十兵衛と語ろう

十兵衛と語ろう

月之抄7

2010-12-05 18:53:49 | 月之抄
 敵味方両三寸の事
親父殿は言った。敵の刀の太刀先三寸を、味方の三寸という。敵のこぶしの三寸前を敵の三寸という。こちらから仕掛けていくには、味方の三寸へ自分の刀を付け、打つ時は、敵の三寸へ打つべし。当流には、深く勝つことを嫌うためである。浅く勝って、自分にとって良い状況に持っていくためである。爺様の目録に、拍子に打ち乗る時は、はばきもと三寸に目付をして、打つのである。拍子をとる時は、切っ先三寸へ十文字と掛け取るのである。それを味方の三寸というのだと書いてある。またこうも書いてある。敵の三寸や、味方の三寸へ自分の三寸にて打つ時も、付ける時も、深くないように付けよ、切りもせよ、と書いてある。
二目遣いの事
親父殿曰く。敵に太刀の色が見えない時、ふかふかと仕掛けていくときは、敵の目がつかつという事がない。相手の注意は、こちらが眼をつけたところにいくものである。太刀に眼を付けるか、自分に節を見るか、そこに心を付ける。うっかりとしている者もあるものだ。その様子を見て、それに応じ従って勝つのである。爺様の目録に、二目遣いとは、付けたり太刀こいの事、表裏(かけ引き)を仕掛け敵の顔を見る。敵の目付、心を見るのである、と書いてある。また、自分からの一つの仕掛けを取り掛けてみて敵の心を見てみなさい。二目遣いの意図は、自分も目付を一か所を仕留めない心掛けが大事なのである。さらにこうも書いてある。大曲(次項)を仕掛けてみる心掛けでもある。
 大曲の事
親父殿曰く。上記の二目遣いをよくよく考慮に入れて敵を見ると、敵が好む攻め場所があるものだ。すぐさま敵の好む場所をそのまま敵の前へ出し、敵に打たせて勝つ曲というのである。爺様も書いている。待曲の事、付け加えて言うならば、活人剣の分別があるのである。眼のつけるところが一段と重要なのである。自分の太刀は元の場所へ返るのである。また、構えは活人剣で、敵が打ち出す様に仕掛け、それをすぐに持ちかけて打つべし。持つところが待である。打つところは元の場所へ返るのある。二目遣いを駆使しても見えない事もあるのであるが、自分の方から敵の心の付け処を、あてかいて(推量して?)仕掛けて用いるのである。また、このようにも書いている。待の状態であると見せかけておいて、有りを用いるべし。自分の方から仕掛けてみる待なのである。待を仕掛けなさい、と。親父殿によると、動いていない状態のそれ以前の攻撃を防ぐという事であるから、待曲であると書いている。
 位分き之曲之事
親父殿の話である。これは大曲を楽に知りあって、位を持ち合って、強く合う時、一拍子くつろいで、位を分かって敵の気に乗らせて勝つ心持の事である。静かな時、はたと物音などした時の心である。爺様の目録には理を書いていない。
 位を盗むという事
親父殿による。体は敵が仕掛けてくる心持を余した感じである。待の心なので、盗む心である。
 位を返すという事
親父殿曰く。敵が仕掛けようとする気持ちが出てくるところを、こちらがその気持ちを取るのである。取られると、出てくる気持ちが止むのである。その所作の始めの(ちょっとした仕草を始める)タイミングである。相手の心を取る心持を自分の仕掛けの中でするためである。

