唐突だが、今目の前にあるモノを思いっきり遠くに投げてみよう。
ガシャン!
きっと音が鳴る、当たり前だろう。でも本当に鳴るだろうか。
もしもの話をする。
もしも、我々の行動があるシナリオ通りに計算されていて、それにあった音が出されているとするなら
考えもなしにいきなり起こした行動には、その効果音が間に合わない。
気づいていないだろうが、あなたは一生をかけて「あなたの人生」というシナリオを演じているにすぎないのだ。
手塚治虫作「赤の他人」という短編、これはそんなお話です。
《 あらすじ 》
主人公アキラはひょんなことから、自分の両親の不審な行動に気がつく。アキラといるときはいつも通りやさしい親の顔であるが、彼が目を放すと彼には見せない様な無機質な表情を浮かべているのだ。
見かけは確かに両親なのだが、その顔はいつもの両親の顔ではなくまるで別人のような冷たい表情であった。
改めて回りを見回してみると、両親だけではなく友人や先生など彼の身の回りの人物、はたまたテレビを通じて流されるニュース等の情報も空々しい。まるで何かに操られているように。
アキラは考える、自分はナニからナニまでだまされているのではないだろうかと。
すなわち、自分は人形劇の人形みたいなもので、人生は劇のようにスジガキが全部出来ているのではないか、自分の周りの景色は全部セットで、周りの人間は全部本当のことを隠して自分を操っているのではないだろうか、という事だ。
彼の人生を誰かがジッと見ていて、彼の人生が終わったときに幕がおり劇が終わる。その瞬間世の中も、世界も宇宙もなくなってしまう。
アキラはそのスジガキに抵抗すべく、勝手なことをやって話のスジをめちゃめちゃにしようと試みる。。。
(この先はネタバレ 見る場合はCtrl+A)
そんな中、アキラは一匹のネコに出会う。不思議なことに誰も信用できないアキラは、このネコから冷たい世界には無い温かさを感じる。
このネコはアキラになにかメッセージを伝えようとしている、どこかに連れて行こうとしている。このネコの後を追っていくと、アキラは不思議な空間にでる。
薄暗い部屋には明かりが三つ、壁一面には文字がびっしり書いてある。これはアキラの人生のシナリオが書いてある”舞台裏”。部屋の真ん中では”出演者”(アキラの周りの人)が話をしている。
「こうも主人公(アキラ)にスジを崩されては、この物語を進められない。」
実はアキラをこの場所に連れて来たネコは、前回の劇の主人公でアキラのようにスジガキを崩し、主役からおろされてしまった人物の分身だったのだ。
アキラは壁一面のスジをめちゃめちゃにブッ壊し、幕が下りてしまう。
今度はアキラも新しい主人公に、真実を伝える役目になったのだ。
彼は綺麗な羽を必死に動かして、アピールする。。。
以前もこのブログで紹介したことがありますが、ジャズのスタンダード「All God's Chillun Got Rhythm」(邦題「神の子は皆踊る」)という曲があります。
まるでこの物語のように、人生を舞台に見立てて神の子供達が踊っている様な曲。クリフォード・ブラウンとマックス・ローチ、バド・パウエルなんかの録音が特にお気に入りです。
実はこの人生観、つまり人生とは一つの舞台のようなもので神様が決めたシナリオに沿って日常生活を送っている、という事を小さい頃から考えていました。
確かにシナリオは決まっている、最近”縁”というものを強く感じる機会が多くて、自分の人生はある程度決まっているのではないだろうかと思ってしまうことが多々ありました。皆さんにもこんな経験、一つや二つあると思います。
だけれどもこのシナリオ、そこまで細かくは決まってないようです。
開演時間が決まっているだけで、どういう踊りになるかは決まっていない。
曲は変わらなくても、踊り方を変える事もできる、誰かと一緒に踊ることもできる。
アキラの様な意思があれば、如何様にも変わりうる人生。
そう考えるほうが夢があるなぁと、思うわけです。