人というのは死ぬことを知っています..............
しかし人というのは「生」にしがみついてどんなにしてでも生きようとします。
死ぬ事への恐怖というのは、いざ死ぬと決まると受け入れることが出来るものなのだと言うことも解らずに闇雲にお金をつぎ込み家族に負担が掛かる事がわかっていても「生きる」というのは負担をかけている本人にとって非常に辛いことなんですけどね~。
おいらは命に関わるような外的というか肉体的(ハードとしての身体)な病気に掛かったことはありません。
不謹慎なことなのは解っているのですが、身体の病気もしくは怪我というのは羨ましいと考えることが良くあります。
自殺というのは人として間違っている死に方です。
でも習慣的に考えているおいらとしては死ぬ方法としての「病気」や「怪我」に遭って死んでいけることはどれほど楽になれるだろうかとよく考えます。
肉体的な病気や怪我、事故などでは死ぬまでを「闘病」と言う言葉が用いられます。
そして死んだときに「よく頑張った」とか「良く耐えた」と言われます。
しかし自殺で死ぬ人がどれほど苦しんでいたのかには全く理解が示されない風潮があり、精神障害を煩っている人間は時に「変人」扱いまでされる始末です。
精神的に追いつめられることのどれほど苦しいことかを理解できない人間に自殺する人を評価する権利なんか無いと良く思うわけですよ。
「命を粗末にするな」と言う言葉は自殺を逆に促進しているのだと思えてなりません。
正直なことを書くと昨年と今年は親族や知人が数人亡くなって精神的に不安定になっているんですな。
特に最近亡くなった方は知っているからこそ余計に辛いんですよ。
外面はかなり明るく振る舞っていますが、一人でいるときは「生きること」についてよく考えています。
また逆に「死ぬこと」についても考えるんですな。
死ぬ準備が出来ているのかというと今まで「死にたい」という記事を書いてきておきながら全く出来ていないことに気がつきました。
よって身の回りを整理して置くことも考えなければならないんだと思いますな。
もし痕跡があれば他の人に感傷に少しでも浸らせてしまうでしょうからね~。
良く吟味すると多くのモノにおいらの痕跡というモノが残っていることに気がついきました。
このままでは迂闊に死ねないな~と他の人の死を通して理解することが出来ました。
もう少し時間を取って真剣に身の回りを整理していかなければならないでしょう。
気持ちの落ち込みというのは変なものですね~。
ネガティブなことしか考えられないようになっていきます。
特に一人になったときは「生きるか死ぬか」と言うことをよく考えています。
でも死ぬ気になれば三十路を迎えたおいらでも大概のことが出来てしまうと言う事実もあるんですよね.......
なんだか複雑です。
少しまた写真やStationery、Computer、そして何より読書や聖書の研究にどっぷり浸って「生きる意義」について黙想しようと思います。
しかし人というのは「生」にしがみついてどんなにしてでも生きようとします。
死ぬ事への恐怖というのは、いざ死ぬと決まると受け入れることが出来るものなのだと言うことも解らずに闇雲にお金をつぎ込み家族に負担が掛かる事がわかっていても「生きる」というのは負担をかけている本人にとって非常に辛いことなんですけどね~。
おいらは命に関わるような外的というか肉体的(ハードとしての身体)な病気に掛かったことはありません。
不謹慎なことなのは解っているのですが、身体の病気もしくは怪我というのは羨ましいと考えることが良くあります。
自殺というのは人として間違っている死に方です。
でも習慣的に考えているおいらとしては死ぬ方法としての「病気」や「怪我」に遭って死んでいけることはどれほど楽になれるだろうかとよく考えます。
肉体的な病気や怪我、事故などでは死ぬまでを「闘病」と言う言葉が用いられます。
そして死んだときに「よく頑張った」とか「良く耐えた」と言われます。
しかし自殺で死ぬ人がどれほど苦しんでいたのかには全く理解が示されない風潮があり、精神障害を煩っている人間は時に「変人」扱いまでされる始末です。
精神的に追いつめられることのどれほど苦しいことかを理解できない人間に自殺する人を評価する権利なんか無いと良く思うわけですよ。
「命を粗末にするな」と言う言葉は自殺を逆に促進しているのだと思えてなりません。
正直なことを書くと昨年と今年は親族や知人が数人亡くなって精神的に不安定になっているんですな。
特に最近亡くなった方は知っているからこそ余計に辛いんですよ。
外面はかなり明るく振る舞っていますが、一人でいるときは「生きること」についてよく考えています。
また逆に「死ぬこと」についても考えるんですな。
死ぬ準備が出来ているのかというと今まで「死にたい」という記事を書いてきておきながら全く出来ていないことに気がつきました。
よって身の回りを整理して置くことも考えなければならないんだと思いますな。
もし痕跡があれば他の人に感傷に少しでも浸らせてしまうでしょうからね~。
良く吟味すると多くのモノにおいらの痕跡というモノが残っていることに気がついきました。
このままでは迂闊に死ねないな~と他の人の死を通して理解することが出来ました。
もう少し時間を取って真剣に身の回りを整理していかなければならないでしょう。
気持ちの落ち込みというのは変なものですね~。
ネガティブなことしか考えられないようになっていきます。
特に一人になったときは「生きるか死ぬか」と言うことをよく考えています。
でも死ぬ気になれば三十路を迎えたおいらでも大概のことが出来てしまうと言う事実もあるんですよね.......
なんだか複雑です。
少しまた写真やStationery、Computer、そして何より読書や聖書の研究にどっぷり浸って「生きる意義」について黙想しようと思います。
ご迷惑でしたらお赦しください。
自分が日頃から考えていることですが
人は一体、何のために生きているのでしょうか?
人はどこから来て
何のために生きて
どこへ向かっているのでしょうか。
神の存在、愛とは何か、生きる意味は何か、死とは何かな
どの問題などについて、ブログで分かりやすく聖書から福音
を書き綴っています。ひまなときにご訪問下さい。
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/
(聖書のことば)
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところ
に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイの福音書11:28)。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛
している。」(イザヤ書43:4)。
★私のブログから----------。
「生きる目的は一体何か」
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/m/200705
「人生の目的と意味は何か」
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/d/20060519
★彡★☆彡☆★彡★☆彡☆★彡★☆彡☆★
こんな辺境Blogにようこそお越し下さいました。
Welcomeです。
ゴーギャンの絵はNHKでも用いられていて有名ですよね~。
しかし生きる意味というのは、神を知り、生きることを認識している人には当然のように理解できることなのでしょう。
貴重な助言を頂き非常に恐縮です。
読み親しんだ言葉なので知ってはいるのですがね~.......
おいら自身にはそこまでの価値を見いだせないというのが正直なところです。
「人の道はその人に属していない」と言う聖句もありおいらの考えが正しいはずもないことはわかっているんです。
自己矛盾に苛まれていると言うことなんですな。
もしおいらが自身に生きることを肯定できるのであれば、生きる目的は他の人よりも非常に多いモノとなるでしょう。
でも今の精神状態では肯定できるべくもなく、己を否定し続けているわけです。
よって書き綴っていることは表面的でこれでもソフトに書いている事なんですよ。
生きる目的は聖書的な答えとしては
「神と共に生きること」
以上の答えはないでしょう。
知識としては知っていても自身の「生」を肯定できないのですから難しいのです。
自身の「肯定」と「否定」の狭間で苦しんでいるんですな。
でも記事を読ませて頂きましたが、とても参考になりました。
感謝します。
また学んだことで良いことがあれば教えて下さい。
おねがいします。