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日常生活の中で思ったこと、感じたことを気の向くままに書き綴っています。

-破戒-(GHQ焚書図書開封 第181回)

2022-09-03 21:43:10 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第181回

-破戒-

■母と共に

四方八方の敵トーチカ陣地から、集中射撃を浴びながら、○部隊の勇士たちは、ひしひしと敵陣に肉迫していった。すべては火であり轟音である。

 潅木の蔭から、二三米先の砲弾の落下穴まで突撃しようとした途端、軽部上等兵は、破片弾に左下腹部を削られ、どっと崖下に転がり落ちた。踵を返して、同じ穴に突っ込んだ村井安一上等兵が射撃中、死んだと思った軽部上等兵が、崖を上って這いこんできた。下腹部を押さえて、

 「縛ってくれ」という。

 腸が露出しているのを手で押し込んでいる。直ぐ三角巾で縛ってやると、苦痛な顔も見せず微笑さえ浮かべて、ポケットからお守袋を取り出した。

 「俺が倒れたら、これを頼む。シンガポール入場式を、この袋にみせてやってくれ。」

と、村井上等兵に手渡すと、後方へ下がって治療せよとの勧めも聞かず、またもや手榴弾を握って前進した。

 一物もない原っぱを、遂にトーチカへ辿りつき、軽部上等兵は、銃眼から手榴弾を投げこみ、護国の神と化した。4:56

さて、お守りの袋の中には、一枚の母の葉書が入っていた。

 「・・・・見送りには行けないが、命をささげてご奉公して下さい。お召しがあった日からお前の命は、もうお国に差し上げたものと覚悟しています・・・」

という意味が、素朴な鉛筆書きながら、わが子を励ます健気な母の赤心があふれていた。

 我々は最後のひとりとなるまでも、このお守りを渡しあって、一緒に入城しよう。

 基地の戦友たちは、誓い合った。

この母に、この子あった、日本は神戚の国である。日清、日露、満州、支那事変、いつの時代にも、勇士を生んだ母は実に多い。7:06

 

 ■手紙

 開戦三日目の12月10日のことである。

マニラ上空を、某一飛曹機は縦横無尽に荒れ回っていた。逃げる敵機に食い下がって、叩きつけていたが、遂に敵弾をうけてしまった。

 隊長機は、しきりに帰還を合図したが、某一飛曹機は必死の操縦を続けているうちに、力尽き、隊長に対して決別の挙手の礼を残し、にっこり笑うと、敵機めがけて体当たりをくらわし、諸共に壮烈な最後をとげてしまった。その二日後の攻撃に際し、某一飛曹の散った洋上に、僚友は花束を投げて、空から英霊を慰めた。

 戦死した一飛曹の母親から、僚友たちへ宛てた手紙が届いた。

 「1月2日公報に接しましたとき、もしや醜き最後をとげたのではないかと、それのみ案じておりましたが、色々とお話を承り、いささか安堵いたしました。

 何よりも残念なことは、大東亜戦争開始早々に死んだことです。せめてマニラの陥落を見るまで存命、いささかの武勲を樹てて、皆様のご期待に沿いえたら、本人もどんなにか満足して死んだことと思います。この上は長男も軍人として、現在北満の野にあり、弟も軍人として、あの子の足りない分まで、ご奉公いたさせますれば、若くして死んだあの子の儀は、なにとぞお許しくださいませ。銃後国民として辱しからぬよう努めておりますればご安心くだされたく、お願い申し上げます。」

 敵機も、敵弾も恐れぬ勇士が、この母の手紙には泣いたという、偉大なるは日本の母の力である。

 日清戦争当時、『水兵の母』という話があったのを思い出す。肺腑をえぐる母の赤心、或るときは暖かき陽のごとく、或るときは峻厳なる鞭となり、子を思い、子を鍛え、己の身を削る。

 

 ■母の力

 明治維新前の風雲急を告げるさなか、井上聞多は城下にて、怪漢に襲われた。兄が駆けつけた時には、もう聞多は虫の息だった。聞多の友人、所郁太郎が荒療治をしたが、人事不肖は長く続いた。やがて意識づいた聞多は、しきりに手真似で、

 「首を斬ってくれ。」

 兄も情に忍びず、首背(うなづ)いて刀に手をかけた。

その時である。駆けつけてきた母が。

 「エッ、待っておくれ、何というお前は恐ろしいことをする。まだ息のある弟を、刺殺そうなどというのは、容易ならぬこと。殊にわたしの眼の黒いうちは、たとえ如何なることがあっても、そういう理不尽なことはさせませぬ。殺すならこの母を殺しておくれ。」

 言々句々実に血の涙であった。さすがの兄も思いとどまったが、更に母は、

 「わたしの力で、必ず元のからだにしてみせる。」

 必死の母の力は、一日一日と効きめを現して、やがて日ならずして、聞多は治癒した。

この母の力あってこそ、明治の元勲として、偉大なる功績を残した井上馨があったのである。18:20

 

