十兵衛と語ろう

十兵衛と語ろう

月之抄24

2011-07-31 15:22:24 | 月之抄
一尺八寸の目付の事
 親父殿曰く。片手太刀や身を離れた構え(雷刀や車の構え等)はどちらも、手裏剣よりも上の一尺八寸の動きが重要である。これは極めつけの教えである。その動き一つに心を付けていれば、全ての技は一つになるのである。無刀では、上段の構えなど大きな構えに対しては、そのことを注意して「分ける心持ち」に気を付けなさい。爺様の目「録には、「一尺八寸の教え」は片手太刀に有効であると書かれている。また曰く。一尺八寸とは肩先から拳までが一尺八寸である。「分ける」というのは、片手にて打つために、両手を分けるので分けるというのである。片手太刀は浅く打つのは良くない。深く打つと思いこんで、一尺八寸を十字に絡みかけて打つ心持であること。
西江水の事
 引き歌に
 中々に 里近くこそ 成りにけり あまりに山の 奥を訪ねて
親父殿曰く。心を修めるのに、腰より下に注意をしなさい。この考え一つが重要だ。油断のないこと。疲れてしまったその先に、「捧心」全てに心を付けさせるための教えである。そこに油断の気持ちがあれば、成るものではない。その心持が重要なのである。そのことを忘れない事を「心の下作り」というのである。三重五重にも油断なく、勝てると思うべからず。打てると思うべからず。それに随って油断なくすることが重要だ。上泉武蔵守親もそうであるし、爺様も、これ以外の教えは無いのである。この心の受用を得たならば、もう師匠は不要である。受用を得て、敵の動きを伺い、駆引き、表裏の仕掛けを新しく取りなすこと以外は他に必要な事は無いのである。これは上の無い、至極の極意なのである。爺様の目録には、西江水について心の在り方である、と書いている。心の置きどころ、占める所は一段の大事であり、口伝であると書いてある。引き歌はま一のままである。また曰く。この西江水の教えに、爺様と親父殿で使い方に違いがある。爺様の使い方は、尻をすぼめるのである。親父殿の使い方は、尻を張るのである。尻をすぼめるよりは、張ったほうが身体も手もくつろいで自由になるという。しかし、これはいずれにしても、人によって使いやすい方を使えばいい。詩は替っても、その心の置きどころは一つである。心を定めて静かにすると「捧心」がよく見えてくるのである。これは秘事、至極である。爺様が歳老いて足腰が自由ならざる状態で、冬の寒空に山中で雪隠へ通う途中、滑って倒れそうになった時、この道を得道して悟り西江水と秘した。上なき至極の極意と呼ぶ。ここに至れば万事は一つの心となり、その心は西江水一つに寄せる所となる。
真の活人剣の事
 親父殿曰く。これは新陰流の「タテハ?」である。「おっとって?」ひっさげる構えである。太刀の中にもこれはある。新当流では下段の太刀を殺人刀として、殺して用いない。陰之流では活人剣であるとして、生かして用いるのである。心は構えを要しないからである。下段の活人剣は構えでなく、敵の動きに随って構えとするので、殺人刀を陰流では活人剣として使うのである。上段・中段・下段・長い武器・短い武器何れも構えなき所を構えとする心持ちを真の活人剣とするのである。構えなくして、敵の動きに随って構えをなすところ、新陰流の「タテハ」これである。切らず、取らず、勝たず、負けない流派である。これが根源である。爺様の目録には、真の活人剣について、構えなき心持ちが一段の大事の根本である。切らず、負けざるの口伝は重々秘すべきものである、と書いてある。また曰く。当流には動作を捨て、心に有る本当の理を構えとするのである。構えの事は知らない、と言っている。

月之抄23

2011-07-30 12:51:05 | 月之抄
太刀拍子持つ所のこと
 親父殿曰く。この教えは、太刀先五寸の所のところに心を付けて、拍子によって五寸よりも早く当たるような感覚で打つ心持が大事なのである。爺様の目録には理は書いていない。
拍子敵味方取ることを知ること
 爺様の目録によると、おおよそ人の拍子というのは、息合い(呼吸)である。その感じをつかむには、足、刀、手によって知るべきである。敵のつく呼吸をヤッと取るのである。自分は呼吸をとめるのである。親父殿によると、これに替る心持ちはない。細やかな心であると言っている。
留まるという心持の事
 親父殿曰く。心が一方へ偏って留まることを嫌がるのである。執着する心の事である。歩みや所作、心持ちの何れも偏らない事が大事なのである。進み行く内にも、心が留まりそうだと思えば、心を取換え、心新たになってやり直す心持ちを習慣とするのである。引き歌に
 いづくにも 心止まらば 住み替えよ 長らえば また元の故郷
歩みにも、打つにも、仕掛けるにも、この心を留めぬという教えを専らの大事とすること。爺様の目録には別に意味を書いていない。
没滋味手段の事
 爺様の目録には、没滋味手段というのは「西江水」の事であり、「越す」所の事であると書いてある。また目録には、没滋味手段について、第一に目付の事。第二に口伝の事。第三に拍子の事。第四に身の懸かりの事。第五に「左足」のこと。と、書いてある。親父殿曰く。これは手の内の心持を言っているのである、とのこと。敵を打つにつれて、小指からその上の二つの指を締め合わせよ、という教えである。打って行く最中にも「捧心」の心掛けが大事だ。「打ちの中にも打ち有り」というのもこの心持の事である。これは没滋味といって「コソク?」の事である。味のないところに味を付ける感覚の事だ。「無味」である所が大事なのである。至極の教えである。一つの考案でも無ければ、その感覚も知ることができない。また、没滋味手段(てだん)と読むのは良くない。手段(しゅだん)と読むべきだと沢庵和尚は言っておられた。
打ち之打ちの事
 親父殿曰く、これは打つ打ちに今一つ心を添えた打ちの事である。「捧心」をよくよく見定める為の打ちである。没滋味手段のところで心得よ。爺様の目録には別に意味を書いていない。
手の内は猿が木を取るごとくの事
 爺様の目録には、「手の内、猿が木を取るごとく」については強からず、弱からずの心持で口伝であると書いてある。親父殿曰く。この教えは、手の内が強すぎることを嫌う事を言っているのである。強さは親指の又に力を込めよ、強くである。握りしめてしまうのを嫌うのである。猿が木を取る感覚を知りなさい。強からず、弱からず、敵が打ってくるのに合わせて締める感覚である。また小指より二つの指は打つに随って締める事が大事であると書いてあるものもある。
茂拍子の事
 親父殿曰く。打つ間に見懸かかり、懸かる間に見る。いずれも見るに見る、これである。敵から心を外さないで仕掛ける、こちら側の動作を言う。敵がこちらの動きに心を付け始めた所を打つのである。気前にありながら、動きはどのようにも対処できること。爺様の目録にはこれに替るような詳細は延べらていない。また曰く。打つという萌しを見せないうちの打ち、これである。また曰く。見るのも拍子だよという意味である、とも言われている。また曰く。目付をキッと見つめるところ、気が浮き立って軽い。見ると同時に打つとも言われている。また曰く。茂拍子は無拍子である。茂の字を無の字だと心得なさい。拍子のない所の心に有る拍子とも言われている。根本は自分の方から仕掛けて打つ心持である。前に書いた理どおりである。