太刀いっぱいに打つといういう心持の事
これは腕までが太刀であるという心である。太刀先まで太刀として使いこなして打つ心持の事が、太刀いっぱいの打ちなのである。これは木村勘九郎が工夫したものである。同録ではない。本末を思うべからざる心なのである。太刀に使われるという事について言うならば、「太刀に使われなさい」が答えである。親父殿曰く。これは太刀を使って打つべきだと思うときが、太刀に使われているのである。太刀を使わないで、打たない心であるときは、自分が太刀を使っている心なのである。その時は、「太刀に使われなさい」が正解なのである。太刀を使わない心の時は、太刀を使う心なのである。使うべきであると思う心は、太刀に使われている心なのである。諸事について面白い心持である。爺様の目録にはこの考え方は書いていない。
切らない取らないという心持の事
親父殿尾曰く。おおよそ当流では、無心であれ、心を至極と用いるのに、心の中に一つの塵も無いようにしなさいと言うのであるが、これは太刀にて切るべきだと思う心に支障となる。心の中の塵となる。無刀の時に、相手の太刀を取るべきだという考えも心の中の塵となる。勝ちもせず、負けもせず、唯無事であるのが、至極の勝ちである。無事を切らせようとするのはいずれも敵の負けである。爺様の目録には自由に振舞うには勝つという考えを捨てて、負けないという事を考えなさい、これは口伝の大秘事である、と書いてある。徳川家康公の稽古の目録にも爺様の書であると書いてある。曰く。夜詰伺の兵法の雑談の時に、徳川家光公 。無心である時に、有心ではいずれも負けである。例えば、木や竹や柱などのような無心である物に、兵法で立ち向かえば、勝負は当たるところに有るものだ。無心と無心は一つの我であるので、行きあって当たるところに勝負が分かれる、つまり無心でありながら有心の心である、と。至極をおっしゃられたのである。重ねて 。この心持は、座敷の上でも、鷹狩、或いは鹿狩りの時にも、兵法を使う時にも、舟の上で飛び上がる場合にも、合戦に及ぶ場合でも、この考えを思い出せるかどうかで勝負が分かれるものである、と。肝に銘ずる考えである。
あまるをかぶると云う心持の事
親父殿曰く。これは打ち外しや切り損じ等して、そのままの状態であるよりは、太刀を頭の上に上げ、自分の楯として時分の体を太刀の中へ入ってしまいなさい。おおよそ、し損じた場合、残心の心持を以て、どんなことでも全て取り合いすべき判断や心持ち当たるの大事なのである。爺様の目録には別の意味は書いていない。
打ち打たれ、打たれて勝つ習いの事
親父殿曰く。これは、まずまず切ろう、打とうと思う気持ちによって、却って敵に切られるのである。敵によく切られ、打たれようと思えば、敵が切って来るのに、先を待って勝つ心である。切られるところの勝ちである。打とうとすれば、所作が先に出てくるので、先を敵に取られて切られるのである。打ち分かれる為である。打てば打たれる。打たれたら勝つと心得るべきである。諸事に付、面白い心である。爺様の目録には別に意味は無い。一首に歌を引いて、
極楽へ 行かんと思ふ 心にぞ 地獄へ落つる 初めなりけり
という古歌も取って、それを引きなおして、爺様の歌に
兵法に 勝たんと 思ふ 心こそ 試合に負ける 初めなりけり
別拍子の事
親父殿曰く。これは捷径の太刀の使い方である。太刀を頭の上にあげるのと、体を下へ下げると一度に分ければ、拍子がなくなるのである。これが別拍子である。爺様の目録には別の意味は無い。また曰く。拍子に分けて見れば、勝ちやすいのである。例えば、敵が切って来るのに、時を移さず拍子を分けて、自分の体に当たらない総体で、敵の打ちを通して、打ちに分かれて見れば、勝ちが沢山になるものである。
これは腕までが太刀であるという心である。太刀先まで太刀として使いこなして打つ心持の事が、太刀いっぱいの打ちなのである。これは木村勘九郎が工夫したものである。同録ではない。本末を思うべからざる心なのである。太刀に使われるという事について言うならば、「太刀に使われなさい」が答えである。親父殿曰く。これは太刀を使って打つべきだと思うときが、太刀に使われているのである。太刀を使わないで、打たない心であるときは、自分が太刀を使っている心なのである。その時は、「太刀に使われなさい」が正解なのである。太刀を使わない心の時は、太刀を使う心なのである。使うべきであると思う心は、太刀に使われている心なのである。諸事について面白い心持である。爺様の目録にはこの考え方は書いていない。
切らない取らないという心持の事
親父殿尾曰く。おおよそ当流では、無心であれ、心を至極と用いるのに、心の中に一つの塵も無いようにしなさいと言うのであるが、これは太刀にて切るべきだと思う心に支障となる。心の中の塵となる。無刀の時に、相手の太刀を取るべきだという考えも心の中の塵となる。勝ちもせず、負けもせず、唯無事であるのが、至極の勝ちである。無事を切らせようとするのはいずれも敵の負けである。爺様の目録には自由に振舞うには勝つという考えを捨てて、負けないという事を考えなさい、これは口伝の大秘事である、と書いてある。徳川家康公の稽古の目録にも爺様の書であると書いてある。曰く。夜詰伺の兵法の雑談の時に、徳川家光公 。無心である時に、有心ではいずれも負けである。例えば、木や竹や柱などのような無心である物に、兵法で立ち向かえば、勝負は当たるところに有るものだ。無心と無心は一つの我であるので、行きあって当たるところに勝負が分かれる、つまり無心でありながら有心の心である、と。至極をおっしゃられたのである。重ねて 。この心持は、座敷の上でも、鷹狩、或いは鹿狩りの時にも、兵法を使う時にも、舟の上で飛び上がる場合にも、合戦に及ぶ場合でも、この考えを思い出せるかどうかで勝負が分かれるものである、と。肝に銘ずる考えである。
あまるをかぶると云う心持の事
親父殿曰く。これは打ち外しや切り損じ等して、そのままの状態であるよりは、太刀を頭の上に上げ、自分の楯として時分の体を太刀の中へ入ってしまいなさい。おおよそ、し損じた場合、残心の心持を以て、どんなことでも全て取り合いすべき判断や心持ち当たるの大事なのである。爺様の目録には別の意味は書いていない。
打ち打たれ、打たれて勝つ習いの事
親父殿曰く。これは、まずまず切ろう、打とうと思う気持ちによって、却って敵に切られるのである。敵によく切られ、打たれようと思えば、敵が切って来るのに、先を待って勝つ心である。切られるところの勝ちである。打とうとすれば、所作が先に出てくるので、先を敵に取られて切られるのである。打ち分かれる為である。打てば打たれる。打たれたら勝つと心得るべきである。諸事に付、面白い心である。爺様の目録には別に意味は無い。一首に歌を引いて、
極楽へ 行かんと思ふ 心にぞ 地獄へ落つる 初めなりけり
という古歌も取って、それを引きなおして、爺様の歌に
兵法に 勝たんと 思ふ 心こそ 試合に負ける 初めなりけり
別拍子の事
親父殿曰く。これは捷径の太刀の使い方である。太刀を頭の上にあげるのと、体を下へ下げると一度に分ければ、拍子がなくなるのである。これが別拍子である。爺様の目録には別の意味は無い。また曰く。拍子に分けて見れば、勝ちやすいのである。例えば、敵が切って来るのに、時を移さず拍子を分けて、自分の体に当たらない総体で、敵の打ちを通して、打ちに分かれて見れば、勝ちが沢山になるものである。