十兵衛と語ろう

十兵衛と語ろう

月之抄17

2010-12-27 22:58:43 | 月之抄
 五字の沙汰の事
親父殿曰く。これは祭りである心である。地水火風空等言うので縁固めである。この五字の教えの上に言うのは、十字手裏剣、神妙剣、水月、病気、空である。文字に直すと、手=地、水=水、神=火、病=風、空=空である。空の内の棒心、西江水と知るべきである。
 我神妙剣を返すという心持の事
親父殿曰く。前後左右神妙剣である。後ろから懸かってきても、敵が打つ時は神妙剣に向かうものである。逆に取っても、神の座は合うものである。逢う時、身位(構え)の敵の座に合わすべきである。自分の神妙剣は敵の座に合わせれば、返すという心持である。爺様の目録にはこの意味は無い。
 座を敵にとられて勝つ左右外しの事
親父殿曰く。神妙剣の座を、敵にとられたならば、自分が取ったも同じ意味になる。まっすぐに用いなさい。場が詰まっている所等は、遠近の心持で一つ左足外して合わせる心持もいい。爺様の目録には仕掛けても、仕掛けられても場が詰まると分かったならば、一つ左足で遠近と飛び違って座の逢う心持に専心すること。位分けの体曲を欠く拍子、茂る拍子、いづれも詰まった時の心持であると書いてある。
 神妙剣について常に抱えていなければならない大事な教えの事
親父殿曰く。自分が神妙剣を塞いで掛ければ、敵の神妙剣は自然と空いて、勝ちやすくなるものだ。先、斗を思うのでは無い、懸かって行くにも、打つにも、自分の神妙剣を常に抱えていなければならない大事な教えであるという心持に専心すること。爺様の目録にもそれ以外の事は書いていない。
 両一尺(30cm)の教えの事
親父殿曰く。これは太刀の伸び縮みが一尺(30cm)以上になることは無いものだという事である。太刀を向こうへ出す拳から、自分の神妙剣までの間、一尺(30cm)より外へは行かない。太刀先の伸びも、一尺以上は伸びないのである。この一尺を打つ時、控えて打つ心持に専心すること。爺様の目録にもこれ以外には書いていない。
 足総身にて取る心持の事について水月(間合)にて影の心持ちあり
親父殿曰く。これは水月(間合)、神妙剣、十字手裏剣の三つの心持を取る心は、足でも手でも体でも、体全部で取る心持に専心しなさい。爺様の目録には、このことは書いていない。
 歩の事
親父殿曰く。水月の前(間合に入らない処)では、いかにも静かに心掛け、歩くのがいい。水月の内に入ったら、一つ左足早く心持がいい。爺様の目録には、歩く事には、唱歌の心掛けがあると書いている。また曰く。歩くのは、弾んで軽い心持である。一足の心持に専心すること。千里を行くのも、一歩からの始まると云々。また曰く。他流に烏左足、練り足などというのは、後ろの足を寄せて、前の足を早く出す為に使う歩みなのである。大体、歩くのは細かく、とどまらない心持に専念すること。練り足というのは、構えをして、じりじりと練り懸かるのを言うのである。
 闇の拍子歩の事
親父殿の目録にはこの意味は書いていない。爺様の目録には書いてある。しかし理は何も書いていない。弥三つ言うには、歩くのは普段の気持ちで歩く事。何の意識もせず、水平に静かであることがいい、と爺様(宗巌公)が言っていた語る人もいる。曰く。何の意識もしない。普段の歩く歩みが拍子ではないが拍子なのである。拍子の間である。間には拍子無いところである。無い処が拍子なのである。拍子がないからといって、拍子が違えばけつまずくのである。無い処の間の拍子が普段の歩みなのである。ここぞという時は、普段のように歩けないのである。心が働かないからだと知りなさい。