 ■鑑識

 有名な両替屋の伝説に言う。

 両替屋渡世には、金銀の良し悪しを見分けるのが、第一肝要なので、この見分け方を、初心の小僧に教えますには、初めから悪銀を一度も見せず、良銀ばかりを毎日見せまして、しっかりと良銀を見覚えたときに、それとなく黙って悪銭を見せますと、忽ち一日で見破ること、鏡に照らして物を見るようでございます。今まで最上の銀をしっかり見覚えていたからなので、このように教え込んでおきますと、この小僧、一生の間、悪銀を見損ずることはござりません。22:20

 

 ■子を鍛ふ

武蔵忍の城主阿部正武の長子正喬が、朝夕に父正武の食膳の給仕をする。しかも極めて丁寧であった。

 正武の食事が済んだ後、正喬は次室で食事をするという習慣であった。

さる人が正武に言った。

 若様はいつも次室で食事をされますが、あれでは気の毒ではありませぬか。

 正武、打ち笑って

「正喬が私に仕える有様を、私が亡父に仕えた有様と比べると、殆ど比べものになりません。親子の情として誰でもその子に楽をさせようとするが、しかし年若い者が自分で勤労しないで、善事をなし遂げるものは少ない。年若い時から労苦に慣れるのは、

 他日官に仕えて立派になる道で、ただ人の子としての礼ばかりではありません。と答えた。

 

 ■新宅

 同じような話がある。

 某出版会社社長、副社長である長男に嫁御を迎えたが、新婚の新宅は、何と経営会社の狭い二階とあった。

そこで一社員が、

 「いくらなんでもそれでは、お二人がかわいそうじゃありませんか」

すると、社長、意外な顔をして、

 「いや、いけませんな、うちの会社へ、子供が新居を構えるのは、正道です。30年前私が、新居を構えたのもあそこですからなぁ。それが本当です。長男が十分住み慣れたら、次は次男の番ですよ。アハッハハ・・・」

 社長大笑いして、頗る満足げであった。

 社員も、なるほどと首背いて、これも大笑いしてしまった。

 

 ■五分前

 海軍の伝統的な言葉に、『五分前』というのがある。

 「課業始め五分前ッ」

 「総員集合五分前ッ」

と、いう風に、何か始める五分前までには、すべての準備を整えて、応

じ得る姿勢になっていることだ。

 今日の我々の生活にも、この五分前の準備姿勢が緊要である。

 

■かくてこそ

秀吉が山陰山陽を攻めた時、某城主の二木某という者が、内通しようと約束して、その人質に自分の長子を渡した。

 秀吉はそれを信じ、彼の指図に従って攻め入ったが、それは謀計であったため、さんざんに打ち破られ、命かながら逃げ帰った。

その後、秀吉はこの城を攻落したが、謀主二木を捕らえることが出来なかった。賞を懸けて求めたが、行方は知れなかった。

 後年、小田原城落城のとき、彼を捕らえる者があって、秀吉の面前に連れてきた。

 彼は嬲(なぶ)り殺しにでもされることであろうと、覚悟を決めて来たが、まことに意外にも秀吉は、「汝は長子を人質としてまでも主に尽くそうとしたのは、世に稀なる忠臣である。

 今後は、予に対しても斯くあれよ。」

 却って彼を賞し、三千石を与えて臣とした。

 

 ■破戒

 梅痴和尚は浄土宗の僧で、詩佛、五山などと風流の交をなし、徳名一世に高かった。

たまたま寺に土木のことがあって、幕府から役人が、監督にきたが、一役人、和尚に、「今日寺の床下を検したところ、魚の骨が狼藉たる有様で捨てられてある。これは思うに山内に必ず破戒の僧があるためであろう。よろしく詰問してその實を調べ、上に陳述しなければならぬ。」と申し出た。

これを聞くと梅痴、ちょっと驚いたように顔を歪めたが、やがてかんらからと好笑して言った。

 「今の小僧は役に立たぬ。老僧などの若い時は、魚の骨や頭は、残らず喰うてしもうたものじゃがなぁ」

 役人は、暫く呆然としていた。やがて帰って早速、上官にその由を告げると、

 上官もまた微笑しただけで、事は済んでしまった。

それから間もなく梅痴は、一山の衆僧を集めていった。

この頃、床下より魚骨が多く現れ、それを幕吏が詰問しようとしたが、老僧は身を以って汝らを救うた。汝らに良心あらば、悔悟してよかろう、そして再び清戒を犯してはならない。」

その言辞悲痛、涙また下る有様であった。座にあった破戒僧は慟哭して罪を謝し、生涯、不如法の行なからんことを誓ったという。

 

