十兵衛と語ろう

十兵衛と語ろう

月之抄10

2010-12-12 20:32:19 | 月之抄
 小太刀二寸五分のはずしの事
親父殿曰く。小太刀の鍔二寸五分あれば、鍔こそはずれ、自分が握っている拳も、二寸五分である。それを自分の顔の楯にして、自分の小太刀の先を敵の顔へさし付けて、体をまっすぐにして仕掛けて行けば、敵の太刀は当たらぬものである。それゆえ、その間積り(間合いの取り方)一つにかかっているのである。爺様の目録には、小太刀の二寸五分のはずしの事と書いてある。また曰く。拳を握ってみれば、二寸五分の大きさが縦も横もある。この拳を自分の眼どおりに差し当てて、右の肩に隠し付けて、太刀の反りから目付を見て、体はまっすぐに、持ちかかれば、敵の太刀は脇へ外れて、自分の体には当たらないのである。拳一つが体の楯となるので、鍔を使いなさいと、書いている。
 残心の事
親父殿は言った。文字通り、心を三重にも五重にも残しなさいという事である。勝った場合であれ、打ちはずした場合であれ、取った場合でも、退くにも、掛かって行くにも、体も目付にも少しの油断なく、心を残し置く事が第一である。爺様の目録にはその道理には触れていない。また曰く。残心の事、二つの眼が近く、急いではいけないと書いてある。また曰く。一つを捨てて、二つにつくという心持も後の太刀をどうするかを考える心掛けである。諸事について、興味深い心持である。
  太刀間三尺(91cm)の積り(間合い)の事
親父殿は言った。自分の足先から敵の足先までの間、三尺(91cm)まで近寄る事にこだわりなさい。三尺の太刀では届くものである。三尺ない太刀では当たらないものである。そこまで近寄らない間で、手立て、教えを以てしなさい。三尺へ近寄っては、無理にも打つこと。この心掛けに専心しなさい。爺様の目録にはこの件については、何とも書かれていない。また曰く。場の三尺とは次のようなものである。つまり体のかかりが三尺であるという心持である。三尺に対して三尺。合わせて六尺(1m82cm)の間合いの心持であるとも書いてある。また曰く。太刀で三尺、鑓で一尺という心持というのがある。これは太刀は大体、三尺より外へは伸びない。鑓は大体、一尺よりは外へは伸びないという心持の事である。
 風水の音を聞くという事
親父殿は言った。この教えは三尺の間合いよりも前では、いかにも心を静めて、風の音も聞き、水の流れの音も絶え絶えに聞くほどに心を付けなさいという心構えである。ただこの教えを粗略に考えると相手に勝つことが成り難いものとなる。それゆえに、教えを良くさせて忘れないようにするために、兵法の教えの法度にも使われているほどである。爺様の目録には、この件については何も書いていない。また曰く。いかにも上(表面上)は静かに、下心(心の底)ではいかにも速い。古語に曰く。「細かい雨が、衣を濡らし、見るのだけれども、見えない。閑花は地面に落ち、聞くのだけれども、声はない」この句の心持で、醍醐の寂静、たににて、「そそき」ほつくに。
 藤花の 音聞くほどの み山哉
極めて静かな心の事である。風水の音を聞くという教えに、この語を沢庵和尚に取り合わせ頂いた。
  の目付の事
親父殿曰く。これは相手が上段の構えの時に良い。両方の肘である。その動きを打とうとすれば良い処へ行くのである。肘より速く動く事により、専心すること。爺様の目録には、 目付の事に就いて、敵の太刀が敵の体を離れて上段に構えている者に良いと書いてある。また曰く。両方のひげを一つに めてみる心持の事である。敵の太刀が下りてくるところをかがみ掛けて打ちなさいと書いてある。