goo blog サービス終了のお知らせ 
My Encyclopedia
知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




T型フォードは、1908年に発売され以後1927年まで基本的なモデルチェンジのないまま、約1500万台が生産された。
自動車を庶民に普及させただけというだけでなく、基本構造の完成度も高く、またベルトコンベアによる流れ作業方式をはじめとする近代化されたマス・プロダクション手法を生産の全面に適用して製造された史上最初の自動車である。
フォードは生産する車を1種のみとし、余計な装飾を除き色も全ての車を黒色1色にして、大量生産を行った。更にベルトコンベアに車の材料を載せ、各場所に固定して配置された人員に、同じ作業を次々とさせることにより、作業の効率化を達成した。
この大量生産、大量消費を可能にした生産システムのモデルは「フォーディズム」と呼ばれ、資本主義の象徴の一つであり、社会学などでも言及されている。
このようにT型フォードは労働、経済、文化、政治などの各方面に計り知れない影響を及ぼし、単なる自動車としての存在を超越していた。

そして実際にT型フォードは自動車の枠を超えていたのである。

まず、T型フォードはバスに転用されている。東京で走った「円太郎バス」と呼ばれる乗合バスである。

円太郎バス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%83%90%E3%82%B9

1923年9月に東京一帯は関東大震災に見舞われ、交通網が寸断された。特に、市電網は壊滅的な被害を受け、復旧の見通しが立たなかった。市電を管理していた東京市電気局は、市電が復旧するまでの足としてバスの導入を決定。納期を早めるため、大量生産を行っていたフォード社のT型フォードに着目し、1000台(最終的に発注台数は800台)のエンジン付きシャシーを発注、バスのボディを別途国内で製造し、組み合わせる手法を採ることとした。こうして生まれたバスが円太郎バスである。わずか11人乗りの急造バスであるが、小さい車体は震災で寸断された市中を走り回るには好都合であったこともあり、市民の貴重な交通機関となった。
フォードの協力もあり、円太郎バスは震災後わずか4か月後の翌1924年1月から運行された。当初は2系統であったが、年末までに800両が揃い計20系統で運用された。
T型フォードのシャシーを流用したバスは腰高であり、シルエットが明治時代の乗合馬車に似通っていた。乗り心地も困ったことに馬車並みに酷かった。明治時代の乗合馬車は通称、円太郎馬車と呼ばれていた。それをもじって次第に円太郎バスと呼ばれるようになった。
急造とはいえ大量導入されたバスは、日本でも公共交通機関として十分に機能することを証明することとなり、後年、日本各地の都市で路線バスが運行される契機となった。こうした背景が評価され、後年、円太郎バスは交通博物館で保存されることとなった。また2008年機械遺産28番に認定された。


日本機械学会「機械遺産」  機械遺産 第28号 円太郎バス
http://www.jsme.or.jp/kikaiisan/data/no_028.html

「円太郎バス」は1923年の関東大震災で被災した東京市内の路面電車の代替交通手段として、東京市電気局がアメリカ・フォード社から貨物自動車用シャシを緊急大量輸入し、これに木製車体(客室)を新製したものである。車体前方のガソリン機関から推進軸が床下後方に延びて後軸をウォームギアで駆動し、運転席床上には運転用足踏みペダルが三本取り付けられている。これらはフォードTT型独特の方式である。1924年1月18日に、中渋谷-東京駅前と巣鴨-東京駅前の最初の2路線が開業した。
  明治初期に、落語家の四代目橘(たちばな)家円太郎が、東京市内を走っていた乗合馬車の御者のラッパを吹いて演じたところ、“ラッパの円太郎”といわれて大いに受け、乗合馬車が「円太郎馬車」と呼ばれた。この乗合馬車とバスが形態面で類似していたことから、新聞記者が「円太郎バス」と名づけ、広く呼ばれるようになった。




関東大震災後の緊急的な1000台の発注に対し、フォードが即応できたのは800台に留まったとはいえ、これほど膨大な量のオーダーに即座に応じられる自動車メーカーは当時世界でフォード1社しかなかった。
尚、東京市の発注に商機をみたフォードは、1925年に日本法人を設立して横浜に組立工場を設立し、アメリカで生産された部品を輸入して組み立てるノックダウン生産を開始した。これによってモデルT・TTの完成車及びシャーシが日本市場に大量供給されたという。円太郎バスはフォードにとって、そして日本の自動車史においても大きな位置づけであったようだ。

