十兵衛と語ろう

十兵衛と語ろう

月之抄5

2010-11-12 23:19:49 | 月之抄
 思無邪(おもいよこしまなし)の身の事
歌に 世の中に 道を習わば 直ぐに行け 入江小島に 舟寄せずとも
親父殿によると、邪でない事を考えよ。体をまっすぐに歪まないように使い、足の踏み方は八文字、一文字の二つである。敵の方へ体をまっすぐにするためである。鑓、長刀、刀諸道具ともに、この心構えは同じである。身の位(構え)を考えないで、道具の事にかかわると、体の事を忘れてしまうものだ。体の事さえ分かれば、諸道具の使い方もどちらも上手くいくものだ。体の状況を知って、道具を持てば、そのまま攻撃をしても敵の攻撃は当たらないものだ。また親父殿はこうも言っている。思無邪の教えは、「五箇の身」の教えの真の心持の事なんだ、と。体の使い方のあるべき心掛けなので、物を持ってそのまま敵にかかって行っても、敵の攻撃は当たらないのだ。道具が自分の楯となる感じの事である。構えをしようと思う時はいつも、敵と同じ構えを用いること。これは活人剣の心構えだ。またこうも言っている。思無邪の教えは、まっすぐな心の事だ。すべての事を万端にこのようにすること、と書いているものもある。
 三見の事
親父殿は言う。太刀先には、三つ見方がある。構えを見る。つまり、太刀先が敵より前にあるか、後ろにあるか、動いているか、この三つを見るのだ。三つを見分けてこれに対処して色々な仕掛けをする。だから、この見分け方に専心すること。三つを見るので三見なのである。爺様の目録には、「三様」となっている。太刀先、こぶし、体勢と書いてある。またこうも言っている。敵の心を読むよりも、次の三つがどうなってるのかを考えなさい。動なのか、かかって来ようとしているのか、待っているのか。動とは落ち着かない心理状態と考えればいい。
 二見の事
親父殿は言う。二見とは、敵がかかって来ようとしているのか、待っているのかの二つを見ることだ、と。また曰く。仕掛けていく以前の心持の事だ、と。つまり、立ち会いの時、まず注意すべきは、「三見」と「二見」と心得なさい。また、先頭書きの目録には、敵の構えは二つのうちどちらかであるかを考える。つまり太刀先が前にあるか、後ろにあるか、を見分けるべきだ、と書いたものもある。
 三箇の事
親父殿は言う。敵の太刀先が向いている方向を、三見のどれかと見たのち、その三つに応じる仕掛け方は三箇ある。またこうも言っている。三見に対して、仕掛けられて、付けかけて、相構え(相手と同じ構え)で敵を打つことを三箇という。鑓に対しても同じだが、敵が上段であれ、中段であれ、いづれも同じ対応である、と言われたこともある。また曰く。太刀の構え方は、この相構えと青眼の構えである。これに越す構えはない。他流にこの青眼の構えを用いているところもあるが、使い方の心持に違いがある。鑓、長刀も同じことなのである。構えには上段、中段、下段があり、鑓先も三つある。このほかにはならないものである。この三つに対しては相構えがいい。だいたい、刀、長刀どちらにしても、構えをするときは、相構えがいい。双方とも鑓の時は、上段に対しては中段、下段には上段、中段には下段、この心掛けを持ちなさい。さらにこうも言っている。三箇に対する三つの対応について。敵の太刀先が向こうにあるならば、付けなさい。敵の後ろにあるならば、一拍子の対応をしなさい。敵が打ち出してくるところに一拍子遅れの対応である。リズムを刻んで動いているならば、そのリズムを受けて、かけ(タイミングを合わせて)、上げるか下げるかどちらか二つに一つで、リズムに乗って勝つ感じだと思いなさい。三見を見定めたならば、それに対して三箇の仕掛けがあるのだ。爺様の目録に、三箇に付けて、転(まろばし・相手の動きに対して千変万化の対応をする)の事だ。その道具を寒風体とする、と書いたものもある。また曰く。敵の太刀先が自分の方へ向いているのならば、付けて打つべきだ。敵の構えた太刀が動いているのならば、リズムに乗って打つべきである。敵の太刀先が、体を離れて、敵の後ろの方を向いているのならば、一拍子に打ちこんで勝つべきである、と書いている。