月之抄4

2010-11-12 23:19:49 | 月之抄
 習いの目録の事
目付の事 二星 嶺谷 遠山
二星の目付の事
親父殿が言うには、二星とは敵のこぶしと両腕の事である。このはたらき(動き)を把握することが重要である。爺様の目録によると、二星とは常に意識すべき眼のつけどころの事で、左右のこぶしの事であると書いている。私に言わせれば、二星に付けた色(気配)を察する心構えが大事である。この意味は、二星は視線の当てるところである。この二星の動きが色(気配)となって現れる。二星を見ようとする心構えより、色(気配)に察する心掛けが第一なのである。重々心がけるべき内容であり、極意に至るまでこの心掛けを使うこと。また、二つの星をみるというよりも、二つを同時に見る心持を持つべきであり、二つは一つである。
さらに、目付八寸の心持という考え方もある。つまり、二星と太刀の柄八寸の動きを意識していれば、二星の色(気配)もその中にあると考えることができるだろう。この二星の教えは第一の教えである。この考え方から、色々な心掛けがあるので、初めに心がける内容だと知りなさい。親父殿の書いた目録には、二星に眼を付ける教えは、常に用いるものだ、と書いているものがある。
さらに、二星とは敵の両手に眼を付ける心持の事だと書いてある目録もある。
嶺谷の目付の事
親父殿は言った。右の腕の曲がるところを嶺と言い、左を谷と言う。この曲がる部分に心を付け、自分の太刀先をその方へ向けると、地太刀にならないようになる。二星(両のこぶし)より嶺谷までの間の動きを見るのが、根本の目付であると定めている。
爺様の目録には、「嶺-身のかかり右の肘、谷-身のかかり、足踏み、左の肘」このように書いてあるものもある。また爺様曰く、「嶺谷に付けて相太刀にならない事」、とだけ書いた目録もある。
親父殿の目録に、「嶺谷と同じく片手太刀は、いずれも地太刀にならないための目付の事である」と書いたものもある。
 遠山の目付の事
親父殿は言う。自分の両肩へ打取り、押し合い等になる時、この教えを用いること。敵の太刀先が自分の右の肩先に来る時は、敵の右へ外しなさい。左に来る時は、まっすぐ上から押し落として勝つのである。自分の太刀先はいつも、嶺の目付をして、敵の胸に心を付けて打ちこみなさい。また曰く。組もの打ちあいの時、敵味方の太刀先の使い方は身を開く事が大事である。また、目録の先頭書きに、遠山に付けた目付は、組ものになる時の心持であるとも書いてある。さらに、自分の方から、敵の両肩の間である胸へ太刀先を付けること、と書いてある。また、捕縛、居合はいつも身の近くにしてこの心掛け専らの大事である。このことから、身の近くの心掛けは、色(気配)に出るものだ。爺様の目録には、「遠山の事、切り込みの時、両の肩」とだけ書いてある。
 五個の身の位の事
親父殿曰く。身を一重(相手に対して正対するのではなく、垂直に向く)にすること。敵のこぶしの高さに、自分の肩先の高さを比べるくらい身を沈める事。自分のこぶしを相手との間に置き、楯とすること。左のひじを伸ばすこと。前の膝に体重を載せ、後ろの足を延ばすこと。これは、その場より後ろへひき退く者を追いかけて打つときに良い。爺様の目録では、第一に身を一重にすること。第二に敵のこぶしに自分の肩先を比べること。第三に身を沈めて自分のこぶしを下げない事。第四に身をかがめて、前の膝に体重を載せ、後ろの足のえびらをひしぐこと。第五に自分の左の肘を曲げない事。また、構えはいつも相構え(相手と同じ構え)とすること、とも書いている。

