんばってこれを作ってくれたからだな、本が読めるのはありがたい事だな、 自分の足で歩けるのはありがたい事だな、……いくらでも続けられます。

逆に言うとそれだけ、ふだんこれらのものを当たり前だと思ってその価値を認めていなかったということでもあります。

マイナス70点ばかり見ていたんですね。プラス30点の方を見ましょう

101. 地獄巡り。

2010年09月04日 12時39分48秒 | マイナス70点か、プラス30点か
ひたすら書けない日が続いていた。

朝から晩まで10時間から12時間執筆に費やして、1週間で書くことができたのは1行だけだった。もちろんこんなことで給料を貰っていていいのか、という非難の声も自分の中で生じて来るし、何よりも締切が刻一刻と迫っていた。

このブログのことではない。留学資金獲得レースの申請書の執筆である。


それまでに4つの申請書を提出しており、そのうち3つは今回と同じ内容だったから、コピー&ペーストで済む筈であった。が、そうはできなかった。なぜなら、すでに最初に出したものの結果が届いており、もっともチャンスが大きいと期待していたものであったが、惨敗であったからだ。さらに、ぐずぐず執筆に手こずっているいるうちにもうひとつも落選通知が届く。同じ人間だから、もちろん同じ実績でしか勝負できないが、これまでと同じ内容では無理だ、と気がついていた。

その一週間の間、何をしていたかと言うと、執筆に集中できるように独り部屋にこもって、パソコンに向かって、書こうとする。すると、ふと、インターネットで何かを調べたくなる。気がつくと1時間も、2時間もネットサーフィンをしている、というザマであった。何度試みてもそうなってしまう。他のことはできるが、書くことだけはできない。次第にどんどん憂鬱になる。

極めて強力な力が働いて、私を執筆から遠ざけているようだった。異様に気が散って集中できないのである。


そのときの状況を簡単に説明すると、妻もいながら、そのままでは半年後に無職になることが確定しており、次の職場を探さねばならなかったが、私はそれを海外と決めてしまっていた。希望の職場へ行くには、向こうに私を雇ってくれるような資金はなく、生活費を捻出する為には、海外留学資金獲得レースに参加して、競争率6倍から9倍の狭き門をくぐらねばならなかった。

このレースでは、提出された申請書をもとに、主にこれまでの実績と、これからの計画の善し悪しが評価される。私は小粒の仕事をいくつか自分で仕上げていて、他の多くの計画にも関わっていたため論文の数こそ、それなりに多かったが、Nature、Science など超大型雑誌とは無縁で、はっきり言えば、華に欠けていた。しかし、半年後からの生活はこのレースにおける勝利にかかっていたのである。


膠着状態が1週間続き、焦りも出て来たとき、一体、書こうとする時に何が起こっているのか、突き止めようと思いついた。書き始める、すると一文が終る前に、インターネットに目が行く。そのとき、耳の後ろで、囁き声がするのに気がついた。

「どうせそんなのじゃ、無理だ。初めから無理だったんだ。」

文字通り悪魔の囁きである。書こうとする鼻から、こうやって全否定されていたのでは、なるほど書ける筈もない。

この膠着状態は、売れっ子の作家が書けなくなるようなときと同じなのだろう。批評家の声、というより、自分自身による批判に堪えられず、書くことができなくなってしまうのだ。


書きたい,という自分と、書きたくない、という自分がぶつかっているので、これは葛藤状態である。私の中のふたつの部分が衝突している。先述した NLP のパートモデルが、こうした葛藤の解決に役立つ。この方法はフォーカシングに似ているが、フォーカシング自体も作家のブランクに有効だ、と何かで読んだことがある。

私の中で、「進める部分」は、「これまでの書類と同じ内容でもよいから書けばよい」と言っている。しかし「止める部分」は、まったく違うことを語っていた。


いくら書いたところで結局落ちるのであれば書かない方がよい

弱点がこれだけあるのだから不利である」(自己批判


この「止める部分」の真意は何であろうか。


自分を守るため


だという。

それでは自己批判の真意は何であろうか。


研究の枠組みを捉え直す(リフレーミング)ことを勧めている

次にどういうことをすればよい仕事に成長するかを提案している

どのような申請書が求められているのかを知らせている


という答えが返って来た。


この答えを手がかりに再度執筆に挑戦するが、依然として「悪魔の囁き」はやまず、したがって書くことができなかった。


アレクサンダーテクニークを学んでいたことから、そしてインナーゲームを学んでいたことから、「批判」は「今、現在」から離れていることに問題がある、ということを知っていた私は、平日に職場を抜け出して、近所のお寺の門の前までフラフラと歩いて行き、そこで憑かれたように3~4時間もひたすら、まっすぐ歩く練習をした。どうやって自分が歩いているのかを観察することで、「今,現在」を取り戻そうとしたのである。


そして、ついに転機が訪れた。

書きたい申請書の内容はどうしても書けない。それは明らかだった。「悪魔の囁き」が聞こえた瞬間に、他のことをしてしまう。ならば、その「悪魔の囁き」を書くことはできるのではないか?と思いついたのである。

そして、書こう書こうとしていた段落に対する、「悪魔の囁き」に耳を傾け、それを文字にしていく作業を始めた。「悪魔の囁き」はあまりにも活発なので、それまでとは打って変わって、流れるように筆が進む。次の段落、次の段落、と書き進めるうちに、気がつくと A4一枚 ほどにびっちりと、自己批判と自己否定の嵐がうずまいていた。