月之抄16

2010-12-26 18:02:38 | 月之抄
 神妙剣の事
古語曰く、
 心地は諸種を含む あまねく雨はことごとく皆きざす 花の性を頓悟すれば 菩提の菓 自ずから成る
親父殿曰く。中墨(なかずみ=両こぶしの間)というのである。太刀の収まるところである。へその周り五寸(15cm)四方の事である。十字手裏剣、水月(間合)、神妙剣、この三つは人間のたちまち太体の積り(距離)、兵法の父母である。この三つから心持が色々に出てくるのである。大方この三つに極まるのである。水月(間合)もこの神髄から発しているのである。思いつく心を月と定めて、神妙剣を鏡とする。それに映してよりは、勝ちやすいものである。人に大小があるように、水の場(間合)を取る時、その影を考えなさい。その場を取ることを打たないという事は無い。それを見損ずるものなのだ。深く取っては後へ退く事が出来ない。はずしは浅く取る所にポイントがある。場を取る所を打つと思う心を、かねて(予め)心に持つことが大事なのである。取るところを切らない者は、そのまま勝つこと。攻撃攻撃、先々と仕掛けていくこと。味を持つことが神妙剣なのである。爺様の目録には、神妙剣については、身位(構え)三重、位分けの待曲、条々の事、或いは中墨(なかずみ)というと書いてある。また曰く。神妙剣の事については、両一尺(30cm)の教えの事、太刀の神妙剣は源である。兵法の本来であるともいえると書いてある。これは徳川秀忠公の稽古の時分の親父殿の目録に書いたものが多い。また曰く。神妙剣の真の位の事、よくよく分別すべきである。これは極意の頂上である。古語に曰く。
 喜与 同 、 時喜自  、心随物作寄、人請我非夫
と書いたものもある。また曰く。身位三重の事、これは上、中、下の体の体勢、体のひねり、或いは開き三重あり。また向上、極意、神妙剣の太刀の勝ち口(勝つパターン)は身位三重であるとも書いてある。
 身位神妙剣取る心持の事
親父殿の目録に理なし。爺様の目録にも理なし。曰く。神妙剣を身位にて取る心持は、上中下三段、向開一重位の心持とかわらない。先祖三代からこれまでの目録の数は多い。その人々により色々に目録に替っている。心得るべきものか。
 真実の神妙剣、実の無刀の事
親父殿の目録に有る。理は何とも書いていない。徳川秀忠公の稽古の時分の目録に出てくる。また曰く。真実の神妙剣とは神所(次項に説明)である。また実の無刀とは根本の教えである。また真の無刀である。これは道具である。道具を以て、理、心もある。名を借りて言うと、もしまた教えようとする心持もある。人々により、その心を汲むべしである。西江水、真実の無刀という教えを秘めて借りた心持が一つ一つ多い。
 神所の教えの事
曰く。神所というのは、神妙剣の教えの中に心を据えなさい。据えれば神である。所作(しぐさ)は千万に働く(動く)が、この神所から始まるべきだ。待つぞ、乗るぞ、弾むぞと等というのは、このところの意味である。神内にあるので、妙外に表れて神妙剣である。この剣の字に位がある。敵にある神妙剣と、自分の体にある神妙剣との心持に替りある。詳しく目録に書いてある。ここに記さない。
 太体の神妙剣の事
親父殿曰く。立ち会いより仕掛けの心持である。敵の神妙剣の座が空くように心得なさい。太刀でも体でも場でも、取る心持、太体を外さない積り(間積もり)を言う。爺様の目録にはこの意味以外の事は書いていない。曰く。この神妙剣は色々に書かれているものが多い。或いは所作(しぐさ)の上に取りなして、或いは古語の理を取りなし、円相の神妙剣、或いは打ち合いの神妙剣などと書いてあるものもある。これに心は無い。所作(しぐさ)の納まり神妙剣、所作の始まり神所である。この二つに心を付けるべきである。この心持でどのようにも言いかえるのは自分の心の作である。

