敵味方両三寸の事
親父殿は言った。敵の刀の太刀先三寸を、味方の三寸という。敵のこぶしの三寸前を敵の三寸という。こちらから仕掛けていくには、味方の三寸へ自分の刀を付け、打つ時は、敵の三寸へ打つべし。当流には、深く勝つことを嫌うためである。浅く勝って、自分にとって良い状況に持っていくためである。爺様の目録に、拍子に打ち乗る時は、はばきもと三寸に目付をして、打つのである。拍子をとる時は、切っ先三寸へ十文字と掛け取るのである。それを味方の三寸というのだと書いてある。またこうも書いてある。敵の三寸や、味方の三寸へ自分の三寸にて打つ時も、付ける時も、深くないように付けよ、切りもせよ、と書いてある。
二目遣いの事
親父殿曰く。敵に太刀の色が見えない時、ふかふかと仕掛けていくときは、敵の目がつかつという事がない。相手の注意は、こちらが眼をつけたところにいくものである。太刀に眼を付けるか、自分に節を見るか、そこに心を付ける。うっかりとしている者もあるものだ。その様子を見て、それに応じ従って勝つのである。爺様の目録に、二目遣いとは、付けたり太刀こいの事、表裏(かけ引き)を仕掛け敵の顔を見る。敵の目付、心を見るのである、と書いてある。また、自分からの一つの仕掛けを取り掛けてみて敵の心を見てみなさい。二目遣いの意図は、自分も目付を一か所を仕留めない心掛けが大事なのである。さらにこうも書いてある。大曲(次項)を仕掛けてみる心掛けでもある。
大曲の事
親父殿曰く。上記の二目遣いをよくよく考慮に入れて敵を見ると、敵が好む攻め場所があるものだ。すぐさま敵の好む場所をそのまま敵の前へ出し、敵に打たせて勝つ曲というのである。爺様も書いている。待曲の事、付け加えて言うならば、活人剣の分別があるのである。眼のつけるところが一段と重要なのである。自分の太刀は元の場所へ返るのである。また、構えは活人剣で、敵が打ち出す様に仕掛け、それをすぐに持ちかけて打つべし。持つところが待である。打つところは元の場所へ返るのある。二目遣いを駆使しても見えない事もあるのであるが、自分の方から敵の心の付け処を、あてかいて(推量して?)仕掛けて用いるのである。また、このようにも書いている。待の状態であると見せかけておいて、有りを用いるべし。自分の方から仕掛けてみる待なのである。待を仕掛けなさい、と。親父殿によると、動いていない状態のそれ以前の攻撃を防ぐという事であるから、待曲であると書いている。
位分き之曲之事
親父殿の話である。これは大曲を楽に知りあって、位を持ち合って、強く合う時、一拍子くつろいで、位を分かって敵の気に乗らせて勝つ心持の事である。静かな時、はたと物音などした時の心である。爺様の目録には理を書いていない。
位を盗むという事
親父殿による。体は敵が仕掛けてくる心持を余した感じである。待の心なので、盗む心である。
位を返すという事
親父殿曰く。敵が仕掛けようとする気持ちが出てくるところを、こちらがその気持ちを取るのである。取られると、出てくる気持ちが止むのである。その所作の始めの(ちょっとした仕草を始める)タイミングである。相手の心を取る心持を自分の仕掛けの中でするためである。
親父殿は言った。敵の刀の太刀先三寸を、味方の三寸という。敵のこぶしの三寸前を敵の三寸という。こちらから仕掛けていくには、味方の三寸へ自分の刀を付け、打つ時は、敵の三寸へ打つべし。当流には、深く勝つことを嫌うためである。浅く勝って、自分にとって良い状況に持っていくためである。爺様の目録に、拍子に打ち乗る時は、はばきもと三寸に目付をして、打つのである。拍子をとる時は、切っ先三寸へ十文字と掛け取るのである。それを味方の三寸というのだと書いてある。またこうも書いてある。敵の三寸や、味方の三寸へ自分の三寸にて打つ時も、付ける時も、深くないように付けよ、切りもせよ、と書いてある。
二目遣いの事
親父殿曰く。敵に太刀の色が見えない時、ふかふかと仕掛けていくときは、敵の目がつかつという事がない。相手の注意は、こちらが眼をつけたところにいくものである。太刀に眼を付けるか、自分に節を見るか、そこに心を付ける。うっかりとしている者もあるものだ。その様子を見て、それに応じ従って勝つのである。爺様の目録に、二目遣いとは、付けたり太刀こいの事、表裏(かけ引き)を仕掛け敵の顔を見る。敵の目付、心を見るのである、と書いてある。また、自分からの一つの仕掛けを取り掛けてみて敵の心を見てみなさい。二目遣いの意図は、自分も目付を一か所を仕留めない心掛けが大事なのである。さらにこうも書いてある。大曲(次項)を仕掛けてみる心掛けでもある。
大曲の事
親父殿曰く。上記の二目遣いをよくよく考慮に入れて敵を見ると、敵が好む攻め場所があるものだ。すぐさま敵の好む場所をそのまま敵の前へ出し、敵に打たせて勝つ曲というのである。爺様も書いている。待曲の事、付け加えて言うならば、活人剣の分別があるのである。眼のつけるところが一段と重要なのである。自分の太刀は元の場所へ返るのである。また、構えは活人剣で、敵が打ち出す様に仕掛け、それをすぐに持ちかけて打つべし。持つところが待である。打つところは元の場所へ返るのある。二目遣いを駆使しても見えない事もあるのであるが、自分の方から敵の心の付け処を、あてかいて(推量して?)仕掛けて用いるのである。また、このようにも書いている。待の状態であると見せかけておいて、有りを用いるべし。自分の方から仕掛けてみる待なのである。待を仕掛けなさい、と。親父殿によると、動いていない状態のそれ以前の攻撃を防ぐという事であるから、待曲であると書いている。
位分き之曲之事
親父殿の話である。これは大曲を楽に知りあって、位を持ち合って、強く合う時、一拍子くつろいで、位を分かって敵の気に乗らせて勝つ心持の事である。静かな時、はたと物音などした時の心である。爺様の目録には理を書いていない。
位を盗むという事
親父殿による。体は敵が仕掛けてくる心持を余した感じである。待の心なので、盗む心である。
位を返すという事
親父殿曰く。敵が仕掛けようとする気持ちが出てくるところを、こちらがその気持ちを取るのである。取られると、出てくる気持ちが止むのである。その所作の始めの(ちょっとした仕草を始める)タイミングである。相手の心を取る心持を自分の仕掛けの中でするためである。