十兵衛と語ろう

十兵衛と語ろう

月之抄12

2010-12-23 11:30:16 | 月之抄
 有無の拍子の事
親父殿曰く。これは手裏剣についての事である。見様の事なのである。相手の目付が動かないのを、よく見て心がけていれば、手裏剣の動きが良く見えるものなのである、無いのを心がけることにより、有るのがよく見えるものである。爺様の目録にはその理は書いていない。また曰く。有無の拍子は、有るも有る。無も有るという心持の真の位であると知りなさい。これを取り上げて、有無の拍子というのだと書いてある。また曰く。有無の拍子というのは、有るのか無いのかと敵の目付を見て、有る場合にも、無い場合にも、仕掛ければ、動き一つに見るという心持に専心するという事である、とも書いてある。
 太体より手字種利剣の仕掛けの事
親父殿曰く。仕掛けて仕掛けて行っても、敵の衣服の胸の順を外さないで、仕掛けること。敵が動いていく前段階より、この心持が大事なのである。衣の内合してえもん(衣文)成を、太体の手字というのである。付けの心持は、立ち会いより十字を外さないで、仕掛けなさい。太刀にても、体にても同じ趣旨である。水(間合)が遠いと言って、油断なく心得なさい。爺様の目録には、このことに関しては何とも書いていない。
 敵に十字手裏剣を使い仕掛けさせて勝つ心持の事
親父殿曰く。これは敵の方が十字手裏剣を使って仕掛けて来た時、敵に使わせておいて、すぐに攻撃しなさい。自分は十字手裏剣になるべきである。敵にとらわれまいとする事は悪いことだ。敵に十字手裏剣をさせておけば、自分も十字手裏剣をしていても同じ事になるだろう。爺様の目録にはその理論は何も書かれていない。また曰く。その手裏剣の事、敵に使わせておいて勝つこと、と書いてある。
 十文字の習いの事
親父殿曰く。十文字とは十字の改名である。所作にとりなして言うときはこうなる。爺様の目録には、十文字、太刀十文字である。上太刀にも、また攻撃を受けるにもこの心持であると書いてある。また曰く。身にとっても所作(しぐさ)にとっても、心に取る心がある。色々なことにつけて、十文字の心持を感じること。
 角を掛ける一つのはしかけの事
親父殿曰く。これは上段の構えなどと、小太刀にて打とうとするのに対して良い。水月(間合)にて、座と太体の十字に体をひねり掛け、一尺(303cm)を抱えて打つこと。「太刀つれ」の心持が良い。体のひねりを以て、一つのはずしかけ、角を欠ける(斜め45度に引き下がる)心持ちである。爺様の目録に、これらのついて書いていない。また曰く。この教えは、「遠近の心」より手字を抱えて打つ心持である。爺様の目録には何も書いていない。これは徳川秀忠公の稽古時より、打つことを希望された事によって、この教えとなった、親父殿から以降の教えである。
 その道を寒く風体について右の三寸(9cm)の心持の事
親父殿曰く。これは太刀の構えにより早い処あり、青眼の構えは、さき早いものである。三寸へ付けては闇を塞ぐこと。早い方をよく合う心あれば、尚早いものである。太刀については、無刀であるのならば、寄りそって塞ぐ心持である。爺様の目録には、理はない。
 背き付けよという心持の事
親父殿曰く。これは三寸(9cm)よりも深く付ける事を嫌うのである。しかし、付けるところは深くとも、背きもしなさい。太刀を持つ手は、体に取りつけること。所作は近くても、心持は専心せよ。

