直江兼続が築いた「道谷坂陣」 ※上の写真は、道谷坂陣のイメージ図
豊臣秀吉の死後、会津、中通り一帯を会津領として治めていた上杉景勝、家老の直江兼続が天下取りを行う工作を始めた徳川家康と対立しました。
家康は会津征伐を決意し北上してきましたが、反家康の立場でいた石田光成らの挙兵を知り、会津征伐を中止、反転西上して光成の討伐に向かい、「関が原の戦い」が始まりました。
このため、徳川軍と上杉軍が直接対決することは無かったことから、「東北の関ヶ原」「幻の白河決戦」と言われております。
この時、家康の会津征伐に対して景勝は長沼城を防衛の拠点としての機能性を兼ね備えた城として強化しました。
また、城の西五キロには勢至堂峠入口(国道294号、至会津若松市)を守備するため道谷坂に砦を築きました。
これが道谷坂陣です。
ここには、8,000人の兵とともに景勝本陣が置かれていたそうです。
道谷坂陣跡(現況)
街道を取り込んで、堀、土塁、堅堀、堀切、平場で複雑に防御されています。
国道改修工事で破壊された部分もありますが、よく残っており、尾根には軍道もあります。
豊臣秀吉の死後、会津、中通り一帯を会津領として治めていた上杉景勝、家老の直江兼続が天下取りを行う工作を始めた徳川家康と対立しました。
家康は会津征伐を決意し北上してきましたが、反家康の立場でいた石田光成らの挙兵を知り、会津征伐を中止、反転西上して光成の討伐に向かい、「関が原の戦い」が始まりました。
このため、徳川軍と上杉軍が直接対決することは無かったことから、「東北の関ヶ原」「幻の白河決戦」と言われております。
この時、家康の会津征伐に対して景勝は長沼城を防衛の拠点としての機能性を兼ね備えた城として強化しました。
また、城の西五キロには勢至堂峠入口(国道294号、至会津若松市)を守備するため道谷坂に砦を築きました。
これが道谷坂陣です。
ここには、8,000人の兵とともに景勝本陣が置かれていたそうです。
道谷坂陣跡(現況)
街道を取り込んで、堀、土塁、堅堀、堀切、平場で複雑に防御されています。
国道改修工事で破壊された部分もありますが、よく残っており、尾根には軍道もあります。