しかし、不思議なことに、あれだけ強力で、無尽蔵に思えた「悪魔の囁き」であるが、その内容を全て書き留めると、たった一枚にすべて収まってしまい、これで書き尽くした、とはっきり感じることができた

なぜ書き尽くしたと分かったかと言うと、さっきまで絶えること無く微かに聞こえていた「悪魔の囁き」が沈黙したからである。これは意外であった。

1週間以上も自分が圧倒され続けたものは、どれほど辛辣な内容であるにせよ、その数を数えると、この程度なのか、とずいぶんホッとしたことを覚えている

書いたものを読んでみると、どの一文もまさにごもっとも、という、痛いところばかりを突いた内容と感じた。罵詈雑言、ダメ出し、誹謗中傷、痛々しく、しかも核心に迫っている。数の上では有限個であると分かったが、個々の中身は強烈であり、すべてがなぜ私が応募してもダメなのかをズバリと指摘していた


「じゃあ、俺はどうすればいいんだ?」


私は思った。批判は分かった。ごもっとも。じゃあ、いったい私はどうすればいいんですか?欠点は欠点として、いくらかでも状況を有利にするにはどうしたらいいんですか?私には後がないのでなんとかしなきゃならないんだ。

すなわち、私は次に、申請書の内容の各段落に対する、「悪魔の囁き」に対する、「反論」を試みたのである

不思議なことに、この「反論」もすらすらと流れるように書くことができた。「それはそうかもしれないが、ここの部分には価値があるのでこれを前面に出せばよい」「この論文は地味かもしれないが、それでもここだけは価値があると思う」などと、ひとつひとつ、反論して行くうちに、この反論もピタリ、と終わりを迎えた。書き尽くした,と感じたのだ。

書き上げた「反論」部分を読んでいると、先ほどまで、一分の隙もない、と思わされた「悪魔の囁き」による舌鋒鋭い批判が、ひとつひとつ極めて慎重に退けられており、絶望的に思えた状況が、案外有望なのではないかとさえ感じられた。これは単なる楽観主義ではないことに注意を喚起したい。きわめて現実的な批判の数々に答えている為、反論の中身は決して夢想的な、困ったことは笑って誤摩化せ、というものでなく、慎重かつ説得力がある、一言でいえば「リアル」なものだった。

そしてこの「リアルな反論」は、明らかに読んだ私の気分を変えた。波動が変わったのである。


ふと、気がつくと、もう申請書本文が書けるのではないか、という気がした。

そして、再度、本来の目的である申請書執筆に取りかかる。これまでの長い停滞がウソのようであった。そう、流れるように書き進むことができたのである。私は今や自分の仕事の弱点をじゅうぶんに承知している。しかも私は、その弱点にも関わらず価値を失わない、その仕事の真価を把握している。したがって、私の役目は、その仕事の真価を審査員に伝えることだけにあった。私は伝令、媒介に過ぎなかった。

丸まる1週間かけて1行しか書けなかった頁が、実に数時間で書き上げられてしまった。本文を書き上げてしまった後、段落と段落の間には、依然として「悪魔の囁き」と、それへの「反論」が差し挟まれていたが、なぜか私はその部分を保存せずに、削除してしまう。通常の自分の仕事のやり口からすると、編集途中のものを逐一保存してくので、きわめて異例なのだが、このときはなぜか、思い切りよく、全部消してしまった。それが正しい、と感じていたようだ。したがって、この「地獄巡り」のときに、私が何を書いていたのか、「悪魔の囁き」とそれへの「反論」に、何が実際に書いてあったのかは、今や知ることができない。


出来上がった文章を読むと、もちろん仕事自体は自分の過去の仕事なので、これまでの申請書に書いたものと全く同じはずなのだが、明らかに今回のものの方が一段優れている、と感じた。この地獄巡りを通じて、初めて私は自分が行った仕事の真価を知った、ということであり、それまでの書類は、真価を知らないままに形だけなぞったものに過ぎなかったのだろう。

この危機を脱してからは、申請書の残りの部分の執筆も順調に進み、連日の激務が続いたものの、最終締め切りに間に合って、原稿を無事に投稿することができた。


数ヶ月後、私の元には先に出していて結果待ちであった、他のふたつの賞金レースの落選通知が届く。このうちの片方にはかなり期待していたのだが、惨敗。結果の通知を受け取る朝、私は夢を見ていた。高校の校庭のそばを流れる川をずうっと歩いて遡って行くと、留学先に辿り着く、という夢であった。吉夢かと思ったが、受け取ったのは落選通知。失意の日が続く。

最後に残ったのは、地獄巡りをして書いた例の賞金レースであるが、これはもっとも条件が良いため、競争率も高く、例年の勝者は大半がNatureかScienceを持っており、他のレースが全敗の状況ではほとんど希望が持てなかった。


そのうち、国内での就職口の話が舞い込んで来た。残り数ヶ月で無職がほぼ確定の状況であり、マトモな人なら喜んで受けたであろう。ただ決してそこも条件が良いとはいえなかった。迷っているうちに回答期限が迫った。追いつめられた私は妻に「受けようと思う」と話した。なんと、妻は「あなたアホちゃうの?そんなところ行ってバカ共の相手をしたらあなたはすぐ気が狂うやんか」の一言。堂々たるものである。

これで目が覚めた私はこの話を断り、ついに誰もが危険すぎるから絶対ヤメロという、自費留学を覚悟する。自己資金が続く限り向こうに滞在して、その間に再度留学資金獲得レースに参戦して勝つ、ということにした。これによってどう転んでも留学はする、ということで迷いが取れて、ホッとすることができた。