月之抄11

2010-12-17 20:34:09 | 月之抄
 分け目之目付之事
親父殿曰く。両の拳の間の柄の事である。車の構え(脇構え)の太刀は、自然に片手にて打ち出すその瞬間、見外さないようにするためにこの事を使用するのである。爺様の目録には何とも書いていない。家光公が工夫された心持では、左右ともに出した方の拳に心を掛ければ、見はずすことなく、早く見え易いという心持がある。これは太刀のある方へ、仕掛けてみれば、目付より敵の身近のところあるべし。それを片手で打って引き取る感じである。仕掛ける気持ちを深くして、打つ場所は浅くあること。
 懸待有之事
親父殿は言った。この三つがもっぱらである。体と足は攻撃態勢(懸)であり、太刀を持つ手は防衛体勢(待)であり、敵の目付が動くのを有るという。この眼が動きが有るのを、自分の手が動こうとするのを待たせることが大事なのである。攻撃態勢というのは実際に攻撃するのではない。防衛態勢といっても、待っているだけではない。攻撃態勢というのは、心の持ちようを言うのである。防衛態勢であっても、心は攻撃態勢である。この心持に専念して、表裏(駆け引き)もここから始まる。三尺(909cm)の間合いに入るまでの見極めの事である。三尺の間合いの内に入ったなら、攻撃、攻撃と勝つべきである。この教えに専心することが当流の第一なのである。攻撃には序・破・急がある。攻撃しない前は序である。敵に合わせて打ちあうときは、急である。この仕掛け方について注意すること。打つのは急でありなさい。打たれて勝つという思う心、残心の心掛けに専心して、これで太刀の表裏(駆け引き)を仕掛けて行く場合に、上記の教えを上手く使いこなす心掛けが大事なのである。敵の動きの一つを知ろうとするための教えである。これは兵法を知らない者でも大概の意味は知っているものである。大体はそれでいいのである。これ以外の事はこれがない者である。当流の心構えがない者は、この分にて極めて、これを極意であると決めている。爺様の目録には懸・待・有之事、一尺の子細についてことは極意で口伝であると書いてある。また曰く。有るというのは、動きの中で心が定まって、切ろうと思う時の動きはひとき変わったものとなり、日ごろの動きではない。これが有るという意味であると心得なさい。細やかな味(ニュアンス)である。親父殿曰く。この有るの心持を知っている者は、動きを三つに分け、その上の技をする教えが十字手裏剣である。知らない者は、いらないのである。また曰く。普段から、体と足は攻撃態勢(懸)、手は普段は守備態勢(待)である。有るは手裏剣である。有るのを自分の手に待たせること。切り掛けるのを懸とも言う。仕掛けようとする心持はいずれにしても懸であると言っても問題ない。無理に仕掛ける教えや心持は口伝であると書いているものもある。
 十字手裏見の事
 字である。古語に曰く。心は万境に随って転変する。転ずるところは実によく幽玄である。流れに従って、性を認得すれば、喜びなく、また憂いもない。親父殿曰く。この動きを細やかに仕分けた心持がこの言葉である。三つを勝つところ、二つは手裏剣の見えるところを勝つのである。二つはないところである。二つは合うところ。付けるところ有るのである。越して余した処はないのである。手裏見は手の内を見るという心掛けである。十字は、敵の太刀が打って来るところを十字になるのを言うのである。文字に注意しなさい。有無の教えといえども、この心持の事である。爺様の目録も上記の内容に変わるところがない。また曰く。十字という教えの心持は、九字の大事といって、真言宗の秘法にある。この九字に一つ足して十字なのである。横五つに、縦五つで十字である。十(とう)は十の字で、十である。それ故、十字なのである。十文字にさえ有れば、敵の攻撃は自分に当たらない。手裏見は手の内の事である。裏の字にその心が隠されている。理に曰く。衣の中に、里を包むという心持がある。里というのは、中墨、高上、神妙剣の事である。心を衣に包んで置くのである。心の置き場所を里と言うのである。むねの通りを外すべからずと書いている。大方、十字の仕掛けというのも、これを以て知りなさい。えもんなりを自分の体に詰めて仕掛けていく心掛けである。有るのも有る。無いのも有る、という心持ちである。無についても有り。有りは無しという心持の事である。また曰く。これは手裏剣を見る心持ちなのである。目付が動いたのを見てから打とうと思っても、後になって遅い。だから、有るは無になるまでの間を打つこと。無は有り、有りは有りと心得なさい。目付之心持、味感じるところがある。爺様の目録には、説明がない。また曰く。無は有る。有りは無という心持は、目付の見えないところは、言うに及ばず、見えるところも、動かない処を指して無というのである。見えない時は、仕掛けてみて、見えるところを勝つ。見えて有る時は動かない先を勝つという心持ちである。いずれにしてもかすかな味をかぎわけることが多い。