さらにT型フォードは鉄道(レールバス)にもなってしまっている。
1910年代以降、自動車の動力伝達機構を鉄道車両に応用する動きが欧米で進み、日本でも1920年代に自動車用などのエンジンを搭載した小型気動車が製造されるようになった 。当初は「線路を走る自動車」を念頭に開発されたこともあり、輸入自動車・トラクターのエンジンを流用し、鉄道用の車体に取り付けた、文字通り「軌道自動車」と呼ぶべき物が多かった。これらは旅客輸送量の少ない地方鉄軌道において、製造コストが廉価で燃費も安い車両として導入が進んだ。
この典型的な例が、現在も数多くの鉄道車両製造を手掛ける日本車輌製造株式会社が1928年に製造した三重鉄道シハ31形気動車と言えるだろう。

三重鉄道シハ31形気動車
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%87%8D%E9%89%84%E9%81%93%E3%82%B7%E3%83%8F31%E5%BD%A2%E6%B0%97%E5%8B%95%E8%BB%8A

三重鉄道シハ31形気動車は、三重鉄道(現在の近鉄内部・八王子線の前身)が1928年3月に日本車輌製造本店で製造した、762mm軌間用の30人乗りガソリン動車である。
新造時は当時もっとも普及していた自動車であるT型フォードの動力装置をそのまま流用した。このためエンジンはフォードT (20hp/1,500rpm)、変速機も前進2段、後進1段で遊星ギアによる常時かみ合わせ方式を採る、独特の構造のフォード製トランスミッションがそのまま搭載された。
エンジンは台枠前部に装架されていたが、ラジエーターの取り付けの関係もあって自動車同様のボンネットが車体前面に突き出していた。
このフォードTエンジンは入手が容易で整備面でも有利であったものの、鉄道車両の動力源としては非力だったのと部品供給面で不安が出てきたため、1936年にフォードA(40hp/2,200rpm)に換装されている。
この形はシハ31 - シハ34の4台が製造され、ラッシュ時を除く三重鉄道の旅客サービスのほぼ全てを一手に引き受けるようになり、同時に列車運行本数の高頻度化を実現した。




見ての通り、シハ31形気動車は運転台方向への運転しかできない片運転台車である。そのため終端駅での方向転換が必要であり、デルタ線やループ線、あるいは転車台といった転向設備が設置されていた。蒸気動力で開業し、機関車を方向転換させる施設を備えていた鉄道事業者が大半だったので問題なかったようだが、新規開業する鉄軌道会社向けにはメーカー各社は車両と共に転車台も販売したという。欧米においては、単端式気動車を背中合わせに連結して方向転換を避ける運転方法も用いられたそうだ。

このような事例に、1910~20年代にどれだけT型フォードが世の中に様々な影響を及ぼしていたかを垣間見ることができる。「T型フォードの車を追い越すことはできない。追い越せば、その先はまたT型だ」と言われたが、それどころか鉄道を利用しようとしてもT型フォードが来るのだから驚いてしまう。

余談だが、近鉄内部・八王子線は現在でも当時のままの軌間762mmの特殊狭軌線である。(普通鉄道としては三岐鉄道北勢線、黒部峡谷鉄道本線と内部・八王子線だけ) しかし長年赤字が続きその存続が問題となり、近鉄は2012年に鉄路を廃止して跡地をバス専用道路にしてバスによる運用に転換する方針を示したが、四日市市側は鉄道の存続を強く望み、同市と近鉄が新会社「四日市あすなろう鉄道」を出資・設立し、公有民営方式で存続させることで合意した。
四日市あすなろう鉄道は2014年3月27日に新会社として設立され、2015年春から経営を担う予定だ。「あすなろう」という名前は、特殊狭軌「ナローゲージ」に由来しているそうで、洒落が効いている。
この記事を通じてT型フォードベースのシハ31形気動車が走った線路を引き継ぐ鉄道に対する個人的な関心が高まった。地元と調和しての永続的な経営を期待したい。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« sQuba、PAL-V ... クック諸島、... »