一に去る事
親父殿曰く。病気の内を、動き一つに去れという事である。三つの病を去って、手裏剣一つにしなさいという事である。これより細かくに見上げた心持がある。爺様の目録にはこれ以外の事は書いていない。また曰く。教えの数々を思う事も病であるので、いずれも皆去って、一心一つに至る心持、一つ去る真の位である。ここに至って見れば、目付次第に細かに、見なし上げて、空棒心となるところの目付、観の目付に至れば有るの目付は見えやすい心持である。
空の拍子の事
親父殿曰く。中段下段の太刀あがらなければ、切ることがない。そのことにより、上がる所へ拍子を用いるのである。上段の太刀はいづれも体を離れた構えであるので、上げることができなければ、下ろす事一つだけしかない。下ろす所は見えにくいものである。これにつき、見えない先、現れていない先を心につけることに専心すること。心に空あり。空というのは見えないところである。工夫の心持がもっぱらの大事である。爺様の目録にはそれ以外の事は書かれていない。また曰く。空というのは二つある。虚空と心の空の違いは、本空、凡空とも云う。無私であるところに心を付けなさい。至極である。心は形も無く、色も無い。香りも無い。見えないところを例えた空である。目付や仕掛けや、諸事万事の動きが働き(動き)出す前に、無い処に心を付けなさい、心を指して空と知りなさい。無事であるところを空と知りなさい。現れた所は空の末である、親父殿曰く。空の教えは敵が動き始める心を見知る教えである。迎えを仕掛け、敵が思いつくところを空という。手裏剣の起こり初めの事である。また、青眼の構えにつけるという心持は、また上がるところを勝つのを空の拍子というが、棒心よりは遅い。一つに去るよりは速い。等と書かれている。いずれもこれは、徳川秀忠公が稽古されている時分に書かれている目録に書いてある。
捧心の事
経文に曰く、真言は不思議である、観受すれば無明を除く、一字に千里を含んでいる。即身は法如を証明する、行行円寂に至る、去去原初に入り、三界は客舎のようだ。一心にこれ居ない。
また曰く。これは心の発するところを見る心である。空の内よりこれを見ることが大事である。まだ見えない内に、心をつけることにより、見えるというのである。見えないので、見ようと思う心によってよくなるのである。この目付は思いのままにならないのである。しかし、これを心がければ、空の拍子、一つに去ること、動き三つの段、目付残るところ無く、よく成るのであり、ここを専らと心が来るのである。心が外れるところ捧心一つに限らずあるのである。ここを気ざさせん為に迎え表裏を用いるのである。観察力に精通すれば、何事も見えないという事は無い。観察力により一見と見出す捧心である。爺様の目録には捧心目付迎えの事、逆目付の事が書かれたものがある。抑えこの教えは爺様が初瀬寺に祈請したのに、キセンクンジュシテテかねのを、取り合えず奪い合い、取るもの、取り外すもの、使いの数を知らない、つくつくと見て、得心して、今この捧心の教えとする。偏に観音の違いであると云々。教えの心持は至極である。見の目付である。至極の心持は、見の目付に極まるので、これに専念しなさい。切ろうと思う心が出てくると、太刀の柄を握るものである。握れば腕の筋が張るのである。張る所を見なさい。このところが見えにくいものなのだ。見えにくい処を是非見ようと思えば、観察力に長けるというのは、目で見ないで、見るのである。目を塞いで見る心持ちである。心眼という観察力である。見えた所は心眼で見るのである。この心は空である。空を見るのは心である。心は空である。心が空を見ようと思えば観察力に至るのである。観察力に至れば、無い処に心がある為に、捧心が見えるのである。心を捧げるところである。これが捧心である。思い染める志を見ようとすれば、思い染めない以前、無い処を心がけなければ、見えないのである。爺様の目録に捧心の目付は空おうの拍子の事であると書いたものがある。親父殿の目録に捧心の教えの事、これは先先のちょうちょうである。敵が思いつかない一円に働き(動き)もないところを、無理に仕掛けて打つべし。その心持は目付であり、見えないものである。見えないところを向上の目付というのである。観見の心持は、観の字の心持第一であると書いてある。これは徳川秀忠公の稽古の教えの目録にある。