月之抄6

2010-11-12 23:19:49 | 月之抄
 三拍子の事
親父殿はこう言っている。勝つところの拍子(タイミング)は、越す拍子、合う拍子、付ける拍子のこの三つである。つまるところこの三つしかない。この三つの拍子に外れると、相太刀(相打ち)である。また、合う拍子、付ける拍子、越す拍子とも書いた爺様の目録もある。親父殿曰く。付ける拍子は、乗る心持である。当たる拍子とは、付けて合う心持の事だと書いた書もある。また曰く。三拍子の三つは、自分の体に敵の刀が当たらない位置にいるときは、越す拍子の心構えがいい。敵の刀が当たるか当たらないかの境の位置にいるときは、付ける拍子がいい。心を付けるのである。合う拍子は、付ける拍子を付けて使う事。打つことも合う拍子というのだ、と書いたものもある。
 色に就き、色に随うという事 付けると良く染まるという心持
親父殿によると、相手の攻撃を待っている状況の時、相手の攻撃を打ちだすはたらき(動き)を見て構えているものにとっては、専心すべき心構えである。先に三寸に切りかけて、色々の仕掛けをして、切りかけることを色という。三寸に切りかけても敵が色に乗って来ないときは、こぶしのあたりに深く色をかけて見ること。色に乗って来ないということはない。色に乗ってくれば、その色に従って勝つのである。右へ勝てば左へ仕掛け、左に仕掛けて右を勝つ。下を仕掛けて上を勝つ。上を仕掛けて下を勝つ。色々のはたらき(動き)を仕掛け、それに随って勝つ事を言う。これは表裏の技の基本である。爺様は言う。敵の太刀が待ちの状態である時、タイミングを見分けて、「やっ」と声をかけて、それへの反応(色)を見て、その色(反応)に随って勝つ、とある。親父殿が言うには、敵の表裏につけて、切りだしてくるのを受けて、上手く相手の技を引き出し、その技に従わないで勝つこと。構えは三十あまりあるので、五体にはならないものだ。自分の方策としては、表裏(かけひき)を駆使する心掛けに専心することだ。また、色に就くとは、表裏(かけひき)、仕掛け、切りかけ、働きかける事だ。これに敵の心が移ろいだところを以て、色に就くというのだ。色に就き、自分は色に就いてはいけないという心持ちだ。色に就くというのは、自分が敵を色に就けるということだ。

月之抄5

2010-11-12 23:19:49 | 月之抄
 思無邪(おもいよこしまなし)の身の事
歌に 世の中に 道を習わば 直ぐに行け 入江小島に 舟寄せずとも
親父殿によると、邪でない事を考えよ。体をまっすぐに歪まないように使い、足の踏み方は八文字、一文字の二つである。敵の方へ体をまっすぐにするためである。鑓、長刀、刀諸道具ともに、この心構えは同じである。身の位(構え)を考えないで、道具の事にかかわると、体の事を忘れてしまうものだ。体の事さえ分かれば、諸道具の使い方もどちらも上手くいくものだ。体の状況を知って、道具を持てば、そのまま攻撃をしても敵の攻撃は当たらないものだ。また親父殿はこうも言っている。思無邪の教えは、「五箇の身」の教えの真の心持の事なんだ、と。体の使い方のあるべき心掛けなので、物を持ってそのまま敵にかかって行っても、敵の攻撃は当たらないのだ。道具が自分の楯となる感じの事である。構えをしようと思う時はいつも、敵と同じ構えを用いること。これは活人剣の心構えだ。またこうも言っている。思無邪の教えは、まっすぐな心の事だ。すべての事を万端にこのようにすること、と書いているものもある。
 三見の事
親父殿は言う。太刀先には、三つ見方がある。構えを見る。つまり、太刀先が敵より前にあるか、後ろにあるか、動いているか、この三つを見るのだ。三つを見分けてこれに対処して色々な仕掛けをする。だから、この見分け方に専心すること。三つを見るので三見なのである。爺様の目録には、「三様」となっている。太刀先、こぶし、体勢と書いてある。またこうも言っている。敵の心を読むよりも、次の三つがどうなってるのかを考えなさい。動なのか、かかって来ようとしているのか、待っているのか。動とは落ち着かない心理状態と考えればいい。
 二見の事
親父殿は言う。二見とは、敵がかかって来ようとしているのか、待っているのかの二つを見ることだ、と。また曰く。仕掛けていく以前の心持の事だ、と。つまり、立ち会いの時、まず注意すべきは、「三見」と「二見」と心得なさい。また、先頭書きの目録には、敵の構えは二つのうちどちらかであるかを考える。つまり太刀先が前にあるか、後ろにあるか、を見分けるべきだ、と書いたものもある。
 三箇の事
親父殿は言う。敵の太刀先が向いている方向を、三見のどれかと見たのち、その三つに応じる仕掛け方は三箇ある。またこうも言っている。三見に対して、仕掛けられて、付けかけて、相構え(相手と同じ構え)で敵を打つことを三箇という。鑓に対しても同じだが、敵が上段であれ、中段であれ、いづれも同じ対応である、と言われたこともある。また曰く。太刀の構え方は、この相構えと青眼の構えである。これに越す構えはない。他流にこの青眼の構えを用いているところもあるが、使い方の心持に違いがある。鑓、長刀も同じことなのである。構えには上段、中段、下段があり、鑓先も三つある。このほかにはならないものである。この三つに対しては相構えがいい。だいたい、刀、長刀どちらにしても、構えをするときは、相構えがいい。双方とも鑓の時は、上段に対しては中段、下段には上段、中段には下段、この心掛けを持ちなさい。さらにこうも言っている。三箇に対する三つの対応について。敵の太刀先が向こうにあるならば、付けなさい。敵の後ろにあるならば、一拍子の対応をしなさい。敵が打ち出してくるところに一拍子遅れの対応である。リズムを刻んで動いているならば、そのリズムを受けて、かけ(タイミングを合わせて)、上げるか下げるかどちらか二つに一つで、リズムに乗って勝つ感じだと思いなさい。三見を見定めたならば、それに対して三箇の仕掛けがあるのだ。爺様の目録に、三箇に付けて、転(まろばし・相手の動きに対して千変万化の対応をする)の事だ。その道具を寒風体とする、と書いたものもある。また曰く。敵の太刀先が自分の方へ向いているのならば、付けて打つべきだ。敵の構えた太刀が動いているのならば、リズムに乗って打つべきである。敵の太刀先が、体を離れて、敵の後ろの方を向いているのならば、一拍子に打ちこんで勝つべきである、と書いている。

