十兵衛と語ろう

十兵衛と語ろう

月之抄21

2011-01-15 10:46:13 | 月之抄
 太刀いっぱいに打つといういう心持の事
これは腕までが太刀であるという心である。太刀先まで太刀として使いこなして打つ心持の事が、太刀いっぱいの打ちなのである。これは木村勘九郎が工夫したものである。同録ではない。本末を思うべからざる心なのである。太刀に使われるという事について言うならば、「太刀に使われなさい」が答えである。親父殿曰く。これは太刀を使って打つべきだと思うときが、太刀に使われているのである。太刀を使わないで、打たない心であるときは、自分が太刀を使っている心なのである。その時は、「太刀に使われなさい」が正解なのである。太刀を使わない心の時は、太刀を使う心なのである。使うべきであると思う心は、太刀に使われている心なのである。諸事について面白い心持である。爺様の目録にはこの考え方は書いていない。
 切らない取らないという心持の事
親父殿尾曰く。おおよそ当流では、無心であれ、心を至極と用いるのに、心の中に一つの塵も無いようにしなさいと言うのであるが、これは太刀にて切るべきだと思う心に支障となる。心の中の塵となる。無刀の時に、相手の太刀を取るべきだという考えも心の中の塵となる。勝ちもせず、負けもせず、唯無事であるのが、至極の勝ちである。無事を切らせようとするのはいずれも敵の負けである。爺様の目録には自由に振舞うには勝つという考えを捨てて、負けないという事を考えなさい、これは口伝の大秘事である、と書いてある。徳川家康公の稽古の目録にも爺様の書であると書いてある。曰く。夜詰伺の兵法の雑談の時に、徳川家光公 。無心である時に、有心ではいずれも負けである。例えば、木や竹や柱などのような無心である物に、兵法で立ち向かえば、勝負は当たるところに有るものだ。無心と無心は一つの我であるので、行きあって当たるところに勝負が分かれる、つまり無心でありながら有心の心である、と。至極をおっしゃられたのである。重ねて 。この心持は、座敷の上でも、鷹狩、或いは鹿狩りの時にも、兵法を使う時にも、舟の上で飛び上がる場合にも、合戦に及ぶ場合でも、この考えを思い出せるかどうかで勝負が分かれるものである、と。肝に銘ずる考えである。
あまるをかぶると云う心持の事
親父殿曰く。これは打ち外しや切り損じ等して、そのままの状態であるよりは、太刀を頭の上に上げ、自分の楯として時分の体を太刀の中へ入ってしまいなさい。おおよそ、し損じた場合、残心の心持を以て、どんなことでも全て取り合いすべき判断や心持ち当たるの大事なのである。爺様の目録には別の意味は書いていない。
 打ち打たれ、打たれて勝つ習いの事
親父殿曰く。これは、まずまず切ろう、打とうと思う気持ちによって、却って敵に切られるのである。敵によく切られ、打たれようと思えば、敵が切って来るのに、先を待って勝つ心である。切られるところの勝ちである。打とうとすれば、所作が先に出てくるので、先を敵に取られて切られるのである。打ち分かれる為である。打てば打たれる。打たれたら勝つと心得るべきである。諸事に付、面白い心である。爺様の目録には別に意味は無い。一首に歌を引いて、
 極楽へ 行かんと思ふ 心にぞ 地獄へ落つる 初めなりけり
という古歌も取って、それを引きなおして、爺様の歌に
 兵法に 勝たんと 思ふ 心こそ 試合に負ける 初めなりけり
 別拍子の事
親父殿曰く。これは捷径の太刀の使い方である。太刀を頭の上にあげるのと、体を下へ下げると一度に分ければ、拍子がなくなるのである。これが別拍子である。爺様の目録には別の意味は無い。また曰く。拍子に分けて見れば、勝ちやすいのである。例えば、敵が切って来るのに、時を移さず拍子を分けて、自分の体に当たらない総体で、敵の打ちを通して、打ちに分かれて見れば、勝ちが沢山になるものである。

