「イシューからはじめよ」安宅和人著を読んでいる。といっても、半分くらいのところで止まっているのだが、これも前回紹介した「失敗の本質」と並んで、非常によい本だと「思う」。というのは、この本も、かなり落ち込ませてくれるからだ。
「脱・犬の道」というのが著者のメッセージなのだが(犬の道の対極として「イシューからはじめる」がある)少し説明しておくと、下の図の通りである。イシュー(issue, 解くべき問題の価値)と解の質という二つの軸をまず考える。仕事をする際に、誰でも最初はへたくそな初心者で、何も分からずに手を付けるので、価値の低い問題を低い質で解こうとするところからスタートする。図の左下の角である。ここから、右上のとてもつもなく重大な問題を圧倒的な質で解決するというところへ行けば、成功者である。で、どうやって右上に行くか?ほとんどの人は、ともかく努力を注ぐことで技術を磨き「解の質」を向上し(左下から真上に移動し)、その後で問題の質を高めて行こうと考える。しかし著者はこの道を「犬の道」と呼んで、きわめて危険であり決して成功しないので絶対に避けるべきだという。解の質を上げるのには、問題の質が悪かろうが関係なく、膨大な労力と時間が必要であり、まず真上に進んで行くだけで疲弊してしまい、それから右へ「問いの質の向上」を目指すところまでたどり着けない、と説く。
「イシューからはじめよ」安宅和人
私自身、今までの仕事を振り返っても、今正に進行中の仕事にしても、ともかく努力を惜しげなく投下して「解の質」を上げては来たが、「問い(issue)の質」については、いつも後回しで「困ったね」と言ってばかり。汝の道は「犬の道」なり、と言われると「仰る通り!」と土下座でもしたくなる。ここが落ち込ませるところだ。
そして著者の推奨する方法は、本の題名の通り、「イシューからはじめる」、すなわち「解の質」の向上を後回しにして、質はグダグダでよいから「重要きわまりない問題、イシュー」を見極めるところから始めることなのである。問題さえよいものを最初に選んでおけば、後で質を向上させるための時間は十分に確保できる、というわけである。というより、こうするより他に時間を浮かせる方法はない、と言っている。
ところで、この本は「圧倒的に生産性が高い人の研究スタイル」というブログ記事が下地になっている。生産性とはそもそもなんだろうか?それによって、よいイシュー、解くべき問題の選び方というのも変わってくるだろう。
著者は本の中で、生産性を、アウトプットをインプットで割ったものとして定義している。つまりどれだけ効率がよいかという尺度が生産性そのものだというわけだ。
ひょっとすると私の考えがまだ浅いのかもしれないが、この定義は十分に便利な気はするものの、生産性あるいはproductivityというより、「効率」とはっきり言った方がよいような気がする。私のイメージしているものとはちょっと違うようだ。生産性の定義として割り算を使うのはちょっと違うというのは、極端な例を考えてみれば分かってもらえるかもしれない。
「相当にくだらない小さな仕事を、驚異的な手抜きでやってのけたら、生産性がよい、productiveだ。」どうだろうか?効率は確かに良いのだろうが、結局小さい仕事をやったにすぎないのだから、生産性も小さい、というほうが自然ではないだろうか?
あるいは偉大な仕事を成し遂げたが、その完成を見る前に無理がたたって命を落としてしまったとしよう。その人の命をいったいいくらと計算するかという問題になるが、命を注ぎ込んだ、命は値段のつけようがない、したがって無限大だ、と考えたら、偉大な業績であっても無限大で割り算をするので、生産性はゼロだ。ちょっと直感的理解と違っていないだろうか?
最近私が気に入っている生産性の定義は、やった仕事がどれだけの変化と影響を周囲に引き起こすか、という結果論に頼るものだ。命を削ってやろうが、遊び半分で怠けながらやろうが、その仕事によって、広い範囲に大きな影響を及ぼし、その仕事の有無によって世界が変わってしまったとすると、それは生産性が非常に高かった、と言えないだろうか?どんなに高い質でどんなに犠牲を払って成し遂げられた仕事であっても、それによって誰も影響を受けなかったなら、それは小さい仕事だったと言うことで、生産性も小さかったと考える。どうだろうか?