月之抄3

2010-11-09 22:15:06 | 月之抄
  上段の型三本、中段の型三本、下段の型三本
 この上段の三本の内容は、斬釘せつ鉄の型、大詰の型、無二剣の型の三本である。中段の三本は右旋の型、左転の型、臥切の型の三本である。下段の三本は小詰の型、半開半向の型、獅子奮迅の心掛けであると、爺様の目録に書いてある。
  上段三本、中段三本、下段三本である
 この上段の型の三本は、刀棒の型に三つある。中段の三本は、切合いの型に三本ある。下段の三本は、折甲の型に三つあると、爺様の目録に書いてある。
  上段三本、中段三本、下段三本である
 この上段の三本は陰のそろえを言う。中段の三本は陽のそろえを言う。下段の三本は動くそろえを言う。その技の使い方はどれも一拍子でやるんだと爺様の目録に書いてある。
また、序 上段三本、中段三本、下段三本
   破 上段三本、中段三本、下段三本
   急 上中下とも何れも一拍子と書いてある目録もある。
また、序 上段三本、中段三本、下段三本
   破 刀棒三本、切合三本、折甲三本
   急 上中下何れも一拍子という書き方をしているもある。
さらに急については上・中・下何れも一拍子であると書いたものもある。
親父殿は言う。この型を以て十七ヵ条之きり合を稽古すれば、大方はこれで済む、と。いづれも刀で行う型である。
 この他に、向上、極意、神妙剣という型がある。
 古語に言う。「陣中の幕の中で、はかりごとをめぐらし、勝利を千里も離れたところでものにする。」
これが新陰流の極意であり、これに極まる。
 添さい、乱さいの構えをする相手には、無二剣の型で勝つ。無二剣には活人剣の型で勝ち、活人剣には向上の型で。向上には極意で。極意には神妙剣の型で勝ち、この神妙剣で極まる。これより上はないことを言うために神妙剣という。
このことにより、兵法の心持は皆一つになる。一つの心持で極まるのである。けなげに学ぶことは言うに及ばず、一心の心のはたらきを受用をするので、一心である。心の理論を分析し、その理論を知ることが兵法の根本なのである。その為、心持の習熟を専らにすること。その習熟について次に述べていくことにする。