月之抄21

2010-12-28 22:09:17 | 月之抄
 心を映すという心持の事
親父殿曰く。見つける時、体、足を一度に懸かる事である。爺様の目録には、水月(間合)真の位については映す心であると書いてある。また曰く。心を映すとは、他念の無いところである。捧心を見る心の内に他念ない心は、まるで水に月が映るようだというのである。
 一尺虚空の懸の事
爺様の目録に一尺に虚空の懸の事、捧心を待たないでと書いてある。親父殿曰く。これは水月(間合)一尺(30cm)、又は太刀先一尺まで懸かっても捧心が見えない時は、自分の方から動いて、打つ心持である。虚空に打って見れば捧心に合う心である。一尺(30cm)よりは、虚空に仕掛けるべし。すなわち迎えとなる心持である。また曰く。付け懸かかっても、一尺(30cm)と詰まった場所には述べにくい勝つ有る心なのである。言うにも言われず。筆にも及ばない心持の勝ち口の虚空という。急に割りなき刹那の所の詰まった事を言うために一尺という心持でもある。
 新目の教えの事
親父殿曰く。相手を見つめてしばらく経てば、観察力が暗くなって、思いのままに(相手の意図が)見にくいものである。自分の心の発する時の目の心持がもっぱらである。思いついた際はるし捧心を見る為である。爺様の目録にこの意味について書いていない。また曰く。この心は、目を塞ぎ居て、見ようと思う時は、目の明(観察力の強さ)、つまり見る眼精を心得なさい。捧心を見ようとしてまぶりつめているのは、(却って観察力が)暗くなる為、発せない前に捧心を思い、さのみ目だけでは見ないで、発する所にて見る心持、目を新しくする心持である。
 打つに別れるという心持の事
親父殿曰く。発するところを見つけ次第早く打つ事が大事なのである。打つのは手ではない。心によって打つことにより、手に心が無いのを「別れる」というのである。爺様の目録にはこの件は書いていない。例えば、打ちにても、また所作にても、心に思うところにても、執着するところを打ち落とし、打ち落とした心にも、これは捨てると口伝にある別れる心持ちである。じ味多い教えである。
 打ちに別れると心持ちの事
親父殿曰く。これは太刀を打ってくる打ちに、心を留めないで、心は残心と返して用いること。打つと心と別れる心持ちである。打つのに心を盗られないという意味である。爺様の目録にもこれ以外の意味は無い。また曰く。打つに別れ、体に別れ、気に別れ、心に別れ、念に別れ、所作に別れなさい、というのはいずれもすべて同じ意味である。

月之抄20

2010-12-28 20:07:46 | 月之抄
 五観一見の事
爺様の目録に五観一見の位、第一水月(間合)、第二その道を塞ぐ風体三寸(9cm)に心の事、第三神妙剣の事、第四一尺(30cm)に虚空の懸の事、第五左足の位を知ること、一見の事、捧心の目付と書かれている。また曰く。五観一見は口伝。神妙剣の事、水月について太刀合い三寸(9cm)の事、歩風体と書いてあるものもある。親父殿の目録には、神妙剣、水月、身の懸かり、左足、捧心、この五つを五観一見の教えと定めてある。この五つの内より、一見と見出したのは、捧心である。これは秘事である。一見を見る心持ちに色々多い。映すという心持である。目と心と一度にかかるという心持である。日を新しくするというのは、見つめた目には細かなところが見えないので、新しい心持を用いるのである。打つに分かれるというのも、捧心の一見を見ると一度に、手を分かれて打つ心持である。没じ味の手段の内に心持ち有り。打ち掛ける味に心を入れ、打ちの内に打つ有るのも、拍子という心の内に使う味がよい。茂拍子も打とうと思う心持ち出来る所、自分の方から仕掛け打つ心持である。また曰く。手裏剣、病気、この四つを一つにして一見と見るのである。五つの内より、一見と見るのは、手裏剣である。水月(間合)、神妙剣、体、手足、この四つを太体に用いるのである。観察である。手裏剣を見るために、病気を去ることが大事であると、書いたものもある。曰く。五観一見という心持は、教えは所作(動作)、体に受ける所の惣太体は五つであって、五つの内から見る心一つを専らとして一見という心持である。四つは観に用いるのである。この一見と見る心を指してこれは極めて一刀の真実の無刀という。
 三つの教えの事について一つに去り空に構える心
親父殿曰く。一つに去り、目付よりは空の拍子の方が速い。空よりは又捧心の方が速いのである。その後で、一つの早い捧心を心にかけることで、仕損じては空へ合うか、一つに去るところへ合うかである。三つの内では、唯捧心一つを専らとしなさい、という心持である。爺様の目録にはこれ以外の意味を書いていない。曰く。これは、上中下の三段である。上を思う心である。下は自然に成る心持である。目付の心次第次第に細かに見あけた心持である。
 起醒の事
爺様の目録にある。これは拳をよくよく目付をして、起こることに専心すること。終わるのを醒というのである、と書いてある。親父殿の目録に、この意味は書いていない。また曰く。何事にも用いる事が出来る教えである。起こり醒める所、自分は人にするべきでない。用い方は考えなさい。
 真の捧心の事について一尺二寸
親父殿曰く。昔は腕の、肘の曲がり目から拳までを一尺二寸に定め、この間の捧心を見ようと思えば、見やすい心持である。体、捧心は心の発する所であるならば、それに限ってはいけない。五体の内で、動き働きのない前に、敵の心の発する所を、見つける事が、捧心の真の位である。まずまず四つの所に専念して心を掛けること。敵の眼と、足と、身の内と、一尺二寸のこの四つの所に知れるものである。心の行くところには目をやりたくなり、懸かろうと思えば、足は出るものだ。心に思う筋があれば、身のこなしは普段と変わり、見えるものである。一尺二寸は元より発するのである。この発するところ五体の内では何処でも捧心と知らなければならない。爺様の目録には捧心の事については一尺二寸であり、口伝。萌す所に二つの心持ちがある。萌すと心に射すとの変わりがあるのである。大事口伝と書かれているものがある。
 移らせるという心持の事
親父殿の目録にこの注釈はない。爺様の目録には有る。自分の心の下作りが正しければ、敵は攻撃のやる気を失って、自分に移る心持は口伝について表裏迎えに、よく敵が突くように仕掛けるのを、移らせる心持であると書かれているものもある。また曰く。この教えは、仕掛けても仕掛けなくても、先を待つ心である。これは徳川家康公が稽古の時分、爺様の目録にここに書いてあるようである。その以後の目録には書いていないのである。