「脱・犬の道」というのが著者のメッセージなのだが(犬の道の対極として「イシューからはじめる」がある)少し説明しておくと、下の図の通りである。イシュー(issue, 解くべき問題の価値)と解の質という二つの軸をまず考える。仕事をする際に、誰でも最初はへたくそな初心者で、何も分からずに手を付けるので、価値の低い問題を低い質で解こうとするところからスタートする。図の左下の角である。ここから、右上のとてもつもなく重大な問題を圧倒的な質で解決するというところへ行けば、成功者である。で、どうやって右上に行くか?ほとんどの人は、ともかく努力を注ぐことで技術を磨き「解の質」を向上し(左下から真上に移動し)、その後で問題の質を高めて行こうと考える。しかし著者はこの道を「犬の道」と呼んで、きわめて危険であり決して成功しないので絶対に避けるべきだという。解の質を上げるのには、問題の質が悪かろうが関係なく、膨大な労力と時間が必要であり、まず真上に進んで行くだけで疲弊してしまい、それから右へ「問いの質の向上」を目指すところまでたどり着けない、と説く。
「イシューからはじめよ」安宅和人
私自身、今までの仕事を振り返っても、今正に進行中の仕事にしても、ともかく努力を惜しげなく投下して「解の質」を上げては来たが、「問い(issue)の質」については、いつも後回しで「困ったね」と言ってばかり。汝の道は「犬の道」なり、と言われると「仰る通り!」と土下座でもしたくなる。ここが落ち込ませるところだ。
そして著者の推奨する方法は、本の題名の通り、「イシューからはじめる」、すなわち「解の質」の向上を後回しにして、質はグダグダでよいから「重要きわまりない問題、イシュー」を見極めるところから始めることなのである。問題さえよいものを最初に選んでおけば、後で質を向上させるための時間は十分に確保できる、というわけである。というより、こうするより他に時間を浮かせる方法はない、と言っている。
ところで、この本は「圧倒的に生産性が高い人の研究スタイル」というブログ記事が下地になっている。生産性とはそもそもなんだろうか?それによって、よいイシュー、解くべき問題の選び方というのも変わってくるだろう。
著者は本の中で、生産性を、アウトプットをインプットで割ったものとして定義している。つまりどれだけ効率がよいかという尺度が生産性そのものだというわけだ。
ひょっとすると私の考えがまだ浅いのかもしれないが、この定義は十分に便利な気はするものの、生産性あるいはproductivityというより、「効率」とはっきり言った方がよいような気がする。私のイメージしているものとはちょっと違うようだ。生産性の定義として割り算を使うのはちょっと違うというのは、極端な例を考えてみれば分かってもらえるかもしれない。
「相当にくだらない小さな仕事を、驚異的な手抜きでやってのけたら、生産性がよい、productiveだ。」どうだろうか?効率は確かに良いのだろうが、結局小さい仕事をやったにすぎないのだから、生産性も小さい、というほうが自然ではないだろうか?
あるいは偉大な仕事を成し遂げたが、その完成を見る前に無理がたたって命を落としてしまったとしよう。その人の命をいったいいくらと計算するかという問題になるが、命を注ぎ込んだ、命は値段のつけようがない、したがって無限大だ、と考えたら、偉大な業績であっても無限大で割り算をするので、生産性はゼロだ。ちょっと直感的理解と違っていないだろうか?
最近私が気に入っている生産性の定義は、やった仕事がどれだけの変化と影響を周囲に引き起こすか、という結果論に頼るものだ。命を削ってやろうが、遊び半分で怠けながらやろうが、その仕事によって、広い範囲に大きな影響を及ぼし、その仕事の有無によって世界が変わってしまったとすると、それは生産性が非常に高かった、と言えないだろうか?どんなに高い質でどんなに犠牲を払って成し遂げられた仕事であっても、それによって誰も影響を受けなかったなら、それは小さい仕事だったと言うことで、生産性も小さかったと考える。どうだろうか?