十兵衛と語ろう

十兵衛と語ろう

月之抄20

2010-12-28 20:07:46 | 月之抄
 五観一見の事
爺様の目録に五観一見の位、第一水月(間合)、第二その道を塞ぐ風体三寸(9cm)に心の事、第三神妙剣の事、第四一尺(30cm)に虚空の懸の事、第五左足の位を知ること、一見の事、捧心の目付と書かれている。また曰く。五観一見は口伝。神妙剣の事、水月について太刀合い三寸(9cm)の事、歩風体と書いてあるものもある。親父殿の目録には、神妙剣、水月、身の懸かり、左足、捧心、この五つを五観一見の教えと定めてある。この五つの内より、一見と見出したのは、捧心である。これは秘事である。一見を見る心持ちに色々多い。映すという心持である。目と心と一度にかかるという心持である。日を新しくするというのは、見つめた目には細かなところが見えないので、新しい心持を用いるのである。打つに分かれるというのも、捧心の一見を見ると一度に、手を分かれて打つ心持である。没じ味の手段の内に心持ち有り。打ち掛ける味に心を入れ、打ちの内に打つ有るのも、拍子という心の内に使う味がよい。茂拍子も打とうと思う心持ち出来る所、自分の方から仕掛け打つ心持である。また曰く。手裏剣、病気、この四つを一つにして一見と見るのである。五つの内より、一見と見るのは、手裏剣である。水月(間合)、神妙剣、体、手足、この四つを太体に用いるのである。観察である。手裏剣を見るために、病気を去ることが大事であると、書いたものもある。曰く。五観一見という心持は、教えは所作(動作)、体に受ける所の惣太体は五つであって、五つの内から見る心一つを専らとして一見という心持である。四つは観に用いるのである。この一見と見る心を指してこれは極めて一刀の真実の無刀という。
 三つの教えの事について一つに去り空に構える心
親父殿曰く。一つに去り、目付よりは空の拍子の方が速い。空よりは又捧心の方が速いのである。その後で、一つの早い捧心を心にかけることで、仕損じては空へ合うか、一つに去るところへ合うかである。三つの内では、唯捧心一つを専らとしなさい、という心持である。爺様の目録にはこれ以外の意味を書いていない。曰く。これは、上中下の三段である。上を思う心である。下は自然に成る心持である。目付の心次第次第に細かに見あけた心持である。
 起醒の事
爺様の目録にある。これは拳をよくよく目付をして、起こることに専心すること。終わるのを醒というのである、と書いてある。親父殿の目録に、この意味は書いていない。また曰く。何事にも用いる事が出来る教えである。起こり醒める所、自分は人にするべきでない。用い方は考えなさい。
 真の捧心の事について一尺二寸
親父殿曰く。昔は腕の、肘の曲がり目から拳までを一尺二寸に定め、この間の捧心を見ようと思えば、見やすい心持である。体、捧心は心の発する所であるならば、それに限ってはいけない。五体の内で、動き働きのない前に、敵の心の発する所を、見つける事が、捧心の真の位である。まずまず四つの所に専念して心を掛けること。敵の眼と、足と、身の内と、一尺二寸のこの四つの所に知れるものである。心の行くところには目をやりたくなり、懸かろうと思えば、足は出るものだ。心に思う筋があれば、身のこなしは普段と変わり、見えるものである。一尺二寸は元より発するのである。この発するところ五体の内では何処でも捧心と知らなければならない。爺様の目録には捧心の事については一尺二寸であり、口伝。萌す所に二つの心持ちがある。萌すと心に射すとの変わりがあるのである。大事口伝と書かれているものがある。
 移らせるという心持の事
親父殿の目録にこの注釈はない。爺様の目録には有る。自分の心の下作りが正しければ、敵は攻撃のやる気を失って、自分に移る心持は口伝について表裏迎えに、よく敵が突くように仕掛けるのを、移らせる心持であると書かれているものもある。また曰く。この教えは、仕掛けても仕掛けなくても、先を待つ心である。これは徳川家康公が稽古の時分、爺様の目録にここに書いてあるようである。その以後の目録には書いていないのである。