月之抄10

2010-12-12 20:32:19 | 月之抄
 小太刀二寸五分のはずしの事
親父殿曰く。小太刀の鍔二寸五分あれば、鍔こそはずれ、自分が握っている拳も、二寸五分である。それを自分の顔の楯にして、自分の小太刀の先を敵の顔へさし付けて、体をまっすぐにして仕掛けて行けば、敵の太刀は当たらぬものである。それゆえ、その間積り(間合いの取り方)一つにかかっているのである。爺様の目録には、小太刀の二寸五分のはずしの事と書いてある。また曰く。拳を握ってみれば、二寸五分の大きさが縦も横もある。この拳を自分の眼どおりに差し当てて、右の肩に隠し付けて、太刀の反りから目付を見て、体はまっすぐに、持ちかかれば、敵の太刀は脇へ外れて、自分の体には当たらないのである。拳一つが体の楯となるので、鍔を使いなさいと、書いている。
 残心の事
親父殿は言った。文字通り、心を三重にも五重にも残しなさいという事である。勝った場合であれ、打ちはずした場合であれ、取った場合でも、退くにも、掛かって行くにも、体も目付にも少しの油断なく、心を残し置く事が第一である。爺様の目録にはその道理には触れていない。また曰く。残心の事、二つの眼が近く、急いではいけないと書いてある。また曰く。一つを捨てて、二つにつくという心持も後の太刀をどうするかを考える心掛けである。諸事について、興味深い心持である。
  太刀間三尺(91cm)の積り(間合い)の事
親父殿は言った。自分の足先から敵の足先までの間、三尺(91cm)まで近寄る事にこだわりなさい。三尺の太刀では届くものである。三尺ない太刀では当たらないものである。そこまで近寄らない間で、手立て、教えを以てしなさい。三尺へ近寄っては、無理にも打つこと。この心掛けに専心しなさい。爺様の目録にはこの件については、何とも書かれていない。また曰く。場の三尺とは次のようなものである。つまり体のかかりが三尺であるという心持である。三尺に対して三尺。合わせて六尺(1m82cm)の間合いの心持であるとも書いてある。また曰く。太刀で三尺、鑓で一尺という心持というのがある。これは太刀は大体、三尺より外へは伸びない。鑓は大体、一尺よりは外へは伸びないという心持の事である。
 風水の音を聞くという事
親父殿は言った。この教えは三尺の間合いよりも前では、いかにも心を静めて、風の音も聞き、水の流れの音も絶え絶えに聞くほどに心を付けなさいという心構えである。ただこの教えを粗略に考えると相手に勝つことが成り難いものとなる。それゆえに、教えを良くさせて忘れないようにするために、兵法の教えの法度にも使われているほどである。爺様の目録には、この件については何も書いていない。また曰く。いかにも上(表面上)は静かに、下心(心の底)ではいかにも速い。古語に曰く。「細かい雨が、衣を濡らし、見るのだけれども、見えない。閑花は地面に落ち、聞くのだけれども、声はない」この句の心持で、醍醐の寂静、たににて、「そそき」ほつくに。
 藤花の 音聞くほどの み山哉
極めて静かな心の事である。風水の音を聞くという教えに、この語を沢庵和尚に取り合わせ頂いた。
  の目付の事
親父殿曰く。これは相手が上段の構えの時に良い。両方の肘である。その動きを打とうとすれば良い処へ行くのである。肘より速く動く事により、専心すること。爺様の目録には、 目付の事に就いて、敵の太刀が敵の体を離れて上段に構えている者に良いと書いてある。また曰く。両方のひげを一つに めてみる心持の事である。敵の太刀が下りてくるところをかがみ掛けて打ちなさいと書いてある。 