さらに数ヶ月後、例の地獄巡りをした留学資金獲得レースから、正式な合格通知を受けた。

98. マイナス70点か、プラス30点か - マイナス90点か、プラス10点か。

2010年08月22日 00時07分12秒 | マイナス70点か、プラス30点か
一年ほど前に、「マイナス70点か、プラス30点か」というシリーズでいくつか記事を書いていました。30点という事実は一つしか無いが、100点満点だからマイナス70点だと見るか、プラス30点と見るかの違いが大切だ、ということをいろいろな視点から論じてみたものです。思考の焦点をどちらに当てるか,という点において私たちは自由である、という主張です。

ここで主張していることは、エイブラハムの「引き寄せの法則」をご存じの方なら、別にどうということのない内容のはずですが、マイナス70点とか、プラス30点というのは、スピリチュアルとか、引き寄せとか、波動とか、出来るだけそういう言葉を使わずに、この法則の要諦を伝える為に思いついた、たとえ話です。ご存じのように、目に見えない世界の話は、中世ヨーロッパほどではないにせよ、未だに公には禁忌と見られていますから、どれほど「引き寄せの法則」の威力を実感していても、本家エイブラハムの論理や言葉を、たとえば職場の同僚や上司にそのまま伝えようとしても、そんなものはオカルトだ、科学的に証明されていない、云々カンヌンとほとんど拒絶反応を呼ぶだけでしょう。

「マイナス70点か、プラス30点か」のお話は、この拒絶反応を避けたまま、かなり深いところまで語ることができて便利なのですね。小一時間はすぐに時間が経ちます。この話をどこか頭の片隅に置いて、中にはそこから本家エイブラハムの「引き寄せの法則」を引き寄せる人も出て来るでしょう、とそのように思っています。


その当時は、友人や、職場の同僚たち、身内に、何かある度ごとにこの同じ話を繰り返していました。当時職場で辛い状況にあった一人には、何度もこの話をして、人のせいにしてはいけないよ、自分でプラス30点を見つけるんだよ、と語り、その度に彼は、自分が人のせいにしていること、自分に決して100点満点をつけることができずマイナス70点をみてしまっていることを再発見して、驚きの声を上げていました。しかし、変化を拒む自我の防御はなお強く、数日経つと元の木阿弥ということを繰り返していました。

そのうち、彼は同じ話を、一番の問題児扱いをされて誰にもほとんど相手をされなくなってしまった別の同僚に話したようで、ある日、その問題児のほうから、
面白い話を耳に挟んだので是非聞かせてください
と頼まれたことがありました。極めて異例の事態でしたが、やはり彼なりにどこか感じる部分があったのでしょう。そのふたりはその後、どうなったのか、やがて時間が来て、私は渡英してしまいました。


日本を出る準備もほぼ終って、出国まであと数日というときに、国内で大きな学会がありました。最終日に、数年間日本を離れていて、数日前に帰国したばかりの友人 A さんの発表を見に行きました。彼が向こうでどんなことを学んで来たのか、興味津々だったのですが、彼の発表内容を印刷したポスターの前に着くやいなや、A さんは「お昼は食べましたか」と私に聞いて来ます。

てっきり、お昼を一緒に食べよう、というお誘いかと思い「まだですよ」と答えました。すると
「上のレストランに食事があるので代わりに行ってくれませんか。」と言います。意味が分かりません。
「どういうことですか?」と尋ねます。

「B さんはお知り合いですよね?B さんが今、上のレストランで一人で待っているんです。C さん(私の上司)が、自分に行ってくれ、と電話をかけて来たんですが、私自身は B さんを知らないんです。B さんとはお知り合いなら、私の身代わりで上に行ってくれませんか。もう彼は上で待っているんです。」と、やや切羽詰まった顔で言います。

「いや、B さんは知り合いだし、それはいいですが、私はあなたの発表が聞きたかったんですけど。」
「いやあ、本当に申し訳ないです。私もあなたに聞いて欲しいんです。でも彼が上で待っているのですいませんが、代わりにお願いします。」と言う顔はいよいよ切羽詰まって、本当に申し訳無さそうでした。このチャンスを逃すと、A さんの成果について直接話を聞くチャンスは当分無くなりそうだと分かっていましたが、急かされるように、上のレストランへと向かうことになりました。

ただし、まったく話の要領が得ません。なんで B さんが一人でレストランで待っていて、C さんが A さんに電話を掛けて来るのか、ちんぷんかんぷんです。狐につままれたようなまま、レストランの入り口に着いて、待っている筈の B さんの姿を探しますが、見つかりません。

しばらくウロウロしていましたが、影も形も無いので、レストランの中で待っているということなのかな、と思い、のっしのっしと中へ入って行きました。お昼時なので込み合っていますが、B さんは見つかりません。見つからないままずうっと奥まで歩いて行くと、パーティションで囲われた一角があります。なんだこれは、と思ってぐるっと中を覗きに行くと、「○○会議」と書かれていて、中には学会の重鎮方がずらりと集まっているのが見えました。その中に、私の上司の C さんの姿もありました。結局、Bさんは見つからないなあ、と思ってレストランの入り口の方に戻ろうと歩いているところを、あるテーブルから呼び止められました。

