次に1958年にアメリカの原爆開発協力機関の一つであるブルックヘブン国立研究所のウィリアム・ヒギンボーサムが、アナログコンピュータとオシロスコープを用いて「Tennis for Two」を製作した。これは一般人がプレイしたことが世界初のコンピュータゲームと言われている。
ヒギンボーサムはブルックヘブン国立研究所の計測器部門責任者で、日本に落とされた原子爆弾の計画である「マンハッタン計画」にも関わり、レーダーシステムの改良を担当していた。
原子力研究の安全性を地元住民にアピールするために毎年研究所を一般公開していたのだが、機材や写真だけでは退屈だったため、楽しんで理解してもらうためにこのゲームを製作し、展示会に来た見学者に実際遊んでもらったそうだ。
ゲームは大評判となり、何時間も並ぶ人が出た程だったが、後に別の研究に使う為に解体されてしまったそうだ。ヒギンボーサムも「Tennis for Two」については特許を主張する事がなく、継続しようとする者やゲームビジネスに使おうとする者も現れず、「Tennis for Two」の存在は長年埋もれたままになった。
20年以上を経て1982年にビデオゲームに関する裁判でヒギンボーサム自身が証言したのが再度脚光を浴びるきっかけになり、また世界初のゲーム歴史研究家と言われるデビッド·H·アハラルがコンピュータ雑誌に記事を載せた事で、広く知られるようになった。
1962年になると、マサチューセッツ工科大学の学生であったスティーブ・ラッセルが、PDP-1 (Programmed Data Processor-1、DEC社のPDPシリーズの最初のコンピュータ) 向けに「スペースウォー!」(Spacewar!)を開発した。これは宇宙戦争をモチーフとした対戦型コンピューターゲームで、これが世界初のシューティングゲームとされている。