有無の拍子の事
親父殿曰く。これは手裏剣についての事である。見様の事なのである。相手の目付が動かないのを、よく見て心がけていれば、手裏剣の動きが良く見えるものなのである、無いのを心がけることにより、有るのがよく見えるものである。爺様の目録にはその理は書いていない。また曰く。有無の拍子は、有るも有る。無も有るという心持の真の位であると知りなさい。これを取り上げて、有無の拍子というのだと書いてある。また曰く。有無の拍子というのは、有るのか無いのかと敵の目付を見て、有る場合にも、無い場合にも、仕掛ければ、動き一つに見るという心持に専心するという事である、とも書いてある。
太体より手字種利剣の仕掛けの事
親父殿曰く。仕掛けて仕掛けて行っても、敵の衣服の胸の順を外さないで、仕掛けること。敵が動いていく前段階より、この心持が大事なのである。衣の内合してえもん(衣文)成を、太体の手字というのである。付けの心持は、立ち会いより十字を外さないで、仕掛けなさい。太刀にても、体にても同じ趣旨である。水(間合)が遠いと言って、油断なく心得なさい。爺様の目録には、このことに関しては何とも書いていない。
敵に十字手裏剣を使い仕掛けさせて勝つ心持の事
親父殿曰く。これは敵の方が十字手裏剣を使って仕掛けて来た時、敵に使わせておいて、すぐに攻撃しなさい。自分は十字手裏剣になるべきである。敵にとらわれまいとする事は悪いことだ。敵に十字手裏剣をさせておけば、自分も十字手裏剣をしていても同じ事になるだろう。爺様の目録にはその理論は何も書かれていない。また曰く。その手裏剣の事、敵に使わせておいて勝つこと、と書いてある。
十文字の習いの事
親父殿曰く。十文字とは十字の改名である。所作にとりなして言うときはこうなる。爺様の目録には、十文字、太刀十文字である。上太刀にも、また攻撃を受けるにもこの心持であると書いてある。また曰く。身にとっても所作(しぐさ)にとっても、心に取る心がある。色々なことにつけて、十文字の心持を感じること。
角を掛ける一つのはしかけの事
親父殿曰く。これは上段の構えなどと、小太刀にて打とうとするのに対して良い。水月(間合)にて、座と太体の十字に体をひねり掛け、一尺(303cm)を抱えて打つこと。「太刀つれ」の心持が良い。体のひねりを以て、一つのはずしかけ、角を欠ける(斜め45度に引き下がる)心持ちである。爺様の目録に、これらのついて書いていない。また曰く。この教えは、「遠近の心」より手字を抱えて打つ心持である。爺様の目録には何も書いていない。これは徳川秀忠公の稽古時より、打つことを希望された事によって、この教えとなった、親父殿から以降の教えである。
その道を寒く風体について右の三寸(9cm)の心持の事
親父殿曰く。これは太刀の構えにより早い処あり、青眼の構えは、さき早いものである。三寸へ付けては闇を塞ぐこと。早い方をよく合う心あれば、尚早いものである。太刀については、無刀であるのならば、寄りそって塞ぐ心持である。爺様の目録には、理はない。
背き付けよという心持の事
親父殿曰く。これは三寸(9cm)よりも深く付ける事を嫌うのである。しかし、付けるところは深くとも、背きもしなさい。太刀を持つ手は、体に取りつけること。所作は近くても、心持は専心せよ。
親父殿曰く。これは手裏剣についての事である。見様の事なのである。相手の目付が動かないのを、よく見て心がけていれば、手裏剣の動きが良く見えるものなのである、無いのを心がけることにより、有るのがよく見えるものである。爺様の目録にはその理は書いていない。また曰く。有無の拍子は、有るも有る。無も有るという心持の真の位であると知りなさい。これを取り上げて、有無の拍子というのだと書いてある。また曰く。有無の拍子というのは、有るのか無いのかと敵の目付を見て、有る場合にも、無い場合にも、仕掛ければ、動き一つに見るという心持に専心するという事である、とも書いてある。
太体より手字種利剣の仕掛けの事
親父殿曰く。仕掛けて仕掛けて行っても、敵の衣服の胸の順を外さないで、仕掛けること。敵が動いていく前段階より、この心持が大事なのである。衣の内合してえもん(衣文)成を、太体の手字というのである。付けの心持は、立ち会いより十字を外さないで、仕掛けなさい。太刀にても、体にても同じ趣旨である。水(間合)が遠いと言って、油断なく心得なさい。爺様の目録には、このことに関しては何とも書いていない。
敵に十字手裏剣を使い仕掛けさせて勝つ心持の事
親父殿曰く。これは敵の方が十字手裏剣を使って仕掛けて来た時、敵に使わせておいて、すぐに攻撃しなさい。自分は十字手裏剣になるべきである。敵にとらわれまいとする事は悪いことだ。敵に十字手裏剣をさせておけば、自分も十字手裏剣をしていても同じ事になるだろう。爺様の目録にはその理論は何も書かれていない。また曰く。その手裏剣の事、敵に使わせておいて勝つこと、と書いてある。
十文字の習いの事
親父殿曰く。十文字とは十字の改名である。所作にとりなして言うときはこうなる。爺様の目録には、十文字、太刀十文字である。上太刀にも、また攻撃を受けるにもこの心持であると書いてある。また曰く。身にとっても所作(しぐさ)にとっても、心に取る心がある。色々なことにつけて、十文字の心持を感じること。
角を掛ける一つのはしかけの事
親父殿曰く。これは上段の構えなどと、小太刀にて打とうとするのに対して良い。水月(間合)にて、座と太体の十字に体をひねり掛け、一尺(303cm)を抱えて打つこと。「太刀つれ」の心持が良い。体のひねりを以て、一つのはずしかけ、角を欠ける(斜め45度に引き下がる)心持ちである。爺様の目録に、これらのついて書いていない。また曰く。この教えは、「遠近の心」より手字を抱えて打つ心持である。爺様の目録には何も書いていない。これは徳川秀忠公の稽古時より、打つことを希望された事によって、この教えとなった、親父殿から以降の教えである。
その道を寒く風体について右の三寸(9cm)の心持の事
親父殿曰く。これは太刀の構えにより早い処あり、青眼の構えは、さき早いものである。三寸へ付けては闇を塞ぐこと。早い方をよく合う心あれば、尚早いものである。太刀については、無刀であるのならば、寄りそって塞ぐ心持である。爺様の目録には、理はない。
背き付けよという心持の事
親父殿曰く。これは三寸(9cm)よりも深く付ける事を嫌うのである。しかし、付けるところは深くとも、背きもしなさい。太刀を持つ手は、体に取りつけること。所作は近くても、心持は専心せよ。