B さんが、2人分の食事が用意されたテーブルに一人で座ってすでに食事中で、手を振っていました。さっき私が入って来たときは背を向けていたからか、互いに気がつかなかったのですね。お久しぶりです、と挨拶を交わして、空いている方の椅子に座りました。

B さんとは5年以上も前に同じ職場で働いていた時期があり、そのときにはちょくちょくお話をしていました。その後は、年に一度、何かの会合で顔を合わせるかどうか、ぐらいで、仕事の内容も比較的離れていることもあって、何となく人柄に惹かれてはいましたが、近況を聞いたりする程度で、特に親しいというほどでもありませんでした。

「いったい、これはどういうことなんです?ちっとも理解できないんですが。」と尋ねました。

「C さんとふたりでご飯を食べようとしてこのレストランに入って、メニューを注文して待っている時に、隣のテーブルに知り合いの方がたまたま座ったんです。で彼が、『C さん、あなた今、会議じゃないの?』と言ったわけです。あのパーティションの中のやつです。すっかり忘れてたらしいんですね。それでもう自分の料理は注文しちゃったし、会議には出なきゃいけないので、携帯電話で、 A さんを代打に指名したんですよ。それで今度は A さんがあなたを代打に送ったんですね。このご飯は C さんの奢りなので、タダですよ。」という答えで、やっと霧が晴れて、事態が飲み込めました。

そのあと、互いの近況報告をして、留学の話をして、という感じで普通の会話が始まりました。なぜ私が留学を思い立ったのかという話題になりました。そこからが、驚きでした。

私が留学に至るまでの心境の変化を語り、数年前に、学会に来てもなにひとつ面白い、と感じなくなったことがあった、という話をしました。どうしてこんなに面白いものが一つもないのだろう、と思ってイライラしていましたが、実はそれは私が、この分野は価値が無い、この方法は無意味だ、と自分自身でシャッターを降ろしていたからだと気づくに至り、そのシャッターを上げてみたら、今度は見違えるように学会が面白いものばかりになって、留学はその延長です、ということを話した訳です。

すると B さんも一年前に、学会のすべてがまったく面白くなくなったことがあった、と言うではないですか。そしてそれが、それらの面白くない研究のためではなく、自分自身のせいであるということに気がついた、と私に語るのです。まったく同じ物語ですよね、これは。

そして、私は、初期の頃に、他の人の仕事の欠点について上司から聞いたことが刷り込まれてしまい、それが私自身の中でシャッターを降ろすことになり、私の思考を強く支配するようになってしまったようです、と語りました。

すると、B さんも、彼の上司も、実は同じタイプで、同じように影響を受けていたと言います。つまり他の人の仕事の欠点を指摘する訳ですが、B さんは、100点満点の仕事などないのだから、10点の仕事ならばその欠点をあげつらうよりも、10点の中身を考えた方がいいんです、ということを私に語って来るではありませんか。

私は「10点」ではなくて、「30点」を例に使ってはいましたけど、今のとまったく同じ話を、マイナス70点か、プラス30点か、と言っては、この半年間、それこそ周囲のいろんな人に何回も何回も繰り返し話して来ました、と打ち明けました。互いにやや驚きながらも話は弾み、ご飯が終った後もしばらくロビーで話し込んでから、やっと別れました。互いの健闘を祈りながら。


このまったく予想不可能な、とても奇妙な舞台設定の中で実現した、タダ飯の会、どう理解したらよいでしょう。何千人といる学会参加者の中から、同じ時期にまったく同じ経験をし、全く同じことに気がついた我々ふたりをこっそり選び出し、私の出国直前の学会の最終日に、A さんと Cさんを巧妙に利用することによって、我々ふたり引き合わせた「誰か」がいます。

あるいは、同じ波動を持ったもの同士が引き寄せ合う、という「引き寄せの法則」の証左と言ってもよいでしょう。そっくりな経験をしてそっくりな結論を得ているのですから、さぞかしよく似た波動を発していたことでしょう。さぞかし引力が働いたのでしょう。

英国へ来るまでの数々の不思議な経験の中でも、この事件には心底驚きました。と同時に、私の方向はそれでいいんだよ、という励ましを、私を見もって下さっている見えない存在から頂いたように感じ、この奇跡の出会いは腑に落ちるものでもありました。

89. 問題解決

2010年03月14日 09時48分34秒 | マイナス70点か、プラス30点か
問題解決、トラブルシューティング、律速段階の改善、いずれもこれらさえできていれば、問題が解決してしまうわけだから、物事の成否にとって決定的に重要に思える。

だが、どうもここにも危険な落とし穴があるようである。
問題を特定し、トラブルを分析し、律速段階を把握することは、事実と付き合う中で、最も大切な局面であるが、ここで下手をすると、ここに問題があるから思うようにならないのだ、こんなトラブルがあるからダメなのだ、ここですべてが停滞しているから遅いのだ、という論理に留まってしまう恐れがある。

これは、大変危険なことのようだ。
なぜなら、引き寄せの法則の観点からみたとき、この事実認識の仕方は、「問題と欠乏」に意識の焦点を合わせており、「不満と失望」の感情の波動を生み出してしまうからである。そして、そのような感情を起点に引き寄せの法則が作用すると、その問題自体を強力に「引き止めて」しまう結果となる。問題解決のはずが、問題を引き止めることになってしまうのである。

別な言い方をすれば、このような欠乏と不足があるためにこれができないのだ、という論理は、それ自体が正しいかどうかを別として、「問題の原因を外部環境に求める」態度に他ならない。そしてこの態度を認めてしまうことは、外部環境条件によって自分の自由が失われることを自ら認めることになってしまう。この自由が失われた感覚が、「不足と欠乏」の感情を生み出すわけである。