 ■官紀厳粛、吏道刷新

 武将堀左衛門督秀政の話。

 城下の町の辻に、

 「秀政どのあしき仕置條々・・・。」

と、大書した立札を建てたものがある。仕置の事二十三箇条にも及んでいた。

 目付出頭人などが相談して、秀政に見せ、懲らしめの為なれば、きっと詮索あって、法度に行わるべしと申出でた。

 秀政、その札を、つくづくと見ていたが、ふと立って袴をつけ、手を洗い口を漱いで座に還り、その札をとって三度戴き、

 「今誰ありてか、われにかくまで諫言するものあるべき、これは偏に天の与え給ふところなるべし、永くわが家の重實 にせん。」

 美しい袋に入れて函に蔵し、その後 代官たちを集めて、それぞれ仕置を改めた。

 日本的人間の雅量である。

 

■もちいるの道

 酒井備後守利忠、川越の地に大名となった。すると備後村に庄屋があり、代々備後を名乗っている。同じ名なので、改めるように命じたが、庄屋は更に従わず、そのまま三年過ぎた。

その庄屋の納貢、課役、すこぶる忠実であった、その後、利忠が領内を巡視のとき、備後村に行くと、呼び寄せて「上と下と同名は、いかにも礼にそむくぞ、速に改めろ。」

 厳しく云いつけると、

 「私、何の落ち度があって、祖先からの名を改めましょうや。それとも、この村の務が他村におくれをとっているならば格別、さもなくば君御自身こそ、御改名あって宜しかろうと存じます。」

 頑固真剣に、無礼を言い張るのを、利忠は庄屋の顔色を見ると、まさしく忠実一徹の男らしい。

そうか、それならば自身は、この封内の備後、お前は一村の備後、こういうことにしておこう。

 頑固な庄屋、ハッと平伏したまま感激し、その後更に忠実を励んだという。

これを伝え聞いた家康、例の如く莞爾として、

 利忠、わしのとおりにやりおるのう。川越は長くおさまる。45:30

 

 ■法

 乃木学習院長は、同時に軍事参議官でも会った。山田副官が、参議官への所用があって、学習院の院長室に訪ねて行くと、

 「ちょっと待ってくれ。」

 「は。」

 「こちらへ来てくれ。」

 院長室を出て、長い廊下を歩いて、遠い、本館の応接室へ入ると、

 「さあ、聞こう。」

 応接室以外で、来客と会うことを、生徒たちに禁じてあるからだった。乃木院長にとって、自分の副官も客であった。

 

■ 無方法

 小使が、学習院長乃木大将の居室や寝室へ、用をたしに入っていくと、大将は、

 「私のことは私がする。呼ばなければ、来なくともよろしい。」

すべて自分の手で始末してしまう乃木大将だった。ある日、大将が小使室へツカツカと入ってこられると、小使が云った。

 「何か御用でございますか。」

 「ああ、茶が飲みたくてな。」

 「お茶でございますか、それならお呼びくだされば、持ってまいります。院長閣下が小使室などへ、お出向きなるものでございません。」

 日頃のシッペイ返しのつもりで、思い切って云うと。

 「ウン、そうか、参った。私の室へ茶を一つ持ってきてくれ。」

ニコニコしながら、あわてて帰っていかれた。今まで頑固一方の院長閣下だとばかり思っていた小使は、全く心から服してしまった。

 人を心服させるのに、方法はない。

 

 ■行事

どうも云うことをきかない子を、もてあましていた知名の人が、乃木大将に揮毫を乞うて云った。

 「閣下の御教育の方針を、お願いいたします。私の部屋に戴いておくので。」

 「さあ、方針といって。」

しばらく考えていられたが、やがて紙を染めた。

 教人以行不以言(人を教ふるは行を持ってし言をもってせず。)

 以事不以理(事を以ってし理を以ってせず)

 訓示めいた言葉と、理屈ばかりで、子供や下のものを従わせようとしていた。

その知名の人は、心の中で頭を書いた。

 

■カビ

降り続く五月雨を見て、乃木大将は狂歌を作った。

さみだれにものみな腐れはてやせん

鄙(ひな)も都もカビの世の中

これに註して、『黴、華美、音近し』と書き添えた色紙が今に残っている。

いわゆる上流家庭の華美な生活を、乃木大将は、極端に嫌って、やはり狂歌を作った。

ペンキぬり門内さくら花だらけ

亭主ハイカラ嬶(かかあ)おきやんなり

土曜から日曜にかけて、那須野の山荘へ行き、爐をかこんで近所の農夫たちと話すのが、大将のむしろ真面目だった。中に『閣下』というものがいると、手を振って

「オイ、それはやめてくれ、わしは百姓じゃよ。」

 畑で野菜類をつくるのが、大将は殊(こと)に上手だった。稗飯を常食にし、鰯の目ざしがご馳走だった。

 銀座あたりには、まだ奇怪な化物がいるといい、日本に国籍があって、性格は外人のそれであるというのを、将軍は殊(こと)に嫌った。

 参考文献:「日本的人間」山中峯太郎

2018/12/05 18:00に公開

 

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