天地の種子の事
親父殿(但馬の守宗矩)曰く。この教えは六ヵ敷して言い分けるのは難しい。沢庵和尚に尋ねるべきゆえんである。自分はこの理由を物語してみれば、和尚は言った。これは八識の理を知らなければならない。これは次のような内容である。
麻(ま) 円成性 過去の原因を知ろうと思えば
縄(じょう) 依他性 その現在の結果を見てみなさい
蛇 偏計性
因 善悪の種を植える
未来の結果を知りたければ
像 両露也 その現在の原因を見なさい
果 果の成る処
物の色を赤と見、白と見初めて一念、眼・耳・鼻・舌・身・色・声・香・味・触を知るに付けて、初めて生じる一念(思い)なのである。いまだ分別が生じない前の時の事なのだ。それからしばらくしてから区別が生じて、この白い物は雪なのか、梅の花なのかと分別するところがこの意味なのである。これを第六識という。眼・耳・鼻・舌・身を前に五識という。これに意識を加えて、第六識という。さてこれは雪ではない。梅の花だと決定したところ、これを第七識という。すでに七識にて決定し終わって胸の内に何も無くなるところを第八識という。これは八識真如という本文の白地である。すでに本文の白地にして、一 一塵も無いと思えば、また時として彼一念に起こった白梅が忽然として胸に出てくる。これは第八識に種が残っているためである。一切の善悪の所業がこの八識に残って、この八識から出て生死流転するのだぞ。その故に、人が死ぬときは、前の五識から死んで行くのである。これを「 識」という。次の六識の意識が息絶える。次に七識から八識の空き所に入って、また輪廻を出るときは、八識より七識に出てきて、七識より六識の意識が生じて五識、五識に出てきて得、足りて今日の自分になるのである。七識・八識を、細識という。生じるときは細より「 」に出てきて、死ぬときは「 」より細に入る。人が死ぬときは、眼・耳・鼻・舌・身から死んでいくものなのである。これを「識分の沙汰」という。この次てに物語が面白いので書いておいた。
一二因縁
無明行識名色六入触受愛取有生老死自然という事
白は自性、自は本体、然は本然、然は所という心だよ。自は天にもつかず、地にもつかず、独立したものである。自然は法性である。草木は人も極まらずに出来たものであれば、自然に似ていると例えた心なのだよ。例えば、その人に会いたいなあと思うに、心ならずも約束もしないのに行き会う時、自然に逢ったと言うのは、自然に似たという心だよ。「 万住尊、秋水家々月、彼此出家児、礼亦不可 、三界唯心、万法唯識」これにかの歌
さびしさに 宿を立ち出で 眺むれば いすくも同じ 秋の夕暮れ 良せん法師
水月(間合)の事についてその影の事、位を盗む心持の事
古語に曰く
心は水中の月に似、形は鏡の上の影の如し
親父殿曰く。敵の身長、自分の身長を三尺(91cm)の教えのように間合いを取ること。これまでは敵の攻撃が当たらない目安なのだ。この位置を体と足で取り、相手に知れぬように、水月(間合)の中に取り込むのを「盗む」というのである。水の内(間合いの中)においては、攻撃態勢で打つべし。それにより、間合いの内に入ることを映り、写すという心持に専心するのである。これは一円に相手の攻撃が当たらない位置である。爺様(石舟斎宗巌)の目録には別の意味は書いていない。また曰く。敵よりも身長が高い場合や低い場合もあろう。その身長に相当分を場へ写し取る心持を、その影という。また曰く。映り、写すというのは、水に影を映し、写す心を映って見るところが大事なのである。
親父殿(但馬の守宗矩)曰く。この教えは六ヵ敷して言い分けるのは難しい。沢庵和尚に尋ねるべきゆえんである。自分はこの理由を物語してみれば、和尚は言った。これは八識の理を知らなければならない。これは次のような内容である。
麻(ま) 円成性 過去の原因を知ろうと思えば
縄(じょう) 依他性 その現在の結果を見てみなさい
蛇 偏計性
因 善悪の種を植える
未来の結果を知りたければ
像 両露也 その現在の原因を見なさい
果 果の成る処
物の色を赤と見、白と見初めて一念、眼・耳・鼻・舌・身・色・声・香・味・触を知るに付けて、初めて生じる一念(思い)なのである。いまだ分別が生じない前の時の事なのだ。それからしばらくしてから区別が生じて、この白い物は雪なのか、梅の花なのかと分別するところがこの意味なのである。これを第六識という。眼・耳・鼻・舌・身を前に五識という。これに意識を加えて、第六識という。さてこれは雪ではない。梅の花だと決定したところ、これを第七識という。すでに七識にて決定し終わって胸の内に何も無くなるところを第八識という。これは八識真如という本文の白地である。すでに本文の白地にして、一 一塵も無いと思えば、また時として彼一念に起こった白梅が忽然として胸に出てくる。これは第八識に種が残っているためである。一切の善悪の所業がこの八識に残って、この八識から出て生死流転するのだぞ。その故に、人が死ぬときは、前の五識から死んで行くのである。これを「 識」という。次の六識の意識が息絶える。次に七識から八識の空き所に入って、また輪廻を出るときは、八識より七識に出てきて、七識より六識の意識が生じて五識、五識に出てきて得、足りて今日の自分になるのである。七識・八識を、細識という。生じるときは細より「 」に出てきて、死ぬときは「 」より細に入る。人が死ぬときは、眼・耳・鼻・舌・身から死んでいくものなのである。これを「識分の沙汰」という。この次てに物語が面白いので書いておいた。
一二因縁
無明行識名色六入触受愛取有生老死自然という事
白は自性、自は本体、然は本然、然は所という心だよ。自は天にもつかず、地にもつかず、独立したものである。自然は法性である。草木は人も極まらずに出来たものであれば、自然に似ていると例えた心なのだよ。例えば、その人に会いたいなあと思うに、心ならずも約束もしないのに行き会う時、自然に逢ったと言うのは、自然に似たという心だよ。「 万住尊、秋水家々月、彼此出家児、礼亦不可 、三界唯心、万法唯識」これにかの歌
さびしさに 宿を立ち出で 眺むれば いすくも同じ 秋の夕暮れ 良せん法師
水月(間合)の事についてその影の事、位を盗む心持の事
古語に曰く
心は水中の月に似、形は鏡の上の影の如し
親父殿曰く。敵の身長、自分の身長を三尺(91cm)の教えのように間合いを取ること。これまでは敵の攻撃が当たらない目安なのだ。この位置を体と足で取り、相手に知れぬように、水月(間合)の中に取り込むのを「盗む」というのである。水の内(間合いの中)においては、攻撃態勢で打つべし。それにより、間合いの内に入ることを映り、写すという心持に専心するのである。これは一円に相手の攻撃が当たらない位置である。爺様(石舟斎宗巌)の目録には別の意味は書いていない。また曰く。敵よりも身長が高い場合や低い場合もあろう。その身長に相当分を場へ写し取る心持を、その影という。また曰く。映り、写すというのは、水に影を映し、写す心を映って見るところが大事なのである。