月之抄9

2010-12-11 22:04:05 | 月之抄
 馴れてうつるという心持の事
親父殿は言った。これは遠近の心持の事を言う。動作や太刀、体、彼らに分かれる事。心は目付に移すべきである。また曰く。敵の攻撃を外したり、飛び違いなどするときに使う事。下心(心の底)は軽やかに、速く打つこと。上(表面的に)はゆるゆるとぬるやかであること。仕掛ける心掛けである。
 先段之打之事付けたり二葉之心持
親父殿は言った。先段(栴檀)の打ちの真髄は二葉にあるという心持である。うちゆみ習う事は悪いことなので、敵の太刀先を外して二星(両手)を自分の太刀で打つ心持ちの事である。太刀先ならばさる事を先段という。鑓も同じことである。また曰く。先段とは、一打ち攻撃して後ろへくつろぐ心持ちである。体には敵の太刀は当たらない心持である。二葉の根元は一つであり、その一つに相当するのが二星(両こぶし)である。体の状態を敵の太刀と分けて打つのである。片手打ちが特にこの場合良い。また曰く。かしらの目録に、先段の打ちの事について、身位(構え)についての心構えの事であると書いてある。また曰く。手と体の使いを分けて遣う事を二葉の考え方であると知りなさい。先段は二星(敵の両こぶし)と知りなさい。それゆえ、先段(栴檀)の心持は二葉である、とも書いている。
 太刀つれの事
親父殿は言う。敵が強く打ちこんでくる場合に有効である。敵が打って来るのにつれて、自分の太刀もそれにつれて打つことを言う。越す拍子(小手抜き面のリズム)にて打つと心得なさい。また曰く。三尺(91cm)外し(一太刀分外して)打つべし。同じように、敵があけて同じように打って来る時、越す拍子になる心持ちになることである。大打ちをしてくる敵には、何れもこの心持がいいと、書いてある。
 小太刀一尺五寸(45.5cm)の外しの事
親父殿は言った。当流の小太刀は、三尺(91cm)の刀を半分にして、一尺五寸の小太刀である。この小太刀の使い方は、三尺の刀と同じようになる処を言う。自分の体の左右の肩の幅一尺五寸(45.5cm)である。敵の切りに随って、その体を外せば、小太刀は敵の首に当たるものである。三尺の太刀も同じことである。九尺(2m73cm)の柄の鑓も、三尺の刀と等しくなる心持である。この心持を以て、兵法を使うならば、小太刀にても勝つという心持を得意とすることである。爺様の書いたものにも、小太刀一尺五寸隠しの事について、替り身(体さばき)の事だと書いている。また曰く。替り身とは、左を出して、右を替り、右を出して左に替る(体さばきの)心持の事だ。太刀にて外すとは、その太刀の長さ分だけ外す心持ちの事である。また曰く。敵に表裏(探りの技)を仕掛けてみて、敵の意図が色に出てきたり、体に表れてきたりするのを見分けて、弾みの拍子(リズム、タイミング)さえ合うならば、一尺五寸の考え方も必要ない、と書いてある。また曰く。相手との距離が迫っているところでは、一尺五寸の外へ取りまわしたり、よけて外すこともできないものだ。それゆえ、一尺五寸の小太刀を使うのである。これ(小太刀)を以て、「三尺の太刀を門前に使う」というのは、まず自分の左右の肩の間は一尺五寸ある。この一尺五寸を外して打つことにより、一尺五寸の小太刀と、体の伸びが一尺五寸とが相まって、三尺になるためである。体を開いたときに一尺五寸あるからである。太刀にて外す時も、その心持は同じである。しかし、太刀にては、その太刀の長さ分を外す間合いが、手では、その手の分だけの外しとなる。