親父殿曰く。病気の内を、動き一つに去れという事である。三つの病を去って、手裏剣一つにしなさいという事である。これより細かくに見上げた心持がある。爺様の目録にはこれ以外の事は書いていない。また曰く。教えの数々を思う事も病であるので、いずれも皆去って、一心一つに至る心持、一つ去る真の位である。ここに至って見れば、目付次第に細かに、見なし上げて、空棒心となるところの目付、観の目付に至れば有るの目付は見えやすい心持である。
空の拍子の事
親父殿曰く。中段下段の太刀あがらなければ、切ることがない。そのことにより、上がる所へ拍子を用いるのである。上段の太刀はいづれも体を離れた構えであるので、上げることができなければ、下ろす事一つだけしかない。下ろす所は見えにくいものである。これにつき、見えない先、現れていない先を心につけることに専心すること。心に空あり。空というのは見えないところである。工夫の心持がもっぱらの大事である。爺様の目録にはそれ以外の事は書かれていない。また曰く。空というのは二つある。虚空と心の空の違いは、本空、凡空とも云う。無私であるところに心を付けなさい。至極である。心は形も無く、色も無い。香りも無い。見えないところを例えた空である。目付や仕掛けや、諸事万事の動きが働き(動き)出す前に、無い処に心を付けなさい、心を指して空と知りなさい。無事であるところを空と知りなさい。現れた所は空の末である、親父殿曰く。空の教えは敵が動き始める心を見知る教えである。迎えを仕掛け、敵が思いつくところを空という。手裏剣の起こり初めの事である。また、青眼の構えにつけるという心持は、また上がるところを勝つのを空の拍子というが、棒心よりは遅い。一つに去るよりは速い。等と書かれている。いずれもこれは、徳川秀忠公が稽古されている時分に書かれている目録に書いてある。
捧心の事
経文に曰く、真言は不思議である、観受すれば無明を除く、一字に千里を含んでいる。即身は法如を証明する、行行円寂に至る、去去原初に入り、三界は客舎のようだ。一心にこれ居ない。
また曰く。これは心の発するところを見る心である。空の内よりこれを見ることが大事である。まだ見えない内に、心をつけることにより、見えるというのである。見えないので、見ようと思う心によってよくなるのである。この目付は思いのままにならないのである。しかし、これを心がければ、空の拍子、一つに去ること、動き三つの段、目付残るところ無く、よく成るのであり、ここを専らと心が来るのである。心が外れるところ捧心一つに限らずあるのである。ここを気ざさせん為に迎え表裏を用いるのである。観察力に精通すれば、何事も見えないという事は無い。観察力により一見と見出す捧心である。爺様の目録には捧心目付迎えの事、逆目付の事が書かれたものがある。抑えこの教えは爺様が初瀬寺に祈請したのに、キセンクンジュシテテかねのを、取り合えず奪い合い、取るもの、取り外すもの、使いの数を知らない、つくつくと見て、得心して、今この捧心の教えとする。偏に観音の違いであると云々。教えの心持は至極である。見の目付である。至極の心持は、見の目付に極まるので、これに専念しなさい。切ろうと思う心が出てくると、太刀の柄を握るものである。握れば腕の筋が張るのである。張る所を見なさい。このところが見えにくいものなのだ。見えにくい処を是非見ようと思えば、観察力に長けるというのは、目で見ないで、見るのである。目を塞いで見る心持ちである。心眼という観察力である。見えた所は心眼で見るのである。この心は空である。空を見るのは心である。心は空である。心が空を見ようと思えば観察力に至るのである。観察力に至れば、無い処に心がある為に、捧心が見えるのである。心を捧げるところである。これが捧心である。思い染める志を見ようとすれば、思い染めない以前、無い処を心がけなければ、見えないのである。爺様の目録に捧心の目付は空おうの拍子の事であると書いたものがある。親父殿の目録に捧心の教えの事、これは先先のちょうちょうである。敵が思いつかない一円に働き(動き)もないところを、無理に仕掛けて打つべし。その心持は目付であり、見えないものである。見えないところを向上の目付というのである。観見の心持は、観の字の心持第一であると書いてある。これは徳川秀忠公の稽古の教えの目録にある。