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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




日本を代表する繁華街と言えば銀座であり、その銀座のシンボル的な存在といえばやはり和光の時計台だろう。
この時計台は1894年(明治27年)に服部時計店(現セイコーホールディング)が建てたものが前身で、現在の和光本館として使われているネオルネサンス調ビルディングは、関東大震災後の1932年(昭和7年)に「服部時計店ビル」として建てられたものだ。初代時計台から通算すると116年にもわたって銀座を見守ってきたことになる。

さて、銀座の街の歴史を更に遡ると、明治時代の初期はこのあたりは銀座煉瓦街と呼ばれ、いち早く西洋風な街並みが築かれた。そして現在の和光の地には「朝野新聞社」(ちょうやしんぶんしゃ)の社屋があった。



両国の江戸東京博物館にその実寸模型があるので、目にした人も多いだろう。しかしこの「朝野新聞」はもちろん現存せず、あまり馴染みがない。江戸東京博物館の案内によると「朝野新聞は、1874年(明治7年)に創刊され、社長の成島柳北(なるしまりゅうぼく)、主筆の末広鉄腸(すえひろてっちょう)らが新政府を辛辣に批評し人気を博しました」とのことだが、この成島柳北を中心にもう少し詳しく調べてみた。



成島柳北
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%B3%B6%E6%9F%B3%E5%8C%97

成島柳北 (1837-1884年)は江戸時代・幕末期の徳川幕府・将軍侍講、奥儒者、文学者、ジャーナリスト。明治時代以降はジャーナリストとしても活躍。
現在の東京都台東区蔵前で松本家の3男として生まれた。のちに代々奥儒者の家柄である成島家へと養子に出され、第7代目奥儒者・成島稼堂の養子となり、成島姓となる。そして、養父の跡を継ぎ、第8代目奥儒者と相成り、成島柳北と名乗るようになる。徳川家定、家茂に侍講するが、献策が採用されないため狂歌で批判し、解職される。また、慶応年間に騎兵頭、外国奉行、会計副総裁等を歴任。
明治維新後、東本願寺法主の大谷光瑩の欧州視察随行員として1872年(明治5年)に共に欧米を巡る。欧州では岩倉具視、木戸孝允らの知遇を得、特に親交のあった木戸からは帰国後、文部卿の就任を要請されたが受けなかった。
後に大槻磐渓の紹介によって、1874年(明治7年)に『朝野新聞』を創刊、初代社長に就任。言論取締法の「讒謗律」(ざんぼうりつ)や「新聞紙条例」を批判した。自由民権運動の中では、社論は大隈重信の改進党に近く、大隈の設立した早稲田大学の初代の議員(理事に相当)にも就任している。


壺齋閑話 成島柳北と朝野新聞:近代ジャーナリズムの草分け
http://japanese.hix05.com/Literature/Ryuhoku/ryuhoku03.html

成島柳北は明治6年に米欧の旅行から帰国すると、一時京都東本願寺の翻訳局の局長を勤めるが、仕事は面白くなかったようで、もっぱら遊興の毎日を過ごした。そして翌1874年(明治7年)9月に「朝野新聞」の局長に迎えられ、新聞人としての生活を始める。
朝野新聞は日本の新聞の草分けのひとつであり、1875年(明治8年)から76年(明治9年)頃にかけては他の新聞をしのぎ、もっとも影響力のある新聞だった。成島柳北はそれをリードして、政府による新聞弾圧に果敢に立ち向かったことで知られる。

日本の近代ジャーナリズムは、新聞による政府批判とそれへの激しい弾圧の歴史として始まった。
柳北が朝野新聞に入った1874年(明治7年)頃は、明治政府内での路線対立が明確になり、それに乗じて新聞の論調も過激になっていた頃だった。新聞の力を思い知らされた明治政府は、1875年(明治8年)6月に讒謗律と新聞紙条例を制定して、新聞弾圧の強化を図る。柳北が朝野新聞を舞台に繰り広げた活動は、この弾圧との戦いだったのである。

朝野新聞は1872年(明治5年)に創刊された「公文通誌」という新聞を化粧直ししたものだった。公文通誌は政府の布告をルビつきで紹介することが中心で、購読者数も少ない三流新聞だった。柳北は朝野新聞に入ると、紙面を大幅に刷新し、政論新聞としての色彩を明確にした。同時に「雑録」蘭を設けて、柳北得意の文芸を展開した。これはほかの新聞にはなかったものだ。

柳北の論調は始から過激だったわけではなかった。だが政府による新聞人への弾圧が露骨になるに従い、政府批判を強めるようになる。とりわけ末広鉄腸が新聞紙条例によって自宅禁固刑に処せられ、福地桜痴が召還される事態が生じるや、柳北は得意の諧謔を交えて、この弾圧を批判した。柳北自身、1875年(明治8年)に自宅禁固5日の刑を受けた。この一件は柳北の反政府熱をいっそう掻き立てたようである。柳北はもともと淡白な性格で、ものごとに拘泥することを嫌うたちであったが、この一件がきっかけになって、執拗な政府批判を繰り広げるのである。

そんな柳北にとって、屈辱的な投獄につながったのが、讒謗律に対する攻撃である。柳北は讒謗律の制定者である井上毅と尾崎三郎を揶揄する文を、1875年(明治8年)12月20日の朝野新聞に掲載するが、揶揄された当の二人が、名誉毀損で柳北を告発し、柳北は禁獄4ヶ月、罰金100円を申し付けられるのである。
4ヶ月の刑期を終えて出獄した柳北は一躍明治言論界の英雄になった。彼の名声を慕ってさまざまな人々が朝野新聞に投稿し、読者も飛躍的に増えて、発行部数は新聞界のトップに躍り出た。

1876年(明治9年)9月に朝野新聞は銀座尾張町の四つ角に進出した。現在和光があるところだ。だが朝野新聞は、この頃をピークに次第に勢いを失っていく。柳北自身が新聞に情熱を感じなくなったのが影響したらしい。柳北は新たに雑誌「花月新誌」を発刊し、そちらの方に勢力を注ぐようになった。若い頃からの文芸に対する嗜好性が、この雑誌を舞台に花開くことになるのだが、ジャーナリストとしての柳北は次第に影を薄くしていくのである。


このように朝野新聞は発行部数が飛躍的に伸びたことによって社屋を現在の和光の地に移したことがわかる。今も昔も新興企業の行動パターンというのは共通しているようだ。しかし朝野新聞は新社屋に移転したころから衰退していったようで、即ち我々が江戸東京博物館で目にする朝野新聞社は新進気鋭だった時期のものではなく、衰退期のものということになる。
その後1893年(明治26年)に朝野新聞は廃刊となり、翌1894年(明治27年)に服部時計店がその社屋を買収して初代時計台を建てた。歴史は繋がっているのだ。

尚、成島柳北の姪孫には、昨年96歳で亡くなった俳優・森繁久彌がいるとのことだ。いろいろなところで明治時代と現代は繋がっていることを感じる。



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