月之抄19

2010-12-28 14:53:55 | 月之抄
 一に去る事
親父殿曰く。病気の内を、動き一つに去れという事である。三つの病を去って、手裏剣一つにしなさいという事である。これより細かくに見上げた心持がある。爺様の目録にはこれ以外の事は書いていない。また曰く。教えの数々を思う事も病であるので、いずれも皆去って、一心一つに至る心持、一つ去る真の位である。ここに至って見れば、目付次第に細かに、見なし上げて、空棒心となるところの目付、観の目付に至れば有るの目付は見えやすい心持である。
 空の拍子の事
親父殿曰く。中段下段の太刀あがらなければ、切ることがない。そのことにより、上がる所へ拍子を用いるのである。上段の太刀はいづれも体を離れた構えであるので、上げることができなければ、下ろす事一つだけしかない。下ろす所は見えにくいものである。これにつき、見えない先、現れていない先を心につけることに専心すること。心に空あり。空というのは見えないところである。工夫の心持がもっぱらの大事である。爺様の目録にはそれ以外の事は書かれていない。また曰く。空というのは二つある。虚空と心の空の違いは、本空、凡空とも云う。無私であるところに心を付けなさい。至極である。心は形も無く、色も無い。香りも無い。見えないところを例えた空である。目付や仕掛けや、諸事万事の動きが働き(動き)出す前に、無い処に心を付けなさい、心を指して空と知りなさい。無事であるところを空と知りなさい。現れた所は空の末である、親父殿曰く。空の教えは敵が動き始める心を見知る教えである。迎えを仕掛け、敵が思いつくところを空という。手裏剣の起こり初めの事である。また、青眼の構えにつけるという心持は、また上がるところを勝つのを空の拍子というが、棒心よりは遅い。一つに去るよりは速い。等と書かれている。いずれもこれは、徳川秀忠公が稽古されている時分に書かれている目録に書いてある。
 捧心の事
経文に曰く、真言は不思議である、観受すれば無明を除く、一字に千里を含んでいる。即身は法如を証明する、行行円寂に至る、去去原初に入り、三界は客舎のようだ。一心にこれ居ない。
また曰く。これは心の発するところを見る心である。空の内よりこれを見ることが大事である。まだ見えない内に、心をつけることにより、見えるというのである。見えないので、見ようと思う心によってよくなるのである。この目付は思いのままにならないのである。しかし、これを心がければ、空の拍子、一つに去ること、動き三つの段、目付残るところ無く、よく成るのであり、ここを専らと心が来るのである。心が外れるところ捧心一つに限らずあるのである。ここを気ざさせん為に迎え表裏を用いるのである。観察力に精通すれば、何事も見えないという事は無い。観察力により一見と見出す捧心である。爺様の目録には捧心目付迎えの事、逆目付の事が書かれたものがある。抑えこの教えは爺様が初瀬寺に祈請したのに、キセンクンジュシテテかねのを、取り合えず奪い合い、取るもの、取り外すもの、使いの数を知らない、つくつくと見て、得心して、今この捧心の教えとする。偏に観音の違いであると云々。教えの心持は至極である。見の目付である。至極の心持は、見の目付に極まるので、これに専念しなさい。切ろうと思う心が出てくると、太刀の柄を握るものである。握れば腕の筋が張るのである。張る所を見なさい。このところが見えにくいものなのだ。見えにくい処を是非見ようと思えば、観察力に長けるというのは、目で見ないで、見るのである。目を塞いで見る心持ちである。心眼という観察力である。見えた所は心眼で見るのである。この心は空である。空を見るのは心である。心は空である。心が空を見ようと思えば観察力に至るのである。観察力に至れば、無い処に心がある為に、捧心が見えるのである。心を捧げるところである。これが捧心である。思い染める志を見ようとすれば、思い染めない以前、無い処を心がけなければ、見えないのである。爺様の目録に捧心の目付は空おうの拍子の事であると書いたものがある。親父殿の目録に捧心の教えの事、これは先先のちょうちょうである。敵が思いつかない一円に働き(動き)もないところを、無理に仕掛けて打つべし。その心持は目付であり、見えないものである。見えないところを向上の目付というのである。観見の心持は、観の字の心持第一であると書いてある。これは徳川秀忠公の稽古の教えの目録にある。

