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多くの人が毎日天気予報をチェックしているだろう。
1993年に気象業務法が大幅に改正され、民間気象会社等も一般向けに独自の天気予報を発表出来るようになったり (ただし警報や台風予報など人命に直接関わる重大な事象についての情報の発表は気象庁のみ)、気象予報士の資格が新たに設けられたりした。その後インターネットとデバイスの進化により、よりリアルタイムでピンポイントな天気予報が様々な形で提供されるようになった。また予報の精度も向上しているので、生活において欠かせない情報となっている。

天気が人々の生活に大きな影響を与えるものであることは今も昔も変わらない。しかし当然のことながら、古代の天気予報は天候のパターンを見つけることがメインで、経験に頼ったものであった。
1837年に電報が発明されて、広範囲から同時に気象の情報を収集することが可能となり、これによって風上の天気の情報を元にした天気予報が可能となった。

天気予報の実用化に功績のあった人物として、イギリスのロバート・フィッツロイとフランシス・ゴルトンが挙げられる。

ロバート・フィッツロイ(Robert FitzRoy、1805~1865) は、イギリスの海軍軍人でニュージーランド総督などを務めたが、その後ロンドン王立協会の会員に選出され、気象データ収集のための新設された部門である商務省の気象局長に選ばれた。これは現在のイギリス気象庁の前身にあたる組織である。

ロバート・フィッツロイ 気象学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%AD%E3%82%A4#%E6%B0%97%E8%B1%A1%E5%AD%A6

フィッツロイは船の船長が情報を集めて報告できるように器具を手配した。彼は何種類もの気圧計を設計して配布し、それぞれの港に設置した。
1859年に蒸気クリッパー、ロイヤルチャーター号を沈めた大嵐はフィッツロイに暴風警報の必要性を感じさせた。イギリス学術協会の依頼で彼は1860年6月6日に政府から認可を受けて暴風警報センターを設置した。彼は国内13地点の気象観測結果を電報で集めて、その現状を分析して暴風警報の発表を開始した。彼は1961年8月1日から気象予報をも民衆に対して独断で発表し始めた。彼は気象理論に関してはドイツの気象学者ハインリッヒ・ドーフェの信奉者であり、異なる性質の気流の衝突を重視していた。しかし当時はそれはきちんと理論化されておらず、科学的にも認められていなかった。
当時の気象予報には怪しげな占星気象学を用いた物も少なくなく、気象予報の発表には政府やイギリス科学界は科学の信頼性を失墜させるものとして反発した。彼は気象予報を科学としてではなく、実用的な技術として民衆の役に立つと考えていた。彼は気象予報を科学的な予測(prediction)と区別するために「フォアキャスト(forecast)」という造語まで作った。現在ではこの語は気象予報の意味で広く使われている。また気象予報を体系化するために1863年「Weather Book」に出版した。これは当時の科学的な見解からはかなり先進的だった。彼の死後に統計学者フランシス・ゴルトンを委員長とする調査委員会が組織され、その勧告により一般向けの気象予報は1866年5月28日に中止された。しかし同様に中止された暴風警報は要望されて再開されるなどの混乱が生じた。一方で気象予報はその後13年間にわたってイギリスでは発表されなかった。

このように必要性や実用性の観点から気象予報や暴風警報をいち早く取り入れたのがフィッツロイだが、科学的な裏付けは充分ではなかったようだ。forecastの語源がここにあったことは興味深い。

その一般向けの気象予報を中止し、のちに最初でかつ標準的な天気図を作成したのが、フランシス・ゴルトン (Francis Galton、1822~1911) だ。進化論で知られるチャールズ・ダーウィンの従弟で、人類学、統計学、遺伝学など幅広い功績がある。

フランシス・ゴルトン 気象学の研究(天気図の創始者)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3#%E6%B0%97%E8%B1%A1%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6%EF%BC%88%E5%A4%A9%E6%B0%97%E5%9B%B3%E3%81%AE%E5%89%B5%E5%A7%8B%E8%80%85%EF%BC%89

1858年にロンドン近郊のキュー天文台の台長になり、科学分野に数学的方法を導入することに興味を持ち、気象図の研究の際に同じ気圧の点を結んで等圧線を書いた。
ゴルトンは気象学の創始者とも言われ、最初の気象図を考案し、ヨーロッパにおける高気圧の理論や短い期間での気象現象を完璧に記録する方法を成し遂げた。
1866年、天文台の台長であるゴルトンは天気予報を初めて行ったフィッツロイの死後に組織された調査委員会の委員長として勧告を行う。その一般向けの気象予報は1866年5月28日に中止となった。
1868年に気象研究会議の会員に挙げられていたゴルトンは1875年4月1日にタイムズ紙に掲載された最初の天気図を作成し、現在では世界中の新聞の標準的な役割をなしている。

その1875年4月1日付のタイムズ紙に掲載された世界最初の天気図は以下のようなものである。これはsynoptic chartと呼ばれ、前日の気象状況を要約したものであり、読者はこの地図が提供する情報をもとに自分なりの予測を立てることができた。
これによると、1875年3月31日のロンドン地方は「曇り (dull) 」で気温は華氏45度 (=摂氏7.2度)、パリ地方は「晴れ (clear) 」、イギリス海峡やドーバー海峡は穏やか (smooth) だたようだ。

このイギリス気象庁は、明治維新を迎えていた日本での最初の天気予報にも関係している。

気象庁 気象庁の歴史
https://www.jma.go.jp/jma/kishou/intro/gyomu/index2.html

明治政府は、1871年に測量司を置き、東京府下の三角測量を始めました。この時の測量助師であったイギリス人のジョイネル(H.B.Joyner) が気象観測の必要性を建議し、1873年に測量司は気象台を設けることを決めて、ロンドン気象台長に気象器械のあっせんを依頼しました。
1875年5月にこれらの器械の据付けが完了しました。場所は内務省地理寮構内 (現在の東京都港区虎ノ門、ホテルオークラのあたり) です。そして、同年6月から観測が開始されました。当初は、ジョイネルが一人で担当して1日3回の気象観測を行い、地震があれば土蔵の中の地震計まで飛んで行きました。
その後ドイツ人のクニッピング(E.Knipping)の尽力により、1883年2月16日から毎日1回午前6時の気象電報を全国から収集できるようになり、当日に東京気象台で初めて天気図が作製されました。同年3月1日からは毎日の天気図の印刷配布が始まりました。また、同年5月26日には東京気象台で初めて暴風警報が発表されました。
さらに翌1884年6月1日には毎日3回の全国の天気予報の発表が開始されています。この最初の天気予報は、「全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ但シ雨天勝チ」という日本全国の予想をたった一つの文で表現するもので、東京の派出所等に掲示されました。

この1884年6月1日の最初の天気予報 (天気図と予報) は以下のようなものだ。特徴的なのは日本語・英語併記でクニッピングのサイン (カタカナは右から左) もされている。さらに全国22都市が西からの並べられて、天気、気温、風、気圧も情報が記されている。イギリスの最初の天気予報 (天気図) から9年経っているので当然の進歩とも言えるが、かなりレベルが高い内容だ。

大型台風、ゲリラ豪雨、大寒波など世界的な気候の極端化が進む中で、天気予報の重要性は今後もますます高まっていくだろう。その礎を築いた先人たちの努力に感謝したい。

 



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