したがって、ひとたび問題を特定した後は、感情の波動の転換改善を試みる必要がある。
実現可能な解決策を立てることによって欠乏感から離れて充足感へと移動する。別の非常に満足すべき事実を見つけ出してその価値を肯定することで充足感を得る。などなど。

85. 「ストックデールの逆説」と「引き寄せの法則」

2010年01月02日 09時09分43秒 | マイナス70点か、プラス30点か
ジェームズ・C・コリンズによる名著、「ビジョナリー・カンパニー 2 - 飛躍の法則」(日経BP社、ISBN 978-4822242633 原題 Good to Great)では、「ストックデール将軍の逆説」という考えを、企業の飛躍にとって、そして個人の生活にとっても、極めて重要なものとして紹介している。これはアメリカ海軍のジェームズ・ストックデールが8年にも及ぶベトナムでの捕虜生活と拷問に堪え抜いた秘訣について、著者のコリンズから聞かれたときの次の言葉によるものである。





I never lost faith in the end of the story, I never doubted not only that I would get out, but also that I would prevail in the end and turn the experience into the defining event of my life, which, in retrospect, I would not trade.

わたしは結末について確信を失うことはなかった。ここから出られるだけでなく、最後にはかならず勝利を収めて、この経験を人生の決定的な出来事に し、あれほど貴重な体験はなかったと言えるようにすると

どのような人物がそれをできなかったのかというコリンズの問いに対して、ストックデールは次のように答えた。

Oh, that’s easy, the optimists. Oh, they were the ones who said, 'We're going to be out by Christmas.' And Christmas would come, and Christmas would go. Then they'd say, 'We're going to be out by Easter.' And Easter would come, and Easter would go. And then Thanksgiving, and then it would be Christmas again. And they died of a broken heart.

楽観主義者だ。そう、クリスマスまでには出られると孝える人たちだ。クリスマスが近づき、終わる。そうすると、復活祭までには出られると考える。 そして復活祭が近づき、終わる。つぎは感謝祭、そしてつぎはまたクリスマス。失望が重なって死んでいく

This is a very important lesson. You must never confuse faith that you will prevail in the end―which you can never afford to lose―with the discipline to confront the most brutal facts of your current reality, whatever they might be.

これはきわめて重要な教訓だ。最後にはかならず勝つという確信、これを失ってはいけない。だがこの確信と、それがどんなものであれ、自分がおかれ ている現実のなかでもっとも厳しい事実を直視する規律とを混同してはいけない

「ビジョナリー・カンパニー 2 - 飛躍の法則」


「ビジョナリー・カンパニー 2 - 飛躍の法則」では、劇的な飛躍を遂げた11の企業を調べて、その多くが、このストックデールの教訓と非常によく似た原則を築き上げていたと報告しており、これこそが飛躍を支える重要な法則のひとつであると主張している。すなわち、「もっとも厳しい現実を直視する」ということは苦痛を伴うため、多くの人はこれを意識的あるいは無意識的に避けてしまう。そして、その逃避ゆえに、端から見れば問題が一目瞭然のように明確であっても、それに対応すること無く、失敗の山を築くことが多い。

 私自身を振り返ってもそのような「直視」ができなかったために自ら事態を悪化させたことが幾度もあるし、周囲の人間を観察していても(端から見ているからこそ)「どうしてこの人はこの簡単な現実を直視できないんだろう?」と思わされることは屢々であり、ストックデールのこの言葉は、人間生活に潜む根源的な問題を喝破しているように思われてならない。

私がこの逆説を知ったのは、「ビジョナリー・カンパニー 2 - 飛躍の法則」ではない。武井 一喜 著の「NLPでリーダー脳力をグングン高める法」(ヴォイス、ISBN 978-4899760955)であった。神経言語プログラミング(NLP)について知りたいというのが動機で買った本だが、この本で「ストックデールの逆説」を扱っている箇所の「NLP パートモデル」と呼ばれるスキル(一人で行う心理療法のようなもの)を幾度か行って、たいへんな衝撃を受けた。これについてはまたいずれ文章にしたい。



さて、「ストックデールの逆説」を知った上で、圧倒的不利な諸条件の中で仕事をしようとしたとき、私にはその仕事自体がさながら戦争のように思えた。絶対的不利な状況の中でギリギリの戦いを続けて最後に勝利を収めなければならない。私はウィンストン・チャーチルの本を読んでヒントを得ようとした。第二次世界大戦初期においてイギリスはヒトラーの圧倒的脅威の前に裸同然で立たされたという経験を持つ。その戦争の最高責任者であったチャーチルによる回想記「第二次世界大戦」(河出文庫、ISBN 978-4309462134)は、まさに物質的欠乏の中でどのように知恵を絞って戦うかという物語であった。ホンダの名参謀、藤沢武夫がチャーチルを参考にしていたという話も知り、ますます興味を抱いた。そして、この本を読み、身が切られるような第二次大戦初期の苦境を追体験し、それと共鳴するようにして、自分の仕事でもますます戦争的興奮と緊張へと突き進んだ。



がしかし、このときのことを振り返ると(まだその仕事は完成していないから、今もまだ渦中にいると言えるが)、このような「戦争」的発想・態度がよかったのかどうか、今となっては大いに疑問である。一番の問題は、「最も厳しい現実を直視しよう」とすると、どうしても「戦い」として身構えてしまうが、仕事をワクワクと楽しむという心が疎かになってしまうことだ。戦争意識で仕事をすると、道中の花を楽しむ心の余裕が無くなってしまう。殺伐、である。