月之抄15

2010-12-26 16:41:54 | 月之抄
 水(間合)月の事、身位足手の盗みの事
取られて勝つことと書いたものが親父殿の目録にある。その理は書いていない。曰く。水(間合)を盗む心持は、体も足も、太刀の表裏(駆け引き)も盗む心持について書いている。取られて勝つというのも、敵が間合を盗み取る事を、こちら側で知ると、そのことはつまり、取られて勝つべしの事なのである。
 早味を越す心持の事
親父殿曰く。両方三寸(9cm)である。内外とも速い処、一寸二寸(3~6cm)である。越す、はずす、ここに心を付けるのである。爺様の目録に自分の初めの思いを早く越すのであると書いてある。
 勢々り(せせり)という事
親父殿曰く。これは表裏(駆引き)の心持の事である。水より前(間合に入るまで)では色々に仕掛けて、手立てにて花を咲かせ、なぶりたてて敵に随い、または随わないでも、また油断のところ、気を抜いてしまうところ多いものだ。間合に入る前に勝つ心持に専心すること。爺様の目録には勢々りという事については、水月を越さない(間合に入るまでの)心持であると書いてある。また曰く。勢々りとは、表裏(駆引き)の心持から、序を切り分けるしなし云々と書いてある。
 水入りの事について浮き沈む心持の事
親父殿曰く。水月(間合)より上手く切れないと思うのなら、水(間合)の中に入るのである。そうすれば浮く(事態が解決する)のである。勝つべしという思う心は水(間合)に入らないのである。沈む(事態が悪くなる)のである。その心持は深い。爺様の目録には水入りの事について、浮こうとすると沈み、沈もうとすると浮く心持である。重々口伝であると書いている。また曰く。水月の水というので、場を越して入る心持である。例えば、水心を知らない人が、水に浮こうとすれば却って沈み、沈もうと思えば却って浮くのである。浅い例えであるけれども興味深い例えである。水月の水に沈むと思って、切られる心持で水(間合)の中へ入るのである。
 真の水月(間合)の事
親父殿曰く。これは水の月という。映り写す心持である。敵の神妙剣を鏡に例えて、自分の心を月に例えて、自分の形を敵の鏡に映し、心の月を水月の水に映す事によって、勝つことがこちらの思いのままになる心持である。極意である。爺様の目録に真の水月の事について、映り写す心持、心の月、自分の形を一か所に映すのである。重々の心持口伝であると書いてある。また曰く。真の位(心の目線)について、覚えという教えがある。水月(間合)の事を考えなくても、心に独りでに覚えがあるものだ。これは自然とある水月(間合)、真の位(心の目線)なのである。当たる、当たらないの境は素人でも知っているのである。教えを知らなくても知っている心持、心にあるもの、心を水に映し、形を鏡に映すのである。一塵の曇りがあれば、月は出ないのである。古語に曰く。日に新たにして、日々新た。また日を新たにする。月だ、鏡に水だという心持は感知するのは深い意味がある。説明する人があっても、知る人は無く、知る人があっても、事情に通じている人は無い、と古語にある。
 水に法無しという心持の事については、月に兵無しという事
親父殿曰く。水月に兵法が無いという心持である。月の映るのが兵法である。月は勝つのであると言っても、写してよりも勝つのを備わっている心持である。水(間合)に入らないなあというところには構えは無いのである。歌に引くと
 浮草を 払いて見れば 底の月 ここに有りとは 誰か知るらん
爺様の目録にはこの教えは書いていない。

月之抄14

2010-12-26 14:29:04 | 月之抄
 水月を敵にとられて勝つ心持の事
親父殿(柳生但馬の守宗矩)曰く。これは敵から水(間合)を取りたらば、自分が取ったも同然である。まっすぐに仕掛けるべきである。十字手裏剣を敵に使わせて、勝つというにも同然である。爺様(柳生石舟斎宗巌)の目録には理は書いていない。
 水月(間合)の活人刀の事
親父殿曰く。水月(間合)は右同じ。殺人刀・活人剣という事あり。他流には、下段の太刀を殺人刀という。新陰流には下段の太刀を活人剣という。当流には構えた太刀を殺人刀といい、構えた太刀を全て残らず裁断して、構えの無い所を構えとして活人剣として用いることにより生じる所活人剣である。爺様の目録には水月の活人剣の事は、立会いの事であると書いてある。また曰く。水の場まで近寄っては、どのようにしても、勝つべきも打つべきも自分の思い通りに成る心持であるので、 こそ活人剣といきたる心持である。至極面白い心持である。また曰く。水の内(間合の中)へ入らないで活人剣の太刀にて序を切り掛けて勝つべしとも書いてある。
 水月のかかへ(間合について心にいつも抱えておくべき大事な教えの意味)という心持の事
親父殿曰く。敵から懸かってきた場合は、水を抱えて(間合の事を心の内に思い出し)、待ちの内より、相手を見る心持ちである。爺様の目録には理なし。また曰く。これは打ちの場合も、待ちの場合も、懸かって行く場合にも、前方に控えた心持を抱えるというのである。
 水の後の心持の事
曰く。水月(間合)を取るならば、後ろを広く、余裕の有るように取るべし。場を取り直し等する時の為である。立ち会いが急である場合、また、狭い処などでこの心持はいい。詰まった所であれば、場所の余裕を取りなさいというのも同じことだ。心持も色色あるべし。爺様の目録にはこの意味はない。また曰く。詰まった場所ならば余裕を取りなさいと云うのは、狭い所では早く場を取り、後ろへ余裕を持ちなさい。曰く。当たるのを許さないという心持も立ち会いになり、場を早く取ってみれば、片手太刀などには、とづくものである。当たれば待つ。チャッと打って退きなさい。許さない事。間合に入らないで、勝つ気持ちである。必ず勝ちやすくなるものである。
 左足で間を積もり足の運び方の事
親父殿曰く。場が詰まるなあと思ったならば、水月(間合)を近く積って取りなさい。はずさないようにと思うならば水(間合)を遠く取るといい。足の運びは、後ろの足を早く寄せ掛ける事に専心しなさい。当流にはからす左足という心持がある。爺様の目録には何とも書いていない。また曰く。左足は浮き立って軽いのがいい。足の運びは、いかにも静かに小足がいい。大体一尺(30cm)ほどずつ拾い歩く心持である。下心(心の底では)詰まっても、上(表面上)は静かであるのに越したことはない。
 そり懸かりという心持の事
曰く。上段の者は、上が速いので、下の水(間合)を取り入れ、身位(構え)三尺(91cm)を腰より上をそり掛けて、一拍子に入り合うべき支度である。たとえ打つ時も、水の場にては敵の打太刀をはずして受けるのは当たらない、はずさないで打つ心持では、はずしても敵に打たれるものである。このことはどの目録にも無い。