月之抄18

2010-12-28 12:45:00 | 月之抄
 一理の事
親父殿曰く。向う構えについて、これを用いる。切れば言うに及ばずとも、水月の内(間合の中)に入って、無刀などになって、一円に切らないもある。相手の動きを待ちかねて、無理に取ろうと思う心があるならば、行き当たる心がある。それについても、左様これもとは、突くところを見ようと思う気持ちを外さないで仕掛ければ、打つのは言うに及ばず、切るよりは取りやすいものである。鑓に対しても同じである。身位(構え)を忘れてはいけ無いという事に専念しなさい。爺様の目録にはこれ以外の意味は書いていない。また曰く。向う構えは突く事、切るよりも早く、見えにくいものである。それ故に、突く事一つを心に思っていれば、切ることは見えやすいという心持である。
 真の位一理の事
曰く。諸法万法天地の間の理に漏れているような事は無い。諸事万事は一理である。理は一つであるので一理である。沢庵和尚が筆を加えられたことにより、この教えの心持ができるのである。詳しくは目録に有る。「ことわり」という理の字は、ことわざ(事技)についての理である。真の理は心である。この心を知ることが大切なのである。
 病気を去る事について去ること三つ
古語に曰く。
 この柱は柱をあらわさない、柱でないものは柱を著さない、これは已に去らない、これは裏に薦め取らない。
親父殿曰く。立ち会って敵の顔、敵の太刀を見たくて、臆する心が出てしまうものである。これを病気という。この三つの病気を去って、手裏剣のことばかりを心につけることに専念しなさい。爺様の目録にも同じことが書いてある。
 真の位の病気の事について初重後重の心持
親父殿曰く。一念の起こり、執着するところ、いずれも病気である。執着を去って無心の心に出でる事が至々極である。委曲は目録にある。初重後重も病気を去る心持ちである。古語に曰く。
 念に渉って念がなく 執着に渉って執着なし
曰く。去るのを去るという心持は、一念を去る心をも忘れよという心持である。この教えは沢庵和尚を染められたので病気真の位と呼ぶのである。
 指目の目付の事について拍子の持つところの事
親父殿曰く。病気を見せしめである。この教えを知っている者ほど色々の仕掛け働き(動き)を仕掛けるのでよい。水月へ懸からない(間合に入っていない)間は外すこともある。敵の攻撃が当たらない所では色々な勝ち方もあるものである。その過ぎるに、仕掛ける時の心持病気をいよいよ思い出し、心を計り、気を肩先に持ち、一図に動き一つに心をかけて、病気ばかりに思い詰めるのを指目というのである。気を落とさず、精を抜かさないところを拍子の持つところというのである。仕掛けて外す者もいる。なおして(それにもかかわらず?)勝とうとすれば、悪いことがある。外されても、それを忘れず、すぐに仕掛ける時、忘れてはならないのである。爺様の目録には指目の位は拍子の持つところであると書かれている。また曰く。指目というのは、初めの一念の事である。ひょっと、見てもったところが指目である。拍子の持つところは神所、西江水である。気を張って、乗ると云っても、込める意気である。当流の兵法に拍子という事は無い。拍子は心にある。意気にある。乗るのも、弾むのも西江水である。爺様の目録に、一段の大事、指所のかね、口伝を知ることが第一である。拍子に争わないで、目付の萌す所を取るのである、と書かれたものもある。