そしてこのことは、仕事の成否に最も重大な結果を及ぼすものとも言える。なぜなら、エイブラハムの説く「引き寄せの法則」が働くならば、「いい気分であること」が成功への最も近道であるとされているからだ。私がやっていたことは、結局のところ、「ストックデールの逆説」を実践しようとした結果、川の流れに逆らって全力でカヌーを漕ぎ続けたが、目的地は下流にあった、ということではなかろうか。諸条件の不足、物質的欠乏、時間的欠乏に焦点を当て続けて、結果、困難な事態を引き寄せただけかもしれない。少なくとも引き寄せに法則の見地からは、そのようにしか見えない。

そこで疑問となるのは、「ストックデールの逆説」と「引き寄せの法則」は、両立しないのかということだ。エイブラハムのいうように「引き寄せの法則」が宇宙の絶対法則だというならば、「ストックデールの逆説」のほうが、実は誤りなのであろうか?

いや、そうではなく、「最も厳しい現実を直視せよ」というのは、逆説の片面にすぎない、ということを私は忘れていたのだろう。ストックデールが言ったことをもう一度繰り返すと、「最後にはかならず勝つという確信、これを失ってはいけない。だがこの確信と、それがどんなものであれ、自分がおかれ ている現実のなかでもっとも厳しい事実を直視する規律とを混同してはいけない」であった。「最も厳しい現実を直視」した結果、諸条件の悪化や、欠乏を直視して、うちのめされつつ、それらを何とかしようと躍起になっているとしたら、それは既に「最後にはかならず勝つという確信」を失っているのではないか?「ストックデールの逆説」とは、「最も厳しい現実」を直視しつつも、なお道中の花を楽しむような心を維持せよ、ということではなかろうか

おそらく、ジェームズ・C・コリンズが、飛躍企業を調査する中で感じていたことは、道中の花を楽しむ心だったのではないか。そして実際に「ビジョナリー・カンパニー 2 - 飛躍の法則」には、飛躍企業の中の生き生きとした社風が幾度も描かれている。無我夢中で仕事をしていたが、ともかくいい仲間に恵まれていて、楽しかった、という調子である。戦争状態の殺伐たる社風ではなかった。

「ストックデールの逆説」を、「引き寄せの法則」を元に、書き直すなら、例えば、このようになるだろう。「最も厳しい現実を直視しなさい、しかし、最後に自分が勝利を収めている姿をありありと思い描いて、ワクワクとした気分を維持したままで」。

84. マイナス70点から、プラス30点へ。(NLP)

2009年06月30日 17時30分16秒 | マイナス70点か、プラス30点か
鍵は、マイナス70点ばかりを見ている状態から抜け出して、
いかにしてプラス30点を見るかということにあります


引き寄せの法則の存在を認めるならば、
同質のものが引き寄せられて来るわけですから、
マイナス70点ばかりを見ている人には
慣性力のようなものが作用して、
どんどんマイナス70点ばかりを見るようになります。

したがって、放ったらかしにしていたのでは
事態は全く改善されません。
この点が、「ポジティブシンキング」という言葉の盲点です。
そもそもポジティブな側面を見る、ということが出来ない状態にあるのです。
もちろんここを上手く突破できる人もいるでしょうが、
多くの「ポジティブシンキング」の人は
マイナス70点の側面を見たままで、
「これでも大丈夫、なんとかなるさ」と
開き直っているだけです。
そこには何の発見も気づきもなく
そして事態の改善もないのです。

「それを見ないようにする」ことは不可能だという
有名な命題があります。
問題を見ないようにするためには、一度それを見てから目をそらす必要があります。
ポジティブシンキングの人、楽観的な人の多くは
この不可能な命題を達成しようとがんばっているかのようです。
そして結局、問題の側、マイナス70点の側だけを見ているのです。

ではどうすればよいのか。

エイブラハム流の転換のプロセスもよいですが、
今日は別の方法をご紹介しましょう。

NLP(神経言語プログラミング)と呼ばれる
実践的な心理学技術体系の中に
批評家 critic を助言者 advisor にするという技術があります。
「NLPコーチング」、ロバート・ディルツ著、p. 264)

book


以下に引用しながら、ご説明します。

1. あなたの批判はどのようなものですか?
例) 「こんな目標うまくいく訳が無い」

2. その批判に隠れた肯定的意図(または価値)は何ですか?その批判を通じてあなたが守ろうとしているものは何ですか?
例) 「目標をできるだけタイムリーで達成可能なものにしたい」

3. その意図を生かし、「どうすれば、どうやって、どのように(How)」の形で質問するとどうなりますか?


少し、説明がいるかもしれません。
この NLP での基本的な考え方として、
すべてのものには肯定的な意図がある
ということを前提にしています。
お気づきでしょうが、この肯定的な意図に気づく、ということがすなわち、
プラス30点の中身を発見する、ということに他なりません。

上の例では、「こんな目標うまく行く訳が無い」という批判が与えられます。
これは明らかにマイナス70点的なモノの見方です。
うまくいく、という100点に対して、そこには到達しない、と述べているのですから。

このような強力なマイナス70点的な批判は、しかし
同時に最も強力な肯定的意図を秘めている可能性があります。
この裏には肯定的意図がある!、と思って探しに行く必要があります。

そのとき非常に単純でかつ有効な問いが、
どうすれば、どうやって、どのように」つまり、
英語ならば「How?」という質問形式です。

How?という質問は、具体的な答えが見つけやすいのです。
Why?という質問は、ほとんどの場合、明確な答えを得るのが難しいです。

「批判は分かった。じゃ、どないしたらええねん?