月之抄13

2010-12-23 20:01:22 | 月之抄
 天地の種子の事
親父殿(但馬の守宗矩)曰く。この教えは六ヵ敷して言い分けるのは難しい。沢庵和尚に尋ねるべきゆえんである。自分はこの理由を物語してみれば、和尚は言った。これは八識の理を知らなければならない。これは次のような内容である。
 麻(ま)   円成性       過去の原因を知ろうと思えば
 縄(じょう) 依他性       その現在の結果を見てみなさい
 蛇      偏計性 
 因      善悪の種を植える 
 未来の結果を知りたければ
 像      両露也       その現在の原因を見なさい
 果      果の成る処
物の色を赤と見、白と見初めて一念、眼・耳・鼻・舌・身・色・声・香・味・触を知るに付けて、初めて生じる一念(思い)なのである。いまだ分別が生じない前の時の事なのだ。それからしばらくしてから区別が生じて、この白い物は雪なのか、梅の花なのかと分別するところがこの意味なのである。これを第六識という。眼・耳・鼻・舌・身を前に五識という。これに意識を加えて、第六識という。さてこれは雪ではない。梅の花だと決定したところ、これを第七識という。すでに七識にて決定し終わって胸の内に何も無くなるところを第八識という。これは八識真如という本文の白地である。すでに本文の白地にして、一 一塵も無いと思えば、また時として彼一念に起こった白梅が忽然として胸に出てくる。これは第八識に種が残っているためである。一切の善悪の所業がこの八識に残って、この八識から出て生死流転するのだぞ。その故に、人が死ぬときは、前の五識から死んで行くのである。これを「 識」という。次の六識の意識が息絶える。次に七識から八識の空き所に入って、また輪廻を出るときは、八識より七識に出てきて、七識より六識の意識が生じて五識、五識に出てきて得、足りて今日の自分になるのである。七識・八識を、細識という。生じるときは細より「 」に出てきて、死ぬときは「 」より細に入る。人が死ぬときは、眼・耳・鼻・舌・身から死んでいくものなのである。これを「識分の沙汰」という。この次てに物語が面白いので書いておいた。
 一二因縁
 無明行識名色六入触受愛取有生老死自然という事
白は自性、自は本体、然は本然、然は所という心だよ。自は天にもつかず、地にもつかず、独立したものである。自然は法性である。草木は人も極まらずに出来たものであれば、自然に似ていると例えた心なのだよ。例えば、その人に会いたいなあと思うに、心ならずも約束もしないのに行き会う時、自然に逢ったと言うのは、自然に似たという心だよ。「  万住尊、秋水家々月、彼此出家児、礼亦不可 、三界唯心、万法唯識」これにかの歌
 さびしさに 宿を立ち出で 眺むれば いすくも同じ 秋の夕暮れ  良せん法師
 水月(間合)の事についてその影の事、位を盗む心持の事
古語に曰く
 心は水中の月に似、形は鏡の上の影の如し
親父殿曰く。敵の身長、自分の身長を三尺(91cm)の教えのように間合いを取ること。これまでは敵の攻撃が当たらない目安なのだ。この位置を体と足で取り、相手に知れぬように、水月(間合)の中に取り込むのを「盗む」というのである。水の内(間合いの中)においては、攻撃態勢で打つべし。それにより、間合いの内に入ることを映り、写すという心持に専心するのである。これは一円に相手の攻撃が当たらない位置である。爺様(石舟斎宗巌)の目録には別の意味は書いていない。また曰く。敵よりも身長が高い場合や低い場合もあろう。その身長に相当分を場へ写し取る心持を、その影という。また曰く。映り、写すというのは、水に影を映し、写す心を映って見るところが大事なのである。