一国の国王や王子について、「さすがに生活面で経済的な心配はないだろうけど、いつも国民に見られていて大変そうだ」 とか 「そのような運命のもとに生まれて、そのような環境で育ってきたのだからふつうの感覚なのかな」 といったことを考えてしまう。また 「もしある日この立場になったらどうしよう」 とか 「シンデレラのイメージで広く国民の中から国王が選ばれると面白いのでは」 などと低俗なことを考えてしまうこともある。実際にそのようなことはあるだろうか。
18世紀末までは、世界のほとんどの国家において君主制が敷かれていたが、現在では国王が20名 (このうちマリクが4名、スルターンが2名)、天皇が1名 (日本、議論あるがここでは君主として扱う)、教皇が1名 (バチカン)、アミールが2名、大公が1名 (ルクセンブルグ)、公が4名など計31名が在位している。
そして王位の継承 (日本の皇位継承を含む) について、継承をめぐる紛争を防ぐために継承法を明確に定めていることが多い。その中の多くは世襲によって継承される 「世襲君主制」 がとられている。
その対になるのは 「選挙君主制」 であるが、例えばクウェートの国王はジャービル家とサーリム家という2つの首長家から交互に首長を輩出されるなど、限られた候補者の中から互選によるケースが多い。(バチカン市国の君主であるローマ教皇がコンクラーヴェと呼ばれる教皇選挙で選ばれることは少々意味合いが異なる)
そして王位の継承 (日本の皇位継承を含む) について、継承をめぐる紛争を防ぐため、継承法を明確に定めていることが多い。その中の多くは世襲によって継承される 「世襲君主制」 がとられている。
その対になるのは 「選挙君主制」 であるが、例えばクウェートの国王はジャービル家とサーリム家という2つの首長家から交互に首長を輩出されるなど、限られた候補者の中から互選によるケースが多い。(バチカン市国の君主であるローマ教皇がコンクラーヴェと呼ばれる教皇選挙で選ばれることは少々意味合いが異なる)
古代まで遡ると、王政ローマでは王は終身だが世襲ではなく、原則として市民集会が選挙でローマ市民権を持った者の中から選出していたという。選出は必ずしも家系や身分によらず、市外の者が選出されていたとのことだ。
一方で中世のポーランド・リトアニア共和国では200年以上にわたって 「国王自由選挙」 として国内外の有力者が国王に選出されていた。
ポーランド・リトアニア共和国 (1569~1795年) は正式には 「ポーランド王国およびリトアニア大公国」 であり、ポーランド王とリトアニア大公の両方を兼ねた共通の君主によって統治された国、およびポーランドとリトアニアによる連邦であった。現在のポーランド、リトアニア、ウクライナ、エストニア、ベラルーシ、ラトビア、ロシアにわたり、16世紀から17世紀のヨーロッパで最も大きく、最も人口の多い国の1つであった。
国王自由選挙
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E8%87%AA%E7%94%B1%E9%81%B8%E6%8C%99
1572年、14世紀から続いたヤギェウォ朝のジグムント2世アウグストが子供を残さずに死んだため、ヤギェウォ朝は断絶した。そして、次期国王を選挙で選び、最終的に召集議会によって承認することが決定された。選挙権は投票を望む全ての男性貴族、参政権者に与えられることが決まった。
貴族たちは各県で投票を行い、地元選出の代議員が各候補の得票数をセナト (共和国元老院) に伝えた。元老院議長が国王の選出を布告し、首座大司教が新王に祝福を与えた。1573年の最初の選挙では4万人から5万人が投票したと言われる。
栄えある第1回の選挙で国王に選ばれたのは、ヘンリク・ヴァレズィであり、のちのフランス王アンリ3世である。
アンリ3世 (フランス王)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA3%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)
アンリ3世 (1551~1589年) は、ポーランド最初の選挙王およびヴァロワ朝最後のフランス王。ポーランドではヘンリク・ヴァレジ (Henryk Walezy) と呼ばれる。
アンリはポーランド・リトアニア共和国の国王候補の一人となり、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン2世の息子であるエルンスト大公、スウェーデン王ヨハン3世、ロシアのツァーリ・イヴァン4世らが対立候補となったが、フランス使節ジャン・ド・モンリュクの熱心な働きかけと、ジグムント2世の妹で次期国王の王妃に擬せられていたアンナがアンリを支持したこともあって、1573年5月9日にアンリはポーランド王に選出された。
アンリはポーランド最初の国王自由選挙に勝利したものの、貴族の権力が異常に強く王権の弱いポーランドの政治文化に違和感を抱き始めていた。さらに兄シャルル9世の結核が悪化したため、次期フランス王位継承者のアンリは出国を躊躇したが、ポーランド使節団に促されてフランスを発ち、1574年1月にポーランド入りした。
しかし1574年2月に戴冠式に際して開かれた議会では、アンリはカトリック勢力の支持を得て、宗教寛容体制を認める統治契約を無視しようとしたため、反感を買った。またアンリはポーランド貴族内の複雑な派閥関係に通じておらず、貴族たちは新王による官職任命が派閥間の勢力バランスを欠いたものだとして不満を抱いた。また国際語のラテン語をほとんど話せない国王がポーランド人貴族には近づかず、連れてきたフランス人の側近ばかりと付き合うことも問題視された。
1574年5月30日にフランスでシャルル9世が崩御し、その訃報は6月14日にクラクフへ届いた。既に出国の準備としてフランス人側近の殆どを本国へ帰していたアンリは、6月18日深夜、残った側近数人を伴い王宮を出奔した。国王の逃亡という大事件にポーランド貴族たちは愕然としたが、フランス人の国王によるそれまでの期待外れな振舞いを快く思っておらず今回の逃亡にかえってせいせいしたと思う貴族も少なくなかった。
ちなみにアンリはフランス帰国後から約15年にわたってフランス国王として国政を指導したが、1589年に暗殺されて生涯を閉じた。
ここまでを纏めると、(1) 国王自由選挙の選挙権は男性貴族のみ、(2) 国王の候補者は諸外国の有力者、(3) 選挙の詳細は不透明、(4) 選出された国王は着任後半年で国外逃亡 となる。
そして2回目の国王自由選挙選挙では、最初の選挙でヘンリク・ヴァレズィを指示していたアンナ・ヤギェロンカ (ジグムント2世の妹) が選出され、女王となった。
そのアンナと結婚したハンガリー出身のステファン・バートリがアンナとともに共同統治王 (3代目の自由選挙王) となった。
4代目はジグムント3世で、アンナ・ヤギェロンカの妹カタジナの長男である。また5代目のヴワディスワフ4世はジグムント3世の長男、6代目のヤン2世はジグムント3世の4男、というように結局限られた一族から国王が選出された。
国王自由選挙は1791年に廃止されるまでに13回実施されたが、後半は外国軍の軍事的圧力の下で実施されて自由選挙の性格を失ったと言われる。
結果として、国王の権威を弱め、候補者の支持をめぐって各選挙区 (県) の中で争いを起こさせ、外国の王家がポーランド国内に干渉しやすくさせた。
ということでポーランド・リトアニア共和国の国王自由選挙が有効であったとは言い難い。これが現代の選挙制度に基づいて実施されればまた違うのかもしれないが、知名度が優先されたり、パフォーマンス主体のトンデモ候補が現れたりとそれはそれで問題が生じるのであろう。やはり世襲君主制や閉ざされた選挙君主制には意味があるようだ。