五字の沙汰の事
親父殿曰く。これは祭りである心である。地水火風空等言うので縁固めである。この五字の教えの上に言うのは、十字手裏剣、神妙剣、水月、病気、空である。文字に直すと、手=地、水=水、神=火、病=風、空=空である。空の内の棒心、西江水と知るべきである。
我神妙剣を返すという心持の事
親父殿曰く。前後左右神妙剣である。後ろから懸かってきても、敵が打つ時は神妙剣に向かうものである。逆に取っても、神の座は合うものである。逢う時、身位(構え)の敵の座に合わすべきである。自分の神妙剣は敵の座に合わせれば、返すという心持である。爺様の目録にはこの意味は無い。
座を敵にとられて勝つ左右外しの事
親父殿曰く。神妙剣の座を、敵にとられたならば、自分が取ったも同じ意味になる。まっすぐに用いなさい。場が詰まっている所等は、遠近の心持で一つ左足外して合わせる心持もいい。爺様の目録には仕掛けても、仕掛けられても場が詰まると分かったならば、一つ左足で遠近と飛び違って座の逢う心持に専心すること。位分けの体曲を欠く拍子、茂る拍子、いづれも詰まった時の心持であると書いてある。
神妙剣について常に抱えていなければならない大事な教えの事
親父殿曰く。自分が神妙剣を塞いで掛ければ、敵の神妙剣は自然と空いて、勝ちやすくなるものだ。先、斗を思うのでは無い、懸かって行くにも、打つにも、自分の神妙剣を常に抱えていなければならない大事な教えであるという心持に専心すること。爺様の目録にもそれ以外の事は書いていない。
両一尺(30cm)の教えの事
親父殿曰く。これは太刀の伸び縮みが一尺(30cm)以上になることは無いものだという事である。太刀を向こうへ出す拳から、自分の神妙剣までの間、一尺(30cm)より外へは行かない。太刀先の伸びも、一尺以上は伸びないのである。この一尺を打つ時、控えて打つ心持に専心すること。爺様の目録にもこれ以外には書いていない。
足総身にて取る心持の事について水月(間合)にて影の心持ちあり
親父殿曰く。これは水月(間合)、神妙剣、十字手裏剣の三つの心持を取る心は、足でも手でも体でも、体全部で取る心持に専心しなさい。爺様の目録には、このことは書いていない。
歩の事
親父殿曰く。水月の前(間合に入らない処)では、いかにも静かに心掛け、歩くのがいい。水月の内に入ったら、一つ左足早く心持がいい。爺様の目録には、歩く事には、唱歌の心掛けがあると書いている。また曰く。歩くのは、弾んで軽い心持である。一足の心持に専心すること。千里を行くのも、一歩からの始まると云々。また曰く。他流に烏左足、練り足などというのは、後ろの足を寄せて、前の足を早く出す為に使う歩みなのである。大体、歩くのは細かく、とどまらない心持に専念すること。練り足というのは、構えをして、じりじりと練り懸かるのを言うのである。
闇の拍子歩の事
親父殿の目録にはこの意味は書いていない。爺様の目録には書いてある。しかし理は何も書いていない。弥三つ言うには、歩くのは普段の気持ちで歩く事。何の意識もせず、水平に静かであることがいい、と爺様(宗巌公)が言っていた語る人もいる。曰く。何の意識もしない。普段の歩く歩みが拍子ではないが拍子なのである。拍子の間である。間には拍子無いところである。無い処が拍子なのである。拍子がないからといって、拍子が違えばけつまずくのである。無い処の間の拍子が普段の歩みなのである。ここぞという時は、普段のように歩けないのである。心が働かないからだと知りなさい。
親父殿曰く。これは祭りである心である。地水火風空等言うので縁固めである。この五字の教えの上に言うのは、十字手裏剣、神妙剣、水月、病気、空である。文字に直すと、手=地、水=水、神=火、病=風、空=空である。空の内の棒心、西江水と知るべきである。
我神妙剣を返すという心持の事
親父殿曰く。前後左右神妙剣である。後ろから懸かってきても、敵が打つ時は神妙剣に向かうものである。逆に取っても、神の座は合うものである。逢う時、身位(構え)の敵の座に合わすべきである。自分の神妙剣は敵の座に合わせれば、返すという心持である。爺様の目録にはこの意味は無い。
座を敵にとられて勝つ左右外しの事
親父殿曰く。神妙剣の座を、敵にとられたならば、自分が取ったも同じ意味になる。まっすぐに用いなさい。場が詰まっている所等は、遠近の心持で一つ左足外して合わせる心持もいい。爺様の目録には仕掛けても、仕掛けられても場が詰まると分かったならば、一つ左足で遠近と飛び違って座の逢う心持に専心すること。位分けの体曲を欠く拍子、茂る拍子、いづれも詰まった時の心持であると書いてある。
神妙剣について常に抱えていなければならない大事な教えの事
親父殿曰く。自分が神妙剣を塞いで掛ければ、敵の神妙剣は自然と空いて、勝ちやすくなるものだ。先、斗を思うのでは無い、懸かって行くにも、打つにも、自分の神妙剣を常に抱えていなければならない大事な教えであるという心持に専心すること。爺様の目録にもそれ以外の事は書いていない。
両一尺(30cm)の教えの事
親父殿曰く。これは太刀の伸び縮みが一尺(30cm)以上になることは無いものだという事である。太刀を向こうへ出す拳から、自分の神妙剣までの間、一尺(30cm)より外へは行かない。太刀先の伸びも、一尺以上は伸びないのである。この一尺を打つ時、控えて打つ心持に専心すること。爺様の目録にもこれ以外には書いていない。
足総身にて取る心持の事について水月(間合)にて影の心持ちあり
親父殿曰く。これは水月(間合)、神妙剣、十字手裏剣の三つの心持を取る心は、足でも手でも体でも、体全部で取る心持に専心しなさい。爺様の目録には、このことは書いていない。
歩の事
親父殿曰く。水月の前(間合に入らない処)では、いかにも静かに心掛け、歩くのがいい。水月の内に入ったら、一つ左足早く心持がいい。爺様の目録には、歩く事には、唱歌の心掛けがあると書いている。また曰く。歩くのは、弾んで軽い心持である。一足の心持に専心すること。千里を行くのも、一歩からの始まると云々。また曰く。他流に烏左足、練り足などというのは、後ろの足を寄せて、前の足を早く出す為に使う歩みなのである。大体、歩くのは細かく、とどまらない心持に専念すること。練り足というのは、構えをして、じりじりと練り懸かるのを言うのである。
闇の拍子歩の事
親父殿の目録にはこの意味は書いていない。爺様の目録には書いてある。しかし理は何も書いていない。弥三つ言うには、歩くのは普段の気持ちで歩く事。何の意識もせず、水平に静かであることがいい、と爺様(宗巌公)が言っていた語る人もいる。曰く。何の意識もしない。普段の歩く歩みが拍子ではないが拍子なのである。拍子の間である。間には拍子無いところである。無い処が拍子なのである。拍子がないからといって、拍子が違えばけつまずくのである。無い処の間の拍子が普段の歩みなのである。ここぞという時は、普段のように歩けないのである。心が働かないからだと知りなさい。