という感じですね。

これは他人からの辛辣な批判にも使えますが、
自分自身による自己批判に対しても大変有効です。
インナーゲームでいうところのセルフ1によるセルフ2への批判ですね。

是非、お試し下さい。

83. マイナス70点の音楽、プラス30点の音楽

2009年06月29日 21時26分44秒 | マイナス70点か、プラス30点か
音楽にも、マイナス70点の音楽と、プラス30点の音楽というものがあります。

マイナス70点の音楽というのはとてもしょうもないものです。
一方、プラス30点の音楽というのは、技術にアラがあっても
聴く価値があったと人に思わせるものです。

マイナス70点の音楽というのは、
欠落の音楽なのです。
本当はこのように演奏したいけどできていない、
本当はこのように歌いたいけどできていない、
という引き算の部分に心が奪われているのです


マイナス70点の音楽のメッセージは
欠乏や不足です

そこには中身がありません。

あるいは、僕は技術不足をこのように克服しました、
という自慢も、マイナス70点の音楽です

見ているものは少し違いますが、
やはり引き算の部分に心が奪われていることに
変わりはありません。
音大で高度な専門訓練を受けたようなプロの演奏家であっても
このような音楽をしている人は多いことでしょう。

では、プラス30点の音楽というのはどんなものでしょうか。
今すでに持っている30点分の音楽表現の引き出しで
実現できるものに心を傾けている音楽です

今そこに存在している音楽に心を傾けている状態です。

未熟なものであっても、このような音楽には中身があります。
だから聴くに値するのです。
小学校の音楽会でも、このような音楽に触れる機会はあります。

中には自己陶酔に浸って
実際には30点しかないのに
100点をつけようとする音楽
もあります。
これは実は、今そこに存在している音楽の中身に
心が向っていないからこそ、
このような無茶な評価が可能なのです。
したがってこのような音楽も非常に聞き苦しいものです。

82. マイナス70点か、プラス30点か(上司と部下編)

2009年06月28日 15時09分37秒 | マイナス70点か、プラス30点か
上下関係で難しいのは、部下が問題を抱えている時に
どうやって指導したらよいかということでしょう。

仕事ができない部下がいたとします。
そのとき上司であるあなたは
部下のマイナス70点の側面を見ています。

このくらいの仕事が出来て当たり前、という合格点に対して
どれだけ下回っているかを数えているのです。
これは気分が悪いですね。
暗い側面を見ていますから。

なんとかしなければならん、と思って
叱り飛ばしてアレをやれコレをやれと尻を叩いてみますが、
当人もそれなりには頑張っているようだけども
どうも問題が解決しない。
それでまた叱り飛ばす。
怒られて、部下はまた頑張ろうとするけども
それでも期待通りの結果が出ない。

こういう状態はしんどいですね。
このとき、部下も上司も、揃ってマイナス70点の側を見ています

上司は、部下の不足している点、至らない点を数えて
それを直せと躍起になって指導しますが、
部下はなかなかそれを吸収することができません。

マイナス70点の側を見ている上司は
不快な感情の中にいます。
その感情の中から、部下に対して説教を試みても
なかなか効果を発揮しません。
怒りをこらえながら、
部下が抱えている問題をグサッと指摘して
改善を要求するわけですが、
結末は2通りくらいあります。

問題をグサッとしてきされた部下は
自分の人格が否定されているように感じて
耳に、あるいは心に蓋をしてしまい、
それを受け入れることを拒絶してしまう。
童話「北風と太陽」の北風、と同じ結末ですね。

あるいは、そこまでも至らずに、
上司が怒りの感情を自分に押し付けて来た
と感じて迷惑に思い、
やはり受けれいることを拒絶してしまう。

聴いたフリだけして結局は聞き入れないわけですから
問題が解決に向かう筈はありません。
恐怖政治によって縛り付けてなんとか思い通りに動かすということは
出来るでしょうが、本人の成長とは関係のない話になってしまいます。

上司としては、そこでなんとかして
マイナス70点の状況をひっくり返して
プラス30点の要素をみつけることから始めるほうが
近道だと思われます。

そうやって怒られてばかりいる部下は自己評価が低くなっていますから、
まずは彼の存在というプラスの得点を発見して
認めてあげるというのが一手です。
あるいは、失敗続きの中にも必ず含まれている
小さな成功を発見して教えてやるということもあるでしょう。
ポイントは上司自らが、プラスの方を向くということだと思います。

81. マイナス70点か、プラス30点か(引き寄せの法則、転換のプロセス編)

2009年06月27日 13時15分22秒 | マイナス70点か、プラス30点か
ひとつの物事は、正負のふたつの面を持っています。

肯定的な面と、否定的な面があります。
積極的な面と消極的な面があります。
すなわち、マイナス70点という欠落の側面と、
プラス30点という豊かな側面があります

これが原則です。

なぜ我々の思考は
光と影、陽と陰、というように
いつも二元論的なのか、二項対立なのかというのは古来から
哲学の重要課題でしたが、
それがこの世界のルールなのだ、と理解するのが
さしあたってはよいように思います。

強烈なピンチというのは、
強烈な負の側面を持っていて
しかもそれが強調されているわけですが、
それでも上の原則から考えますと、
そこには何かしら肯定的な側面がある筈だ、ということになります。

むしろ影の部分が濃いだけに、
その向こう側にある光の面は
まばゆいばかりに輝いているのかも知れません。


しかし、我々には光の面はちっとも目に入ってきませんから、
強烈な影の部分を見てしまいます。
そして心にダメージを受けてしまいます。

この状態のままで頑張っていても
影から抜け出すことは難しいようです。

どうすればよいか?