月之抄8

2010-12-05 21:33:03 | 月之抄
 紅曲之事
親父殿は曰く。二星(両こぶし)の動きを色という。曲に色がつく心持である。よくよく注意して、動きに自分の心を染めて紅の血潮に染めなさいという教えである。その心持は興味深い。疋田豊五郎流で言うところの、紅葉の目付、観念が大事であると秘める気持ちと同じ意味である。また、こうも言っている。豊五郎流で言うところの紅葉の観念とは、自分の心を敵に付けるのは、近くに寄せないものである。よそよそしく、或いは、向こうの山のモミジなどを見るような心持で仕掛ければ、近くに寄るにも、敵心を付きさるをを打って後ろへ引き下がるのである。そんなことから、片手太刀、栴檀の打ちを用いるといえる。
 無曲之事
親父殿曰く。これは曲ではない。無の中に、曲というのは自然とあるものである。有るということは無いということである。無いという中に、曲があるという感じである。極めつけの心持である。爺様の目録にはこの件については書かれていない。また、こうも書かれている。無曲というのは、儒教の道、仏教の道にこの沙汰は事の終わったところは無曲なのである。
例えば、昨日の事は今日の無曲である。今日の日というのは直ぐに暮れてしまうので、日中の事は無曲なのである。事が発現しない初めがない状態を無曲という。事が終わったところも無曲である。今日の上に、夜中というようなものだ。或る事が完成した後も無曲である。自分と敵とに例えて言えば、自分は無である。敵は曲なのである。無い処に勝負がある心持のことなのである。
大拍子・小拍子、小拍子・大拍子之事
親父殿は言った。敵の棒心を離れ、上段などのような構えのものに対しては、小拍子にて打って行きなさい。細かであることはない。相手の目付の動きに随って、速い動きの事を小拍子という。敵が細やかに切り掛けてきて、拍子が取れないところがある。これに対して、大拍子に勝つのである。声をかけて、大きく切るのを大拍子という。また、こうも言っている。敵の働き(動き)が大きい時はこちらは小拍子に。敵が小拍子ならば、こちらは大拍子に仕掛けるのが良い。その心持は、勘に依るものだとも書いている。爺様の書いたものに、敵が待ちの状態にある時、いかにモンモンとして、拍子が上手くいかない場合、太刀を振り掛けて、切るよし(真似を?)して、浅く相手の太刀の中ほどを切り、敵の心を知るべしと書いたものがある。また曰く。小拍子は早く細やかな心を言い、大拍子は仕掛けの心持を言い、大きく、軽い心を言う。
 唱歌の事
親父殿は言った。敵の動きが細やかで、小拍子なものに合わせて、打ちこむ時は、大拍子に打つことを言う。また、こうも言う。極意のうちに、仕掛ける心持には、仕掛ける時、歌いにても、舞いにても、小唄にても、心を歌って仕掛ければ、すぐさま執着をなくして、心が乗って来るものだと書いている。こうも言っている。唱歌というのは、息がポイントである。息が合うのを心掛けなさい。敵が小拍子で、それに対してこちらが拍子をとれない時、「やっ」と声をかける心持で、息を込めれば、気も浮き立って軽くなるものだ。声をかけることによって、拍子が合い、乗って来るものである。自分の心に乗った拍子で打つ心掛けである。つつみを打つ時の揉み出を打つ時の拍子と同じである。また曰く。相手の拍子が細やかで、こちらの拍子がとれない時、先の拍子に心を乗せて、相手の拍子に構わずに打ち込むべし。また曰く。こちらの拍子がとれない時、口で拍子を合わせ、その口拍子の内、拍子を一つぬかして打ち込む心持の事である、とも言っている。
 遠近の事
親父殿は言った。敵が攻めの状態で、細かくちょうちょうと打ちかかって来るのに対して、隅をかけて(45度斜め後ろに)一歩飛び下がるのがいい。飛び下がることにより、相手に近くなるというメリットがある。それゆえ、遠近の事と呼んでいる。
爺様の書には、遠近の位、拍子について、大拍子には小拍子、小拍子には唱歌にて対応しなさいと、書いている。また曰く。遠近の拍子の位を知ることの重要性は、つまり、拍子が合うときは遠く、拍子が合う時に近くなる、という事だとも書いている。
また曰く。位(場所)が詰まって楽に働かない(動けない)時、また、急に攻撃してくる者に対して、この遠近の教えを良くわきまえなさい、と書いている。また曰く。位(心の目線)にゆとりを持って、相手に近くなる心持の事が、遠近の教えだと知りなさいとも、書いている。また曰く。相手の動作が遠くなり、そうなると相手の攻撃が遠いのは、自分の心は近くなる。半分の体は遠くありながら、半分の体は近い。左足の隅を掛けて(45度斜め後ろへ)飛び下がりなさい。これが遠近の使い方であり、左足の間合いの取り方の妙である。場所が狭く詰まった時の心掛けであるとも書いている。