真っ黒な影を落とす巨大な岩が目の前に転がって来た時、
ひっくり返して、光の面をみつけるのです

これはみつけよう、と決心しないとできません。
逆にいえば、決心することで、見つけることができるでしょう。
この決心は、責任をとる、ということでもあり、
また、自由を獲得する、ということでもあります。

エイブラハム流の「引き寄せの法則」では、
このひっくり返す作業を「転換のプロセス」と呼んでいます。

この「ひっくり返し」はとても重要です。
なぜならどこかで、いつか、自分で、ひっくり返さない限り、
影の面とずうっとお付き合いすることになり、
決してよい気分を味わうことができないからです。

80. マイナス70点か、プラス30点か(ポジティブシンキング編)

2009年06月23日 19時03分48秒 | マイナス70点か、プラス30点か
もともとこのマイナス70点か、プラス30点かのお話は、
エイブラハムの語る「引き寄せの法則」を勉強する中で出来たものですが、
出来上がってみると、
インナーゲームの文脈で語ってみても面白いということに気づきました。

さて、このお話、いわゆるポジティブシンキングなのでは?と思われた方も多いでしょう。
実際、物事の積極的な側面に目を向けて行く訳ですから
ある意味ではポジティブシンキングそのものと言えます。

しかし、引き寄せの法則公式ブログのにしきさんは
引き寄せの法則はいわゆるポジティブシンキングとは全く関係ない、
というようなことを再三おっしゃっています。

私自身も、この「マイナス70点か、プラス30点か」というお話を
単にポジティブシンキングと呼ぶにはかなりの抵抗を覚えます。

もう少し語ればこういうことです。
ここで語っている内容は、たしかにポジティブシンキングに近いものです。
しかし、逆に、ポジティブシンキング、という言葉をスタート地点にしたときに、
この「マイナス70点か、プラス30点か」というお話で語っている内容には
辿り着けないように思えてならないのです。

具体的にお話ししましょう。
ある目標を掲げて、予定日までに
ここまでの成果を挙げようと頑張ったとします。
しかし残念ながら、その目標を達することができなかった。
それどころか、失敗まみれで未解決の問題が山積し
惨憺たる状況だとしましょう。
このとき、「じゃあ、ここはポジティブシンキングでいきましょう!」、
と言われたら、どのように考えるでしょうか。

問題だらけだけど、こんなものは大したこと無い、と思えばいいんですよね?
目標にはまるで達してないけど、これでいい、幸せだ、と思えばいいんですよね?
失敗まみれで解決していないけど、これは素晴らしい、と思えばいいんですよね?

こんな方向へ行ってしまいませんか?

これはプラス30点の中身を考えるということとは
まったく違う方向です。

マイナス70点だけを見つめている人が
「ポジティブシンキングをしなさい」と言われると、
マイナス70点の内容そのものを「無理して」ポジティブに受け止めようと
してしまうと思うのですね。
なぜなら、その人はマイナス70点の内容ばかりを見ていて
(目標に達していない、問題が解決していない、失敗が多い)、
それ以外のことについては情報が少ない状態ですから、
マイナス70点の内容以外に、ポジティブシンキングの対象がないのです。

そして、これはうまくいきません。
心の中でマイナス70点だ、と受け入れてしまったことを
無理矢理プラスだ、と言い聞かせても
しんどいだけです。

別の例を出しましょうか。
インナーゲーム的な例になりますが、
楽器をどれだけ練習しても音程がボロボロのままだとしましょう。
このとき「ポジティブシンキングをしなさい」と言われたら
どう考えるか?

「音程なんか外れても大丈夫だ」
「外れているように思うけど実は音程は合っているのだ」

という方向に行ってしまいませんか?

これもマイナス70点を無理矢理100点だと思い込もうとしていることになります。
これは長続きせず、すぐにやはり100点ではない、ということに気づいて
余計落ち込むようなことになりがちです。


プラス30点に目を向ける、というのは
こういうことではないのです。
たとえばエイブラハムは「違うストーリーで語る」と言っています。
これは今まで見逃していた、価値ある事実に目を向けることです。
何かを「発見」することが必要なのです。

最初の例ならば、
目標が到達できなかったということに目を向ける代わりに
その期間にどれだけの経験ができて
どれだけ成長することができたかということを「発見」します。

後のほうの例ならば、
音程が合わないという事実はそのままに
そのとき自分がどのような体の使い方をしているか
音楽の捉え方をしているか
という過程に目を向けて、
自分ができていることを「発見」します。


ゴールからどれだけ離れているかという誤差を見て
修正を加えるという「フィードバック制御」的な
考え方が蔓延していますが、
これは「マイナス70点」情報による制御、です。
人生でこれを行うと、
驚くほど短時間で、不幸な気分を味わうことができます。
「欠乏感」に焦点を当てるからです。

この「罠」から脱するためには
足下に転がっているプラス30点に目を向けて
そこに意義を「発見」することが必要だと考えます。